そのドアを開けるのはあなた。
処女作です。 宜しくお願いします。
久しぶりに晴れた6月のある土曜日の昼。
気温はまだ然程高くはなく、南から吹く心地よい風が
朝一番に干された洗濯物を穏やかに揺らしている。
ユカリはキッチンからベランダへと続くサッシ戸を開け放して、
大好物のカルボナーラを作っていた。
ベーコンの焼ける香ばしいかおりが、
狭いながらもカントリー風にまとめられた可愛らしいキッチンに立ち込めていた。
ご機嫌な鼻歌がつい漏れる。
ユカリがここに住むようになって かれこれ15年の年月が流れようとしている。
キッチンに飾られた西洋風の洒落た小物や小型の家具は、
彼女が勤めを始めた頃から 少しづつ増えていったものだ。
ユカリはアメリカの片田舎風が好きだった。
えんじと生成りと紺色のカントリーな星条旗カラーが、
味気なく安っぽいキッチンを ほんの少しだけれど、
遠い憧れの国のものにしてくれていた。
ユカリは2人用の白木のダイニングテーブルの椅子に腰を下ろして
パスタを茹でる湯が沸くのを待っていた。
「なんていい日だろう。」
ユラユラと鍋から立ち上る湯気を見ながら、ユカリは、
年を追うごとに価値が下がっていくような自分の人生に
小さなプレゼントが届いたような、そんな気分だった。
金属製の物干し竿に反射した光が ユカリの顔を照らして
ユカリはふと ベランダに意識を向けた。
路上を行き交う人や車の音がザワザワと聞こえている。
日常の平穏な音だ。
ユカリは 目覚めたばかりの まどろみの中にいるような感覚で
雑音に耳を傾けていた。
すると その音の中に ふと、男性の低い声がボソボソと聞こえてきた。
ユカリは 少し怪訝な表情になり 耳を澄ますと
その声は 隣のベランダから聞こえてきているようだった。
ユカリの体は反射的に強張った。
そして、ふいにタバコの臭いが入りこんできたかと思うと
隣との仕切りのすぐ向こう側から
薄っすらと煙が流れてくるのが見えた。
ユカリの心拍数が一気に上がり いてもたってもいられない気分に駆られた。
「ちょっと何?!このにおい!タバコ? くっさい!! 最低!」
ユカリは わざと聞こえるようにそう言うと、力任せにサッシ戸を閉めた。
「うるせえ。ばばあ。」
戸が閉まる寸前に隣から吐き捨てるような男の声がした。
と、同時にゲラゲラと笑う女の声が聞こえた。
ユカリは動悸がして 身を強張らせた。
「気持ちのいい日だったのに!!そして、それが一日中続くと思ってたのに!!」
ユカリは換気扇のスイッチを入れると、涙が出そうになった・・・。
3ヶ月前までは、隣の部屋には同年代の女性が住んでいた。
彼女も勤め人で、朝、時々最寄駅で見かけることもあった。
大人しそうな女性だったし、向こうもあえてユカリと接することを欲してはいないようだったので、
挨拶程度の近所付き合いだったが、互いに常識をわきまえていたから
長い年月の間にも何ひとつ問題は起きなかった。
そんな彼女が、3ヶ月前のある日 ふいにユカリの部屋のドアベルを鳴らした。
「私、引っ越すことになって・・。」
そう言うと、山梨銘菓の信玄餅を差し出してきた。
「彼の実家が山梨なんです・・。」
消えてしまいそうな声ではあったが、幸せいっぱいの笑みを湛えていた。
「ご結婚・・・なさるんですか?」
「・・・ええ・・やっと・・。」
悪気はなさそうだが、三十路をとうに過ぎたアラフォー独身女にとってはぐさりとくる一言だった。
ユカリの顔が一瞬、沈んだように見えたのか隣人女性は、
「お付き合いは ほとんどありませんでしたが・・」と口早に言うと
「お世話になりました。」と会釈をしてユカリの次の言葉を待つことなく
踵をかえして立ち去ってしまった。
赤地に白い桔梗柄の巾着袋を所在無し気にぶら下げながら
ユカリは隣人の後ろ姿を見るとなく見ていた。
それから間もなくして、彼女は出て行き、新しい入居者が荷物を運び入れた。
それが、あのタバコ男だった。
挨拶もろくにしない。 名前も名乗らない。
一応どこかで働いてはいるようだったが9時~5時の仕事ではなさそうだった。
深夜に帰宅しては、テレビやステレオの音を絞らずにかけるし
ドアもバタンと大きな音をたてて閉めた。
一晩中がたがたと音をたて、頻繁に女がやってきては、恥じらいも遠慮もなく
あえぎ声を上げたりした。
表向きはマンションだが、所詮は賃貸の独身者専用だ。
壁なんてペラッペラに近かった・・・。
同期の吉村が、突然会社を辞めることになった。
彼の父親が倒れ、家業を継がなければならなくなったらしい。
ユカリは、とある金曜日に飲みに誘われ
いち早くそのことを知った。
「部長から話があると思うけど・・・俺の顧客の半分は
ユカリが担当することになるから・・。」
そう言うと、吉村は手酌でついだビールを喉に流し込むように飲み干した。
「これ、顧客のリスト。俺が辞めるまで、半月くらいしかねんだ。
一応農家だからさ・・・今、一番忙しい時季で・・。お袋だけじゃ回らねえから、
会社には申し訳ないけど無理きいてもらったんだ。」
「ふうん・・・。」ユカリは、鼻を鳴らしてリストを受け取った。
吉村の顧客のことは、それまであまり良く知らなかった。
顧客の現住所を見ると聞きなれないものが多い。
「これって・・どの辺り?」
「結構、田舎の方だよ。」
「そんな感じだねえ・・・。そういえば、吉村って直行直帰多かったもんね。」
「まあな。・・・このリストの郊外の顧客は ほとんど俺が新規開拓したものだ。
・・・なんつーかよ。俺なんか 会社に夢も希望もなくて
やってらんねえみたいな思いがあってさ。
ボーっと逆方向の電車に揺られて、終点まで行って
何にもしねえで 時間潰したりしてさ。
その合間に ちょこっと回った会社が
ずっと俺を信頼してくれて 長い付き合いになって
今まで俺を支えてくれてたってわけ。」
「へえ。そうだったんだ。」
吉村は再びビールを飲み干すと
「お前も少し、のんびりしろや。」と笑ってみせた。
顧客リストを片手に、ユカリは電車のホームに立っていた。
都心から西へ走る路線の急行電車に30分ほど乗って
乗り換え駅で降りると、
ホームの向かい側に停車している電車に乗った。
昼間の時間帯ということもあるが、乗客は数えるほどしかいない。
車両も短く、この電車がどんなところへ向かっているのかを
想像するのは容易なことだった。
ユカリが乗り込んでから、10分経過しても出発する気配はない。
ぶおお~というエアコンの音が、車内に響いている。
電車のエアコンのにおいに、ユカリは夏を感じた。
陽射しの入り込む昼間の車内には のんびりとした時が流れていて
ユカリは思わず大きな欠伸をした。
顧客への挨拶回りは、案外とスムースに運び
午後の1時には 予定していた先を全て回り終えていた。
「お昼、どうしよう。」
始めに降り立った駅に戻ったユカリは
駅から伸びる商店街へと足を向けた。
駅に近い入り口付近には 賑やかな100円ショップとか
ドラッグストアやファストフード店が軒を連ねている。
歩道にまで置かれた商品に目をやりながら
ユカリはぶらぶらと歩いて行った。
頭上からの日の光は、大分夏めいていて
アスファルトの照り返しもあり
長く歩くには少々暑いようだ。
ユカリはランチに集中して店を探した。
「喫茶・白ばら」
歩道に置かれた四角い看板が目に入った。
「うわ~。なんか、懐かしい感じ・・」
ユカリは羽目ガラスのドアから中を伺い見た。
ヘタレた1人がけのソファが
小さなテーブルに向かい合って置かれているのが見えた。
衝立と植物のせいで奥が見えないが、とりあえず、ドアを開けてみた。
カラン カラン・・・とカウベルが鳴って
客が来たことを店主に知らせたが 誰も出て来る気配がない。
ユカリは勝手に窓際の席につくと
壁に貼られた手書きのメニューを見回した。
「いらっしゃいませえ。」と言いながら
ようやく奥から 赤いエプロンをした小柄なおばさんが出てきて
ユカリの座ったテーブルに水を置いた。
ユカリはポークジンジャーのランチセットを頼んだ。
コップの水を口に含みながら
ユカリはあらためて店内を見た。
レンガ風の壁には、金色の装飾を施した額縁が掛かっている。
全体的にこげ茶色の家具は
時を経て 色あせてしまっているようだ。
アンティークなどという特別に収集されたものではなく
開店当初からそこにあったというだけのもののようだった。
取り残されたような空間に 今の自分があてはまる。
吉村も 元隣りの住人も・・・。
遠い昔・・・こんな喫茶店でいつも一緒に過ごした恋人や
彼の前で笑い転げていた あの頃の自分さえも・・・
みんな みんないなくなってしまった・・・・。
そんなことを考えていたら 突然 涙がこみ上げてきた。
ユカリは口をへの字に曲げて
「泣くもんか・・・。」と思ったけれど
涙はとめどなく流れてきて
唇が小刻みに震えた・・・。
「大丈夫ですか・・・?」
優しそうな声がして
ランチセットが運ばれてきた。
***
変わりたい。
いや、変えたい。
喫茶店で涙して以来
ユカリの中で そんな思いが強くなっていった。
「私も引越し しようかな・・。」
次の土曜日。
ユカリは再び「白バラ」に足を向けた。
引越しをするなら「白バラ」がある あの町がいいと思ったのだ。
羽目ガラスのドアを開けると
あの日と同じおばさんが「あら」という顔で出迎えてくれた。
今日はあの日より客入りがいい。
休みの日の午前中。
ほとんどが常連の顔ぶれという感じだった。
皆、取り残されたこの場所に
もういなくなってしまった遠い日の自分を探しにくるのかもしれない。
ユカリはあの日と同じ席に座って
今日はモーニングセットを注文した。
道路に面したガラスの窓から 午前中の白っぽい光が差し込んでいる。
古びて、みじめなものたちが 光の中で笑っている。
なんて優しいひとコマなのだろう。
受け入れてくれる空気が そこにはあって
ユカリは、幼馴染に再会したような気分になった。
「この辺に不動産屋さんありませんかね・・。」
普段は人見知しりするユカリが
臆することなく常連客と思しき人々に向かって話しかけていた。
「あ~。あるよ。不動産屋なら。ねえ、小池さんのところ不動産屋だよねえ。」
丸顔で元気のよさそうな初老女性がいち早く答えた。
「うんうん。そうそう。・・小池さんね。小池さんち。行ってごらんなさいよ。」
「・・こ、小池さん・・ですか。 あの、私、小池さんって方 知らないんですけど・・。」
「あ、あら、やだ!そうよ~。この方この辺の人じゃないでしょ。」
常連のおばちゃんたちは そう言ってゲラゲラ笑った。
ユカリは、あっけにとられてしまったが
おばちゃんたちの笑い声に思わず噴出してしまった。
「何?あなた、アパートかなんか探してるの?」
「はい。・・」
「お子さんは? 何人いらっしゃるの?」
「・・え?・・いえ、まだ、独身でして・・・。」
ユカリは雰囲気が悪くなるのを恐れたが
おばちゃんたちは、そんなこと全く意に関せず
「あら、やだあ~。」と、またゲラゲラと大声で笑った。
喫茶「白バラ」から歩いて5分位のところに
不動産屋の小池さんのお宅があった。
古いドラマかコメディーに出てきそうな
ガラスの引き戸には、隙間なく物件情報のチラシが貼られていた。
ぱっと見た感じ、どれも比較的大きな家族向けのマンションの様だ。
それでもユカリは思い切って引き戸を開けた。
ガラガラガラと信じられないほど大きな音がした。
思ったほど狭くはない広さの中に
事務員用の机が置いてあって 反対側にテーブルとソファがあった。
「いらっしゃいませ。」
と声がして 派手めの若い女性が大きな観葉植物の向こうから立ち上がった。
「お部屋をお探しですかあ?」
と、ちょっとぶっきらぼうにユカリに聞いた。
「駅から然程遠くないところに、一人暮らし用のアパートありませんかね?」
「何件かありますけど、どういった部屋をご希望ですかあ?」
「えーと、そうですねえ・・・」
ユカリが、そう言い掛けたとき 大きな音を立てて引き戸が開いた。
「ひゃー、暑くなってきたってーもんじゃないよ。さやちゃん、麦茶。麦茶入れて。」
そう行って60代くらいの男性が入ってきた。
「社長!お客さんです!」
「あ、お客さん? あ、これは、これは失礼しました!」
「いえ、あの、小池さん・・・ですか?」
「そうそう。小池です。」
「喫茶白バラでこちらの不動産屋さんを紹介して頂いたんです。」
「あ、そう。誰だろうな。どんな人だった?紹介してくれた人ってのは。」
「丸顔で・・元気のよい女性でしたけど・・。」
「あ、分かった。分かった。ありがと。いやね、やっぱ後で礼を言わんとさ。
・・・えーっと、ところでどういった物件をお探しですか?」
「駅周辺の単身用アパートですって。」
「なるほどねえ。・・・えーっと、いくつかあるよね。さやちゃん。」
そういって大きなバインダーファイルを取り出した。
「パソコンは、どうも苦手でねえ。」と笑ってみせた。
そして右手の人差し指を軽く舐めてファイルのページを大雑把にめくった。
ユカリは立地条件や家賃などの希望を伝えると後はおまかせしようと
ソファに深く座り直して、さやちゃんが持ってきた麦茶を頂いた。
「うーん。・・・今は時期が悪いね。春にはね、結構あったんだけど。やっぱ、ほら。
そういう時期でしょ。うーん。今は出切っちゃった感じだなあー。
幾つかあるけど、かなり古いやな。
なんだ、こりゃ、風呂・便所兼用なんてのもあるぞ。・・さやちゃん、これ、いつのファイルだ。」
「新しいですよ。その物件。先月入ってきたばかりです。」
「ほんとかよー。」
小池社長と事務員のさやちゃんは、まるで親子のようで、ここは職場でありながら
ユカリのところのような殺伐とした空気はまるでなかった。
「一軒家ならひとつあるんだけどね。」
小池社長は少し諦めた感じで言ってきた。目はまだファイルに向けられている。
「一軒家? 賃貸の一軒家があるんですか?」
ユカリは驚いたように言った。
「うん。平屋の小さい家だけどね。この辺りは治安もそう悪くないよ。
駅からは少しあるけどね。」
「それ、見せてもらえませんか?」
ユカリは、咄嗟にそう言っていた。
「一軒家なら隣の住人に悩まされることもないかもしれない!」
そう思った。
引っ越しが決まってから
ユカリは思い切って隣のドアをノックした。
飛ぶ鳥跡を濁さず・・。そう思って、あの元隣人女性が挨拶に訪れたように
ユカリも菓子折りを持って気持ちよく出ていこうと思ったのだ。
ドアが細く開いて、細目の男が覗き見るようにユカリを見た。
「何か・・?」
男は日頃のことで文句を言いに来たと思ったのか
睨み付けるような目つきと 少し開いたままの口で威嚇している様だった。
「あの・・・。実は、私、今週末に引っ越すことになりまして・・。」
ユカリは穏やかな口調でそう言った。
「お付き合いはありませんでしたが、一応ご挨拶をと思いまして・・・。」
すると、男は驚いたような表情を見せると、ドアをきちんと開けユカリの前に立った。
そして「はあ。」と言うと軽く会釈をした。
部屋に戻って後ろ手にドアを閉めると ユカリは思わず微笑んだ。
長年住んだこのアパートでの日々が
最後の3か月間のイヤな記憶で塗りつぶされそうになっていたけれど
思い切って挨拶に行って 彼と言葉を交わして良かったと思った。
最後の最後に知ったお隣さんの名前は 裕也君だった。
引っ越し当日は、作り始めの綿アメみたいな、
薄い雲が空一面に広がった気持ちの良い晴れの日だった。
15年の間に買い揃えた家具は、引っ越し業者によって丁寧に梱包されて
手際よく運び出され、段ボールの荷物もあっという間に部屋からなくなった。
ユカリは、ガランとした部屋の中央に立って360度、ぐるりと見まわした。
「シェルター・・・だったな。」
ユカリはそう呟くと、ほんの少し、出ていくことを後悔した。
「ここが、全てだった。 この部屋が、私をずっと守ってくれてた・・。」
そんなことを思うと涙が出た。
「ありがとう。」
心から、そう思った。
通いなれた駅までの道も これが最後なのかと思うと胸が熱くなって
もっとゆっくりと歩きたかったけれど
新居では引っ越し業者が待機しているはずなので そうもしていられなかった。
そして、小さな単線の駅に降り立つと
白バラのある商店街を少し早い歩調で歩いた。
新居に到着すると、引っ越し業者がユカリのことを待っていた。
「すみません。」と言いつつ、家の玄関の鍵を開けると
2人の作業員が 早速作業に取り掛かった。
大まかな家具の運び入れが終わった辺りで
ユカリは作業員に飲み物とお菓子を差し入れて、休憩を促した。
すると一人の男性作業員が 飲み物を片手に台所へと入っていった。
ユカリは、その作業員が何をしに行ったのか 少し気になり
自分も何気なく台所へと移動した。
すると、彼は台所の一角を見つめていた。
「あの・・何かありましたか?」
ユカリが聞くと
「あ、いや、すみません。 別に・・。」
と、はにかんだ笑みを浮かべて、そう言った。
ユカリは、彼が見つめていたところに目を近づけて まじまじと見た。
「ああ、柱の傷。背比べですかね? 名前も書いてある。カズヤだって。」
彼は、相変わらずはにかんだ笑みを浮かべながら、その傷をじっと見ていた。
そして、
「これ、僕の背丈なんです。」
「え!?」
「僕、かずやといいます。子供の頃、ここに住んでたんです。」
「ええええ?!!」
「まだ、残ってるんですね。 信じられないなあ。」
作業員は、そう言うと懐かしそうに傷を指でなぞり、目を細めた。
すっかり柱と同色化した傷は、随分と古いもののようで
そのとき、ユカリは、カズヤが自分と同じくらいの年なんだろうなと思った。
明るい初夏の陽射しが 台所の曇りガラスを白く光らせている。
ユカリとカズヤは、何も言わず
柱の傷と穏やかに流れる時の中に 楽しかった自分の子供時代を見ていた。
「あの・・この傷と名前の写真、撮らせて頂けないでしょうか。」
カズヤは、そう言うと ユカリをジッと見つめてきた。
ユカリは、カズヤの優しそうな目に、少しドキドキしながら
「ええ、どうぞ。」と答えた。
一連の引っ越し作業がすっかり終わると
カズヤともう一人の作業員は、ユカリに確認の判子をもらい帰っていった。
もう日が傾いている。
「出前でもとって、食事をしていってもらえばよかったかな。」
ユカリはそんなことを考えていた。
慣れない家に一人でいると 何となく心細くなった。
静まり返る部屋を見まわしていると ふと、カズヤを思い出した。
「カズヤ少年は、どんな子だったのかしら。」
そう口ずさむと、心細さが消え温かい気持ちになった。
新居に移って 3か月が経ち 季節は秋になろうとしていた。
その間、ご近所に顔見知りも出来
喫茶白バラの常連客の仲間入りも果たした。
通勤時間は長くなってしまったが
新しい土地での生活は ユカリを孤独から解放してくれた。
そして、そんなある日。
郵便受けの中に 一通の手紙が入っていた。
切手が貼っていなかったので、差出人が直接届けに来たようだった。
封筒の裏には 岡本和也と書かれていた。
ユカリは、始め誰のことだか分からず、一瞬たじろいでしまったが
恐る恐る封を開け、中の手紙を読むと
それが、引っ越しの時の作業員だと分かった。
「前略、不躾にこのような手紙を 届けさせて頂いくことをお許し下さい。
先日、引っ越しの際に撮らせて頂いた、台所の柱の傷の写真を
母に見せましたところ、大変喜んでおりまして
僕の希望で、出来ましたら、直接、母にもあの傷と名前を見せてあげたいと
思ってしまっております。
見ず知らずの者を ご自宅にあげて頂くなど 図々しいお願いとは承知しておりますが
年老いた母のために 良いお返事を頂けますよう
何卒よろしくお願い申し上げます。
岡本和也」
手紙の最後に、カズヤの電話番号が記されていた。
ユカリは 何やら素敵な予感を感じながら
ゆるやかな光の中 電話を手に取った。
抜けるような澄んだ青空が広がる土曜日の午後。
ユカリは 少し落ち着かない心持でいた。
居間の座卓には 3人分のお茶の準備がしてある。
ユカリが 柱時計に目をやると
ドアベルが鳴り 「ごめんください。」というカズヤの声が聞こえた。
「なんていい日だろう。」
ユカリは呟きながら 玄関へと向かった。
The-end
読んで頂きありがとうございました。