―ココ―
大地を隅々まで覆い尽くす白銀の雪。厚く厚く重ねられたそれは元の地面を隠して凍土を形成している。そこからは一枚の葉も付けていない木が伸びて灰色の空へ手を伸ばすかのように枯れ枝を広げていたり、冬でも葉を落とさない針葉の樹が年中変わらぬ形に白い帽子をかぶせた姿をしていた。
ソートの森と呼ばれるこの場は、名こそあれど何があるわけでもない普遍の森である。何処にでもある、強いて言えば気候の関係から針葉樹が多いくらいの場所で、別段何が棲み付いているだとか、そう言った話は一切ない森だ。
しかしソートの森の位置するのはコルストの北西、つまりはノラルとの国境に近く、尚且つ森という特性から人目に付きづらいというおまけ付きであり、ノラルの密偵や間者が侵入したり潜伏するにはうってつけというものだ。しかし今は雪が特に多い季節でもあり、隠れるに適しているかと言えば必ずしもそう、とは言えないのだが。それにこの場が敵が隠れやすいということくらいコルストの掲剣騎士にとって常識であり、故に日に一度は巡回の騎士が居るくらいだ。そんな場所にわざわざ潜伏するのもおかしい、というか無理な話ではある。物事には例外という言葉が付き纏うものだが、可能性としてはごく小さい。その考えはオルヴス、アーノイスともに同じであり、二人は目下迷子の幻獣を探すという目的の下、ソートの森を歩いていた。
「幻獣かぁ……オルヴスは見た事ある?」
「そうですね。昔に少し見た事があります。それこそノラル軍にある幻獣部隊のものを」
「へぇ……」
アーノイスは幻獣なるものを見た事がない。言伝や文献にその存在や種類を聞いたことくらいはあるが、実物を見た事はなかった。そもそもギティア大陸には幻獣の個体数自体が少ないとも言われている。マイラのあるムーゴ砂漠など、人が未だ深くまで立ち入れていない場所も多々あるので一概には決め付けれないのだが。
まだ見ぬ幻獣という未知の存在に少しだけ好奇心が湧くアーノイスであったが、それ以上に彼女はオルヴスにある事を聞きたくなった。
「ちょっと待って。ノラル軍の……って、貴方前はノラルに居たの?」
アーノイスも知らない、オルヴスの経歴。常々興味はありながら深くは聞けなかった事だが、今回は彼の方から口を滑らせたと言える。聞かれてからオルヴスは空を向いて、あー、と声を上げた。それは誤魔化し方を考えている時間稼ぎなのか、なんと伝えようかとのシンキングタイムなのか、そもそもあまり覚えていないのか、アーノイスにも区別は付かなかったが。
「ノラルに住んでいたわけではないですねぇ。まあバレシアナもノラル領ですからそう思われるのも無理はないですが」
「貴方、本当私に会うまでは何してたのよ」
否定する形での答えではあったものの、アーノイスはさらに食い下がる。何となく、はぐらかそうとしているような彼が何処か許せなかったのだ。
「何してた、と問われると色々なんですが……まあ、傭兵みたいなものですよ」
思いの外あっさりと問いに答えたオルヴスだが、やはり不完全だ。
「みたい、って何よ。傭兵じゃないの?」
傭兵、確かにやってそうだとアーノイスは思ったものの、ここまで聞いたら徹底的に、とさらに問い詰める。
「えーっとですねぇ……まあ、傭兵と言っても戦うだけじゃなくて人探しとかもあって。まあ僕は傭兵団に属さないフリーランスでしたからね。その日凌ぎの生活をしてましたよ」
「確かに貴方群れるの嫌いそうだけど、その日暮らしってのは何だか想像出来ないわね」
そこまで言い、一瞬納得したように見えたアーノイスだったが、再び疑問が頭を駆け抜けてまた問いを発した。
「……ちょっと待って。貴方、一体何歳から傭兵なんてやってたのよ」
アーノイスは今年で成人であり、オルヴスはその二つ下。二人が会った教会の武術大会は数年前である。その前から傭兵という事になれば、オルヴスはまだ少年と呼べる歳の頃から、という事になってしまう。
「あー……十くらいからですかね……よく覚えてないです」
流石にその質問には答えづらいのか、オルヴスの声の勢いが少し削がれていて、アーノイスは不謹慎な問いであったと自分を責めた。そのくらいの歳の頃、自分はまだ鍵乙女でもなく、一王女として何一つ不自由のない生活を謳歌していた事を思い出して。
「あの、えっと、ごめんなさい……」
それ以上は何と言っていいかわからず、アーノイスは黙し、俯く。そんな、先程とは打って変わって消沈した彼女の頭をオルヴスは優しく、二回程叩いた。
「お気になさらなくて結構ですよ。それにしても珍しいですね、アノ様がそんな事を聞くなんて」
ふと昔の事を思い出したからだろうか、彼の大きく固い掌が酷く暖かいものに思えて、アーノイスは俯いていた顔を上げて彼のいつもの笑顔を見上げる。
「ん……何となく気になっただけ。て、ていうかそんな子供扱いみたいのやめて! 恥ずかし――」
と、ようやく頭に乗せられた手に抗議したのも束の間、すぐその手に口元を塞がれた。何の脈絡もなく意図の読めない行動に一瞬抵抗しそうになるも、突発的な行動だからこそ浮かぶ事の異常性を察知して大人しくなる。オルヴスもそれを感知し、静かに自身とアーノイスをしゃがませ、耳元で喋った。
「何かいます。霊気を抑えてください」
アーノイスは音を鳴らさないよう首肯して息を潜め、さらに霊覚を高める。自分の五感が広がり研ぎ澄まされて行く感覚が、「異物」を捉えた。感じる霊気はオルヴス、地面、森と草花そして人型の何かと馬型の何か。オルヴスではない方の人型の霊気はごく小さくなっていることから、対象は隠れようとしているのだろうという推測が立てられる。対してその人型に寄りそうようにして横になっている馬型は霊気が減退していかない。が、こちらに敵意を向けているわけでもなかった。それにしては何処か弱弱しい。決して霊気の放出を抑えようとしているのではなく、どうやら弱っているようだった。
逃走を測っている人間が一人、それの所有と思われる弱った動物が一体。状況を大幅な予測を交えて把握したアーノイスは、素早く右手を持ち上げその指先を小刻みに動かした。光糸。全てを切り開き全てを閉じる光の糸が、霊覚に映る異物の周囲を刻んで吹き飛ばした。
「……!」
隠れ蓑にしていた草木が切り飛ばされ、アーノイス達の視界に現れたのは一人の女性と翼の生えた白馬であった。恐らく幻獣とはこの白馬――天馬のことであろう。掲剣騎士が言っていたのは白く翼をもった何か、との事なので十分に当てはまる。確かに天馬は普通の馬の体躯より二回り以上大きい。横たわっている馬の側に寄り添っている女性が小さく見える。
「貴女はここで何をしているのかしら?」
冷たい声音でアーノイスが女性問う。女性は驚いてはいるが怯えてはいないように見えた。雪景色の中に映えて見える小麦色の長髪は森の中にあって不自然なくらいに整って綺麗だ。加えて身につけているものは白色のドレス状の服の上に胴当て、肩当て、籠手といった戦闘用の防具。ドレスは無論防具にも唐草模様が刻まれており、材質も磨かれた銀のように光っていた。どう贔屓目に見ても高貴な家の出なのは明白と言えるだろう。そして戦闘に使用する防具の存在が、彼女がノラル軍のものであるかもしれない、との危惧を抱かせる。故に、アーノイスの口調は冷ややかで緊張感に満ちたものであった。
「……クルスの、手当」
少しの間を置いて、女性が答えた。声量は小さいものの、やはり危機感といったものが感じられず、最初の驚きも成りを潜めて平静としている。
「クルスっていうのはその天馬かしら」
尚も警戒を解いた様子なく、アーノイスは張りつめた声を上げて右手を女性と天馬へ向ける。と、その向けられた手に敵意を感じたのか、女性が立ち上がり、手を天馬の間に割ってはいように両手を広げた。
「この子は何も悪さしてない。ココも、何もするつもりない」
「ココ?」
「私の……名前」
「そ、そう……」
アーノイスは一人称を自分の名前にする女性の言葉に少しずっこけそうになる気持ちをなんとか抑えた。ココというらしい女性はどう見てもアーノイスと同じか上くらいの年齢に見える。どうしたものかとアーノイスは困った瞳でオルヴスを見た。何もするつもりが無い、という言葉を鵜呑みにするつもりはないが、クルスという天馬も起き上がらず弱っているようで、オルヴス自身もどうしたものかと思索する。ともあれ、素性は聴かなくてはなるまい。そう考え、今度はオルヴスが口を開いた。
「ココさん、と言いましたね。貴女はコルストに住んでる方ですか?」
「違う」
「ではノラルですか?」
「駄目」
「駄目、とは?」
「答えたら駄目だと言われた」
「それは誰に?」
「駄目」
そこまで問答を終えてオルヴスは息を吐いた。どうにも取りつく島がない。彼女がコルストの人間かギティアの何処かからの旅人であったなら、事情だけ聞いて解放出来るのだが、もし仮にノラルの軍人ということならば不法入国という事で国際問題になりかねない。さらには、ご丁寧に軍人然とした格好をして軍馬であろう天馬を連れているのだ。疑う要素があり過ぎて、無罪放免とはなるわけがない。
「申し訳ありませんがココさん。正直に貴女の素性を話し、さらにそれを証明していただけなければ連行もしくは実力で排除しなくてはなりません。我々としても事は穏便に済ませたい。ですので、質問に答えていただきたいのですが」
「う……困った」
困っているのはこっちだ、との意を述べたい気持ちを呑み込み、オルヴスは言葉を付け足す。
「我々はこの森に幻獣が確認されたとの情報を得て、それの確認と対応にやってきたのです。なので、少なくともその天馬だけでも捕獲もしくは殺害しなくてはならないのですよ。所有者である貴女の身分が保障され、然るべき回答を得られないことには」
そう告げ、オルヴスがこの場ではじめて敵意と霊気を剥きだしにした。脅しなどという回りくどいやり方は彼の得意とすることではないのだが、この場合はこういった恣意的な手法もやむを得ない。しかしそれに反応するように、それまで殆ど表情の変化がなかったココの眼までもが敵意の光を宿した。
「……この子に何かするなら、容赦、しない」
「それを決めるのは貴方自身だと言っているのですよ」
無論、オルヴスも臆する事無く言葉を返す。空気はまさに一触即発であった。オルヴスかココか天馬か、誰かが動きでもすれば戦闘がはじまってしまいそうな雰囲気。そんな中、アーノイスが不意に口を開いた。
「ココさん? 私達は別に貴女達と戦いに来たわけではないのよ。でも、この周辺じゃ幻獣は珍しいから調べに来ただけなの。ほら、ノラルの国では幻獣がたくさんいるっていうじゃない? まあ、それはいいわ。ともかく、何でこの森に居て、隠れようとしてたのかだけでも教えてくれないかしら」
先程までの疑心に満ちた物言いと視線から一変、アーノイスは穏やかに諭すような口調で語る。そんな彼女の対応に、牙を剥きかけていたオルヴスが意を汲んで緊張を解き、やがて、オルヴスの気配に対応していただけのココも敵意を収めて、先程と同じ無表情に戻った。
「……わかった。言う」
「そう、ありがとう」
「でもココの身分は証明出来ない」
「いいわそれでも。嘘吐かないって約束してくれるなら」
甘い対応だと、アーノイスも自覚していた。それでも彼女は微笑んでココに応対する。お互いの事情もよくわからない状態では、無作為に争わない事に越したことはないのだから、と。