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マリーナはインク壺にペンを差し込んだ。
すぐ傍にいるのは、このスワットン伯爵家の執事長のトムだ。
ふくよかで横にも縦にも大きなトムは、全体的にふよふよしていて安心感がある。
夫であるトリニティは、今日は領で一番の事業である魔水晶の加工工房へ視察にでかけている。
(ひたすらに愛の言葉を紡がれない時間はなんて穏やかで平和なのかしら)
彼が屋敷にいない間、スワットン伯爵の妻としてトムを補佐にして与えられた自身の執務室でこうして仕事をしていた。
「あれが普通なの? 新婚ってこういうもの……? 言葉全部が恥ずかしくて困ってしまうわ」
カリカリとペンを走らせながら呟いたことに、トムは苦笑をもらす。
「おそらく先代を真似てらっしゃるのでしょう」
「先代って、お義父様のことよね……?」
「えぇ、えぇ。お二人はとても仲がよいご夫婦でしたので、トリニティ様はああいう夫婦像を理想としてらっしゃるのではないかと」
「そうなのね。でも……あまりにも距離感がなさすぎて戸惑うと言うか……やっぱり困るわ」
彼が理想としている夫婦像は、どうやら彼の両親からきているらしい。
トムの説明にやっと納得はできた。
けれどそれは、互いに愛しあっていたからこその仲睦まじさだったはずだ。
マリーナとトリニティは、つい十日前に初めて会った間柄。
婚約自体は二年ほど前からだったけれど、彼の父親が亡くなって急に後を継ぐことになり忙しくなり、かつ互いの領地が遠方でもあり、結局顔合わせが結婚ギリギリになってしまったのだ。
手紙のやりとりでは、婚約者らしく『会えるのを楽しみにしている』とか書いたりもしたけれど、あくまで婚約者らしくふるまった結果であって本心ではない。
「ふふっ。旦那様の愛妻家ぶりはこのスワットンでも随一でございますね」
部屋のすみでお茶を入れてくれながらクスクス笑ったのは、メイド長のメリット。
トムもメリットもマリーナの親世代で、年の功なのかまるで微笑ましいものを見ているかのような様子で、深刻に捉えてなんてくれない。
こっちは恥ずかしいし訳が分からないしで大変なのに、彼らにとっては新婚のいちゃいちゃを見せつけられているだけらしい。
「うぅ……ねぇメリット? もうちょっとゆっくり進めたらどうかとか、トリニティ様にアドバイスしてくれたりしないかしら……?」
「まぁ、マリーナ様の奥手さに合わせていたら、お世継ぎが何年後になるか想像もできませんわ。大切にされているのですからもっと自信をもって、素直に甘えてさしあげてくださいな」
「自信と言われても……むずかしいわ」
ため息を吐きつつ、とりあえず自分のするべきことに集中することにする。
貴族の妻の仕事は、主に社交と屋敷内の管理。
スワットンへ新参者として来たばかりのマリーナは、顔繋ぎを作る為に領地内外の仲良くしておくべき家々の奥方との茶会を開くべく準備中だ。
結婚して最初に招待する客人だから、特に重要だと全文を手書きしている最中だった。
社交シーズンに入れば王都へ移動しなければならない。
一定以上の爵位貴族が婚姻したとき、王へ報告することは絶対に不可欠。
そして特産である水の魔水晶の取引は、各地の貴族が集結する社交シーズンの王都で主な商談が行われる。
それまでにスワットン領内の有力者との顔繋ぎはすべて終えておきたいから、週に三度は客人を招待しての茶会が必要になるだろう。相当せわしないスケジュールだ。
マリーナが個別の好みを勉強してる暇はなく、ある程度は使用人に任せなくては立ち行かない。
「相手に合わせてのお菓子やお茶の厳選、テーブルセッティングはメリットに任せてしまってもいいかしら。会場の警備と使用人の配置指示はトムにお願いするわ。あぁ、でもどれも決まったら事前に報告はしてちょうだいね。聞かれた時に説明できるようにしておかないといけないもの」
「畏まりました」
「お任せくださいませ」
トムもメリットもとても協力的で、話はトントン拍子に進んでいく。
(使用人や領民に冷たい態度をとられても、時間をかけて分かり合って行こうなんて決意をして嫁いできたのに。想像と違い過ぎるわね)
マリーナの実家であるクモラ伯爵領と、トリニティの収めるスワットン伯爵領は良好な関係とは言い難い。
同じ爵位に同じ程度の領土規模。
さらに同じように魔水晶産業が栄えていて、隣りあっている……というわけで、何かと張り合っているのだ。
それでも名目上は友好のために……実際には、色々な事業利益を考察したうえでの取引としてこの婚姻は成立した。
いがみ合っている領地間の仲にあきれた、よその上位貴族たちが友好的になれと後押ししてきたのも大きい。
……絶対に最初から良い扱いはされないだろうと覚悟していたのに。
結果は全然ちがった。
そして領主であるトリニティも優しいし、スワットンの屋敷の使用人たちもとても良くしてくれている。
外の領民たちはまた違う態度なのだろうが、今マリーナの傍に居る人はみんな友好的だ。
――仕事が一心地ついて、机の上を片づけているとき。
メリットが気づかわしげに訊ねてきた。
「優しくされることの、何がご不満なのでしょうか」
「それは……」
マリーナがずっと困惑していることを気にしてくれているのだろう。
でもマリーナは上手く答えられなくて口籠ってしまう。
(なにもかも。態度も言葉も人柄も、彼の全てが信じられないなんて言ったら、きっとがっかりするわ)
「なんとなくよ。まだ慣れていないだけなのでしょうね……」
「さようでございますか」
マリーナは苦笑して誤魔化した。
だってあまりにトリニティを嫌っているような態度を強めすぎると、嫁いで来たばかりの新参者のマリーナの立場の方が悪くなる。
まだまだ余所の人扱いされている状態の自分が大っぴらに彼らの主の文句を言い過ぎるのはよくないだろうと思ったのだ。
ここで生きていくのに、馴染めなくなるかもしれないのは怖かった。
せっかく優しくしてくれているのに、やはりクモラ領のものは意地が悪かったと嫌われるわけにはいかないのだ。