―チアキ―
「……ごめんなさい」
どれ程時が経ったのだろう。アーノイスとオルヴスは二人隣り合わせで、礼拝堂のベンチに座り込み、お互い言葉を発するでも寝るでもなく、少し体を揺らせば触れ合う、そんな微妙な距離で無音の時を過ごしていた。時間としては最初から深夜の邂逅であったし、礼拝堂内はステンドグラスの明かりでずっと変わらない光に灯されている。時計もここにはない。だから時間はわからない。もしかしたらもう何時間も過ぎていたのかもしれないし、数秒の沈黙であったのかもしれない。どちらにせよ、永遠に思われたその静寂を破ったのはアーノイスの謝罪であった。顔はオルヴスの方には向けず下を向いて、彼もまた聞いてはいるのだが視線は彼方に固定したままで。
「何だか、ずるい質問だったわ。誘導尋問だったのかもしれない。でも……そうね。答えてくれて、あ、ありがとう……」
アーノイスはずっと考えていた。果たしてこれで良かったのかと。彼がチアキである事を知らなければ、わからないままでいれば、これまでと変わらない時を過ごす事になっていて、それが本当は一番良かったんじゃないかと。先程までは、彼の事が知りたい一心でいっぱいいっだったが、時間の力を借りて幾分か冷静になった彼女の頭は苦悩の二文字がちらついて消えない。だからか、彼女ははじめに謝罪を口にして、そして礼を述べた。どちらもが本心であった。
「僕は……本当は自分が誰かなんて、どうでもいいと思っていました。それでも、親を殺し家を失い、帰る場所も行く所も無くなった僕という存在の中に、唯一残っていたのがアノ様。貴女を護るという記憶でした」
オルヴスもまた、長い沈黙を破ってアーノイスへ向けて語り出す。
「ただ、だんだんと怖くなっていったんです。僕は本当にチアキなのか。チアキを演じていただけなんじゃないかと。だから僕はオルヴスとして、ただの器として生きる事にしたんです。とはいっても、名乗っているだけに過ぎなかったようですが」
自嘲気味に笑うオルヴス。これまで自分の事など殆ど語って来なかった彼だが、今ばかりはこれまでを埋めるかのように言葉が紡がれていた。
「でも、アノ様が鍵乙女として世に公表されるまでには時間がありました。その間僕は世界を回り見聞を広め、貴女が世界へ広められる時を待っていました。そして従盾騎士を決める為の御前試合の事を耳にし……後はアノ様も知る通りです。本当ならちゃんとエントリーして参加するつもりだったのですが、予定外に船が遅れてしまったもので、あのような形になってしまいましたが」
言われ、アーノイスは数年前の御前試合の事を思い出す。圧倒的な実力で優勝したグリムの眼の前に、突然現れた黒い外套に身を包んだ青年の姿を。誰がどうみても不審な、ともすれば襲撃者にしか見えなかった彼。だが、アーノイスはその登場に驚きはしたものの、恐怖は感じていなかった。そして彼はグリムと戦い、そして勝利した。会場は滅茶苦茶に、見物に来ていた民間人や教会の信者達も散り散りに逃げ、掲剣騎士団ですら近づくのを躊躇う程に凄まじい戦闘を、アーノイスは恐らく一番近くで見ていただろう。彼女を護るべく両隣りに居たメルシアとダズホーンを押し退けて、見えもしないその戦いを見ていた。グリムと互角以上に渡り合うことに驚いたのも確かだったが、それ以上に、彼女はその青年に何処か懐かしさを感じていたのだ。
「私は……あの時から、貴方がチアキなんじゃないか、って薄々思っていたわ。でも、彼は私の眼の前で死んでしまった、父が、殺した。だから有り得ないってずっと否定してきたわ」
眼を閉じれば今でも瞼の裏に映し出される幼き日の一幕。全てを塵と化す青白い魔性の火が立ち上るその様を。
「……以前、僕がアノ様にお聞きしたことを覚えていますか?」
何のことだろう、とアーノイスは閉じていた眼を開けて隣に座るオルヴスの横顔を見る。彼の瞳はまた伏せられているが、その口元にはどうしようもなく嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「あれは僕が従盾騎士としてはじめてアノ様の“儀式”に立ち会った後日でした。霊魂の声に苛まれ気を失った貴女に、僕はこう聴きました。『何故貴女は鍵乙女たろうとするのですか』と」
ああ、とアーノイスは思わず口を開いた。確かに、そんな事があった。従盾騎士という立場の筈なのに、この人は一体何を言っているのだろう、と彼女は疑念を抱いた事も思いだす。教会の人間ならば、その映えある従盾騎士という唯一の人間ならば決して口にはしないだろう事だからだ。
「その時、貴女は答えてくれました。幼き日に自分を護ってくれたという少年の事。その少年の末路。そして、貴女がその少年に誓った伝えられなかった約束――」
オルヴスの言葉の後を、アーノイスは淀みなく引き継ぐ。その言葉だけは、どうしても自分の口から言いたかったから。
「私は、貴方が護ると誓ってくれたこの身で、私の為すべき事をするから」
一字一句、間違えた事はない約束の台詞。それは唱えたのは、彼の処刑を目の当たりにしたその日の深夜だったか。泣き疲れ果て、気付けば浮かんでいた満月に唱えた独白。その翌日には彼女はロロハルロント国を出た。彼を殺した父と共に居たくなかったのもあったが、それ以上に彼女は早く鍵乙女という使命を全うすべく生きたかったのだ。だがそれは、誰にも語らず、人知れず心の内に刻み込んでいた想い。言葉にしてはいけない気がしていた。誰にも秘密だった筈だった。だが、アーノイスは当時のオルヴスにそれを語っていた。どうしてだろうと考えたアーノイス。今なら理由が分かった。彼女は知らず知らずの内に、オルヴスにチアキを重ねていたのだと。いつしかそれが願望になり、その所為で確かめるのが怖くなっていたのだった。
アーノイスのその言葉を聴くと、オルヴスは席を立ち、そして座る彼女の眼の前に膝を着いた。眼は開いて、真っ直ぐにアーノイスを見ている。
「人を殺める術しか持たない僕を、憶えてくれていた貴女の存在が、言葉が、どれだけ僕を救ってくれたか……僕は……本当に、嬉しかったんです」
告げられた台詞は、末尾になるにつれて震えていた。二筋の涙が、彼の頬に痕を残す。そんな顔を見せたくないのか項垂れたオルヴスの頭を、アーノイスは自然に抱き寄せた。いつも何処か飄々としていて、頬笑みを絶やさない彼が今ばかりは、年相応の青年に見える。アーノイスは常々、どういう生き方をしてきたらこんなにも強くなるのだろう、と彼の背を見て考えていた。それは、チアキという少年に会った時も抱いていた事だった。力に限った話ではなく、迷いや躊躇いを決して見せない頬笑みの裏は、一体何に支えられているのだろうと。その彼が今こうして崩れ落ちている様が、アーノイスには形容しがたく切なく愛しく感じられた。理由は知らない。だが、彼は従盾騎士候補となり、両親に呪印交霊という名の禁呪をかけられた。その結果術を施した両親はおろかその場に居た関係のない人々の命までもその身に喰らわせてしまった。故郷に帰れば家を焼かれ、独りになったのだろう。『人を殺める術しか持たない』と自称する彼は傭兵になって生きていたと言っていた。悲劇、と言葉面では一言で言えるかもしれないその惨状を思い、アーノイスは湧き上がる衝動を抑えられず涙する。
「ごめん……ごめんね……っ」
オルヴスを抱くアーノイスの腕に力が籠る。語る声は涙声で時折嗚咽が発音の邪魔をした。
自分がもっと強ければ、彼にこんな生き方をさせる事もなかったのかもしれないと後悔する。もし、自分が独りでも生き抜けるような強さの持ち主であったならば、彼は呪印交霊なんてものをかけらる事もなかったかもしれない。一月もの間を、無人となった村で過ごす事もなかったかもしれない。もし、自分がもっと聡明であったなら、父王を止め、家を、帰る場所を失わさせる事もなかったのかもしれない。
「助けてあげられなくて……っ……私っ、何も、できなかったから」
彼が生きている事が分かれば、十歳なんて子供頃から傭兵をするなどというふざけた暮らしをさせる事もなかったかもしれない。
「どうしたらっ……貴方がっ、チアキが、許してくれるかなっ、て、ずっと……ずっと!」
全ては、確かに自分を助けてくれたチアキに満足に礼も出来ず、あまつさえ反逆者の汚名を着せて殺した父を止められなかった、自分の無力さ。それを、アーノイスは謝罪した。謝ってばかりだ、と彼女は自分を自分で嗤う。だが、笑みは浮かばなかった。
「……良いんですよ。アノ様」
何が、良いと言うんだろう。そう疑問を浮かべるアーノイスに答えるべくか、静かに、彼は彼女の腕の中から離れる。
「今僕は、チアキ=ヴェソル=ウィジャはこうして、貴女の従盾騎士として貴女を護れるのですから」
そう言って、また一筋の雫を落として、チアキは微笑んだ。