―器―
オルヴスは暗闇の中にいた。
周囲に一切の光はなく、完全なる無の空間。だが、そんな暗闇の中に居て、オルヴスに動揺した様子は見られなかった。目を閉じ、右のこめかみの辺りを掻くいつもの癖を見せながら、何事か思案しているようだった。そんな彼の眼の前に突然、二つの人影が現れる。光がない故にそれは見える筈がないのだが、その人影は黒いキャンパスに上塗りされたようにはっきりと出現していた。来訪者に気付いたのか、オルヴスの瞳が開く。一瞬、怪訝な色が差したかに見えたが、すぐに無表情となった。
「まさか貴方がたが出てくるとはね。これは幻影ですか? だとしたらなんと性質の悪い」
オルヴスの眼の前に居るのは一組の男女。年齢はどちらも三十前後と言ったところだろうか。男の方はオルヴスと同じ黒い髪と金色の瞳。女の方は金髪にオルヴスと同じ黒い瞳だ。そのどちらもが死に装束のような真白い着物に身を包んでいる。それが、交霊術による儀式を行う際の正装である事をオルヴスはよく知っていた。
「私達は幻影などではない」
「そう。私達は貴方の魂にある“影”。この空間は鏡よ」
男女が交互に喋る。表情がない、まるで仮面のような面持ちで言葉を吐くその様は殆ど人形だ。ただ姿を借りて喋らされているような、そんな感じ。
「それはそれは。ご丁寧に説明ありがとうございます……父上、母上」
またオルヴスも感情を表さず、儀礼的な礼をする。だが、それを男女は受け入れなかった。
「父? 母?」
「貴方は何を言っているの?」
「お前は私達の子などではないだろう。幾千幾万の魂と同化した存在」
「言うなれば、生きたままフェルと化した化物でしょうに。貴方は」
両親と呼んだ相手からそれを真っ向から否定され、オルヴスの目線が落ちる。落ち込んでいるようにも見えたが、すぐにその様子も成りを潜め、上げられた彼の顔には無感動な微笑が浮かべられていた。
「化物ですか。まあ、自覚していますよ」
「虚言だな。現にお前は我々を、この姿の存在を父と、母と呼んだ」
「私達はチアキ=ヴェソル=ウィジャの両親であって、貴方の親ではないのよ」
「それはお前が人であった自分を捨てられないからだろう」
「混ざり過ぎた魂で、自分が誰かも言い切れないでしょう、貴方には」
冷たく突きつけられる声に、オルヴスは乾いた笑い声を挙げた。その声は哀しく、この無の空間には痛々しいほど響き渡る。ひとしきり笑い、少し呼吸が辛くなってきたところでようやく笑い声は収まり、オルヴスが言葉を発する為の口を開いた。
「いやはや……随分とはっきりと、的確に言ってくれますね。成る程、あの鏡はこの空間に閉じ込めた者の魂を写しだし、対面させるもの、というわけですか」
この暗闇に囚われる寸前、クオンが取り出していた鏡を思いだしながらオルヴスは言う。恐らくは、誰しもが持つ心の奥の闇を引きずりだし会話させる事で精神を破壊する、とそんなものだろうと彼は憶測した。
「でも何ですかね。こう言っては何ですが、僕とは非常に相性の良い、そして最悪の魔具でしょうね」
オルヴスの右手が自らの顔面を覆い、一拍置いてそこから髪を掻きあげる。同時、彼の内側から染み出した闇が纏わりつき、魔狼の姿へと変貌させる。さらに、それに呼応するかのように周囲の状況も変わった。チアキ=ヴェソル=ウィジャの両親だけであった“影”が、増える。老若男女の別なく実に多くに人間、さらには犬や猫といった動物、虫や木々といった無数の、命を持つ存在が暗闇を埋め尽くさんと現れはじめた。その数は数えるのも面倒なくらいにオルヴスの周囲を囲み無限と思えるくらいに広がっていた。魂を写しだすこの鏡の空間に現出する存在その全てが“オルヴス”という存在に内包されている霊魂だと言う事実に他ならない。
「与えられた力を憎み、疎い、何度も自ら命を絶ち」
「その度に力に生かされ、死を許さぬ牢獄へ数多の命を引きずり込んで来た」
「それでいて尚、その力を振るうのか。無量無辺の器よ」
「ええ。僕にはやるべき事が……いえ、どうしてもやりたい事があるのでね」
男が女が、老人が子供が動物が虫たちが次々に怨嗟の声を吐いて中、魔狼は静かに右手の爪を振り上げる。
「こうして話しているのも時間の無駄です。わざわざ映して頂かなくとも、自分の事ぐらい理解しているのでね」
爪が暗闇を、有象無象の存在を一度に切り裂いた。「さようなら」と、オルヴスの唇が動いたが、果たしてそれが何に向けての言葉だったのか、“誰”が口にしていたのかはわからない。人々と暗黒が消え去り、彼の視界に眩いばかりの光が広がった。