―影―
暗黒の巨大な球体が、白い大地に繭のように座している。光を通さない黒色の亜空間はアーノイス、オルヴス、メルシアの三人をその胎内へと閉じ込め、ソートの森の大半を覆い尽くしてしまっている。白と黒の異様なモノトーンの光景を、しばしクオンは見つめていた。仮面があるので定かではないが、微動だにせず、顎を引いたその姿を見れば誰でもそう思うだろう。
「貴方は、一体」
沈黙に耐えかねたのか、クオンの後方で羽ばたくクルスの背に乗っていたココがそう聞いた。すぐに反応は無かったものの、数秒して、クオンは一人と一匹に振り返った。
「何、姫の身を案じた王に頼まれたまでだ。まさか、教会の最高戦力に捉えられそうになっていたとは思わなかったがな」
そう言って、クオンは喉の奥で笑いを押し殺す。何も面白いところはない、とココは頭上に見えない疑問符を浮かべ、彼女を背に乗せるクルスは警戒の色を強くした。
「ここに居ても仕方がない。鍵乙女に魔女そして魔狼はあの中に閉じ込めたが、もう一人、厄介な騎士がいるからな。それがくればまた一騒動起こる。その前に帰還するとしよう」
未だ表情は半笑いのまま、クオンは左手を挙げた。ココとクルスにはそれが何を意味するのかわからなかったが、答えはすぐ彼の真後ろに現れた。空間が裂け、そこから大鎌を携えたメイド服の女性が現れる。クオンの従者、ユレアであった。
「さあ、ノラル=ボウ=ココ姫。並びにその愛馬クルス殿。こちらへ」
ユレアは裂け目から出てくるなり、ココとクルスに向けて恭しく一礼すると、その腰を折った体勢のまま、先程自分が現れた空間の断裂へ右手を差し出して向けて、彼女らを誘導する。クルスはその、何処へ続くともわからない亜空への扉へ嫌疑を隠せないものの、ココは先のクオンの行動からか信用したようで、クルスの手綱を引いた。と、クルスの片足が亀裂へ入るか否かというところで一度彼女は天馬の足を止め、クオンへと顔を向ける。
「……アーノイス達は、無事?」
決して傷つけたい相手ではなかった。クルスの傷を治してもらった恩もある。話しあえば、分かりあえる相手だったかもしれない。そんな事をココは思い、クオンを半ば責めるように睨んだ。
「先程まで自分へと刃を向けてきた相手の事がそんなに気になるか?」
クオンは今度は小馬鹿にしたように口端を釣り上げる。仮面で隠れているのに表情豊かな男だ、とクルスは半ば関係のない感想を抱く。だが、そんな彼をココはさらに非難するような面持ちで見つめる。
「……無事か? と問われるとそうだとは言えないな。あれは魂の牢獄。あの三人は今頃、己の暗闇と戦っているところだろうな。それを越えられなければあの空間は解けん。まあ、絶対ではない。故に急いでもらおうかな姫君?」
質問には答えた、とクオンは無言の圧力を持ってココを、クルスの足を亀裂の奥へと追いやる。もうココも何も言わずクルスの首筋を撫でて前進を促した。最後にもう一度、白銀の世界にぽっかりと空いた風穴のような暗黒を見つめて。
「随分と……懐かしい場所ね」
山間と森林を一望出来る高台。森の方へ伸びている獣道を覗けば、古びた木造の背の低い民家。、装はされていないが人通りによって形成された路上が見える。周囲を山に囲まれた寒村。そのどれもがこの世界にはありふれている場所ながらも、アーノイスにとって今目の前に広がっている光景は、これまで彼女が生きてきた人生の中でも最もと言っていいほど脳裏に焼き付けられた光景だ。初代鍵乙女が設置した門のある、レラの村。この場に最後に立ち寄ったのはもう十年程も前の話しだというのに、彼女は今目の前にあるこの村の事を、この場での出来事をまるで昨日の事のように思いだす事が出来た。辺りを見回しても一切の人の気配がしない。それはそうだろう。この村は十年近く前に全ての村人が立ち消え、それ以降も一切の立ち入りを禁じられたといういわば死の村だからだ。それ以上に、先程エトアールの亡霊の魔具により見せられている幻影という線が、今彼女がここに居る理由として妥当だろうからだ。暗闇に視界が閉ざされる前に一瞬だけ見えた鏡の力まではわからないので、もしかしたら今現在のレラの村に強制転移させられたという事も無きにしもあらず、だ。
「オルヴス? メルシア?」
暗黒に包まれる直前まで共にいた二人の名を呼ぶが、無論反応はない。霊覚を広げて探ってみても、何も感じられなかった。彼らの存在だけではない。さっきまで自分達を覆っていた木々らの気配も大地の霊気も微塵も感じられないのだ。自分の霊覚に異常があるのか、はたまたこの場所が異常なのか。どちらともアーノイスには区別が付かなかったが、ここに居ても埒があかない、と右手を胸の前まで持ち上げ、その指先に霊気を溜めて烙印術を呼び起こす。そうする事で、彼女の光糸は完成するのだ。右手の光は全てを切り開き、左手の光は全てを打ち払う。世界を護る力と称される烙印を持ちながら、誰一人、あまつさえ目の前の人一人すら助ける事の出来なかった彼女が会得した、唯一無二の力。
「何だかよくわからないけど……ここに居る訳にもいかないわよね」
一呼吸おき、アーノイスは右腕を後方へと伸ばした。左の足を一歩踏み出すのに合わせて、まるでボールか何かを投げつけるようなモーションで右腕を振るう。右手五本の指先から伸びる光糸が、この見えているのに何も感じさせない空間を切り開く、筈であった。
アーノイスの視界にふと人影が差した。何の前触れもなく、突如として光糸の向かっている方向へ現出した影に驚き、同時に降り抜いた腕を無理やりに引き戻す。光糸はその突然現れた人影に触れる寸前で勢いを失い、また消えた。
「だ、誰っ!?」
慌てて、アーノイスは人影の正体を確認するよりも速く問うた。もしも問いを発する前にその正体を見ていれば、彼女はわざわざ叫ぶような事もしなかっただろう。その人物と会った事はない。だが、誰よりも知っている。何故なら彼女の前に立っていたのは、アーノイス=ロロハルロント=ポーターその人だったのだから。
「……何? 鏡? 一体なんなのよここは。趣味悪いわね」
言って、自分自身よ姿へと近づいていくアーノイス。だが、おかしい。本当に鏡ならば、歩く彼女の姿が映し出される筈なのに、それは全く動かない。そう、疑念を抱いた瞬間。
「鏡、ね。そうね、間違ってないわ」
己の眼の前に立っているのを鏡だと勘違いしたアーノイスへ、“鏡”の方のアーノイスが答えた。全く同じ声、姿形。ともすれば、どちらが本物かわからなくなりそうであった。何にせよ、今本物と思われる彼女は、目を見開いて驚きを顕わにしているが。
「驚いたわ……喋るのね。自分が目の前で喋ってるのって、正直いい気分じゃないけど」
気を取り直し、アーノイスは光糸を“影”へと向けて取り囲む。影は微動だにせず、ただ微かに、嘲笑うように口元を釣り上げていた。
「貴女はそうやって付け焼刃の力を振るって満足なのね」
五本の光線が影を切り刻むか否か、そんな距離で止まる。影は、尚も愉快そうに言葉を続けた。
「大変だったわねぇ、彼との二ヶ月の特訓。何度倒れて、何回血を見たか、忘れちゃうくらいだったわね」
影の台詞に、ふとアーノイスは二ヶ月前からついこの間までの、ツバリ湖畔の日々を思い出す。最初は、霊気の基本をさらい、その上で霊覚を掴む事を覚えた。オルヴスやグリムのように強大な霊力を持っていないと自覚していたアーノイスであったが、烙印術のお陰か、はたまた強くなりたいという彼女の魂からの強い想いのせいか、上達は早かった。
だが、上手く行ったと言えるのはそこまでであった。
強くなる、という事は即ち戦う術を覚えるという事である。アーノイスにはオルヴスのような体術もグリムのような剣術もメルシアのような呪霊術もない。だが、この世界において唯一絶対無二の力たる烙印術があった。しかしそれは、自らの命を削る、極めて制御し難い諸刃の剣。それを、アーノイスは己がモノとすべく、傷だらけの体を引きずってさらに痛めつけた。その結果、今の彼女の力がある。
だが、それは。
「自己満足だよね。こんなの」
光糸が突如として弾け、消えさる。それは、影の力なのか何であるのか。だが、それはどうでもよかった。
影は、常々アーノイス自身が思っていながら、明確に自覚する事を避けていた思いをいとも簡単に口にする。
「リシェーナは死んだ。チアキも殺された。それだけじゃない、たくさんの人が貴女と私の知らない所で死んでるの。それを今更取り戻す事なんてできない。貴女のやってる事は身につけた力は、それに応えるとかいう偽善と自己満足。わざわざ自分に烙印術まで使っちゃってさぁ!」
アーノイスが奥歯を噛み締めた。
そう、彼女の急激な成長の陰には、強い想いだけではなく、彼女が自分自身へ烙印術をかけその成長をサポート、いや、強制的なものにしていたからだ。故に、これまで彼女が出来ていた「烙印に霊力を通さずに身体だけに通す」という事ができなくなっていた。無論、苦痛という形で彼女の体への負担がかかる。
「与えられた力だけに頼って、オルヴスにも頼って、教会にも頼って、それで貴女は何を守るっていうの?」
そうか、とアーノイスは理解する。今目の前で辛辣に言葉を放つ影は、ただの幻影ではない。彼女は鏡だ。アーノイスという人間の心の奥底に渦巻き沈められている想いを映し出した鏡。だからその言葉に嘘はない。影の全てが、彼女の心の何処かにあるのだから。
「そうね。私はずっと、誰かに何かに頼って生きてるわ。そんな私に、何が出来るとも思わない」
諦観とも取れるアーノイスの台詞に、影は心底楽しそうな、それでいて醜い笑みを刻む。
「そうよ。貴女が何かをしようとする度に、誰かが犠牲になるのよ」
「でも」
アーノイスが影の言葉を遮った。それまで虚空を見やっていた瞳は真っ直ぐに、影を、己自身の鏡を射る。
「鍵は私が持ってる。こんな、何一つ満足に出来ない私に。だからこそ、私は」
再び右手が影に向けて伸ばされる。二、三歩進んで、指先が頬に触れた。
「私は足掻くわ。たった一人でもいい。誰かを救う為に。その為なら」
「……自分が犠牲になっても? 何それ。何て利己主義? それとも自己陶酔かしら。悲劇のヒロインのつもりなの?」
アーノイスの後を影が引き継ぐように語る。同じ声が続く為、まるで一人語りみたいだ。
「なんだっていいわ。それが私の望みだもの」
「嘘ね」
影の左手が頬に添えられていたアーノイスの右手の手首を掴む。掴むというよりは握り潰すといった方が正しいか。強く強く握り締められている筈だが、アーノイスは顔色一つ変えなかった。
「貴女は救いたいんじゃない。救われたいのよ。誰か――いいえ。貴女の為に死んでいった少年に。この場所で会ってしまったたった一人の少年に!」
アーノイスを掴んでいない方の腕を、レラの村全体を指すように広げる影。
「ずっと、ずっと私達は縛られているわ。彼に、彼の言葉に、彼の想いに。記憶が遠くなっても、過去である筈の少年の手が差し伸べられるのを待ってる。馬鹿よね、愚かよねぇ! わかっていても止められないのよね! 今側にいる彼が“彼”なんじゃないかって願ってしまうほどに!」
アーノイスの顔がどんどん苦悶に染まって行く。影の吐く一言一言が、彼女の心を内側から抉る。剥き出しの心臓が次々と切りつけられていくような痛みだ。
「有り得ないって答えを出しておいて、それでも確証のない希望に縋って、でも確かめられない臆病さ。明確な答えがなければ夢にしがみ付いていられるから!」
聴きたくない、とアーノイスの手が耳を塞ごうと動くが、影はそれを許さない。掴んでいた右手も新たに左手も捉えて、離さない。
「ほら! 今この瞬間だって貴女は彼を待ってるわ。『私がこんなに辛いのに、どうして貴方は来てくれないの?』ってさあ!」
影の表情は狂気を映し出しているようだった。狂い、歪んだ感情に支配された瞳の色。
「チアキは……死んだわ。居ないの。もう此処にも、何処にもいないの!」
「『もういいよ。頑張ったよ』って、そう言ってもらいたいんだよねぇ? 呼んでもらいたいんだよねぇ? 『アノ』ってさぁ、あの優しい声でさぁ!」
「そんな事あるわけない! だって、彼はもういないんだから!」
「それでも諦められないのが“私”なんだろうが!」
アーノイスは既に泣いていた。辛いのか、哀しいのか、苦しいのか、悔しいのか、どの感情がそうさせているのかもうわからなかった。言葉では立ち向かってみても、完全には言い返せない。今己に突き刺さっているのは、自分自身の思いそのものだから。膝が崩れる。だが、影に取られた腕は離されず、アーノイスはただ項垂れていた。