―敵意―
「……よかったねクルス。治してもらえるって」
「我が主。常々言っているがそう簡単に他人を信用するべきではない」
治療してもらえる、そう聞いたココが破顔してクルスへ話しかけるも、クルスはどうにも警戒を解く気はないようだった。その判断は正しい、とオルヴスは黙考する。確かに彼は治療を依頼する為、アーノイスにメルシアへの言伝を頼んだのだが、それはココとクルスの言動を信じたからでは決してない。自分の事情だけ述べて正体は明かさない、明かせない。そんな相手を信用しろというのが無茶な話しだとオルヴスは思うのであった。しかしながら、彼の主たるアーノイスは彼女らの助けになりたい様子。その奉仕の精神は美徳と言えるが同時に困ったものでもある。ならばその困った部分の面倒なところは己が背負えばいい、とオルヴスはアーノイスの意志を尊重しながらも油断せずこうして二人を見張っていたのだった。
と、オルヴスが目を光らせるまさにその直面で、天馬が動いた。
「これは……!」
それまで翼の痛みからかくたびれたような弱った様子を覗かせていた瞳が、一気に殺気立った獣のものへと変わる。四肢を踏ん張り、無事な方の左翼を一度はためかせて風を起こし、自らの体を無理やりに立たせる。傷ついた羽もそうでない羽もどちらもを大きく広げ、首筋を走るたてがみを震わせて、灰色の曇天を睨みつけるその姿は、まるで仕留めなくてはならない仇敵を見つけたかのようだ。強く広げている為に、右翼の傷口から血が滴り、白い地べたに赤い斑点をつくる。
オルヴスとココもただならぬクルスの様態につられるように空を見上げ、霊覚を研ぎ澄ました。雲間に煌めく一瞬の光。まさにそれは光の速さを持って、煌めきと同時に地表へと洗われていた。
黄金色に光る球体は人三人程。昆虫の繭が解けるかのように、光が解けて中から二人の人間が出てくる。メルシアと、彼女を呼びにいったアーノイスであった。
「はい。連れて来たわよ」
「全く。まさか同じ街に居てあれを使われるとは思わなかったぞ……ちょっと驚いたじゃないか」
アーノイスの目線と同じぐらいの高さに飛び上ったまま、メルシアが口を開く。大方、身の丈に全く合わない巫女服の裾が濡れるのが嫌なのだろう。普段はグリムの頭に乗っかっているが、その彼は今この場にはいない。
「で、私に手当てして欲しい奴が居るって聞いたんだが……」
「この黄金の霊気。やはり貴様巫女、いや」
首を巡らせたメルシアと、ずっと彼女を睨みつけていたクルスの視線が交差すると同時、天馬の声が重々しく、明確な殺意を秘めて叩きつけられた。
「虐者メルシア!」
広げられていた両翼がはためき、無数の突風の矢を撃ち出す。左翼側からは翠の光を纏った風の凶刃が放たれているが、怪我をした右の翼は血飛沫を飛ばすだけであった。
風の鏃が迫るのを、メルシアは冷たい目で見ていた。誰も、グリムすらも見た事のないような氷の瞳で。その視線が、風を掻き消す。術を唱えたようには見えず、当の本人以外には何をしたのかわからない、傍から見れば勝手に風が掻き消えたようにした見えないだろう。
「落ち着け天馬。今の私は貴様らに敵対しているわけではない」
「そんな台詞が信用出来ると思っているのか! 我らは忘れぬぞ。貴様に屠られた同胞の無念と怨恨を!」
自らの技がいとも簡単に破られたのを意にも解さず、クルスは殺意を剥きだしにして食い付かんばかりに叫ぶ。メルシアを虐者と呼んで激昂を隠さない彼に、もはや言葉は通じそうになかった。
「やれやれ……とんだ患者だな。残念だが今私に戦意はない。眠ってもらうぞ」
クルスの鬼気迫る意気とは正反対に、メルシアは冷ややかに、呆れを混ぜて言葉を吐くと素早く指先をクルスの頭部へと向けた。
『踠』
声ではない言霊がこの場に居る全員に響き渡るのと同じくして、クルスの首回りにいくつもの大小様々な水球が突如として現れる。天馬が身を翻すより速く、天馬の主が一歩を踏み出すのを先置いて、水球群はクルスの頭部でぶつかりあい、一つの球となって彼の顔、頭を覆った。鼻や口と言った呼吸器官を完全覆われ、もがく天馬。だがそれも長くは続かず、一分も立たずにクルスはその巨体を横たえた。
「クルス!」
駆け寄るココ。突然の事態に呆気にとられたアーノイスは未だ動けずにいた。クルスの顔面に纏わりつく水球が、メルシアの鳴らした指の音とともに霧散する。
「安心しろ娘。少し意識を失っているだけだ。その間に私は治療させてもらう。暴れられては叶わないからな」
言って、抗議するようなココの視線を受けながらも気にせず、メルシアは治癒の術式を組み始めるのだった。