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白月に涙叫を  作者: 弐村 葉月
七章 影と真実
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―レイェン―

曙が木々の隙間から海を、否、広大なツバリ湖を優しい朱に染めている。空に雲は無く、太陽から離れた場所はまだ夜の色を少しだけ覗かせていた。

朝と夜の混じったその光景が、アーノイスは嫌いではなかった。低血圧で朝に弱い事が変わったわけではなく、それでも彼女はここ最近、そうして早朝の空を見上げるのが好きになっていた。光が闇を退けて行く、その様が。

湖から数メートル離れた場所に立つ彼女の体には既に霊力が満ちている事を、白い衣装の下から仄かに光る烙印が知らしめる。苦心の末“朝早く目覚める事”の為に彼女が考案した方法だ。眠気はある、が体は軽い。その感覚をアーノイスは手を握ったり開いたりして味わう。そして足元に視線を落として、徐に――掌底を足元へ叩き込んだ。彼女の背丈を越え舞い上がる土片。それは、以前彼女がオルヴスとの特訓の際に割ったような綺麗な形ではなく、乱雑で大きさもバラバラな土砂。烙印が一際強く光を放った。アーノイスの瞳に映る欠片たちが、止まる。いや、その実は止まっているわけではない。ただ、彼女にはそう見えていた。霊力を全身に巡らせるのが戦いの基本だ。それをさらに強めていけばいくほど、感覚は研ぎ澄まされて音さえも遅く感じる事が出来る。オルヴスが言うには、さらに行けば光ですら見切ることが出来るそうだが、彼女はまだその段階に上がれていない。


ゆっくりと――とはいっても土片が動いていないように見えるくらいの速さだが――アーノイスは右手を水平に持ち上げた。人差し指だけを伸ばした形で、残りは軽く握る。一瞬、伸ばされた指の先が僅かに煌めく。同時。彼女は廻った。動きはまるで舞踏のターンのように、それでいて尚体は突風を巻き起こし、軸にした左足の乗る地面が抉れる。そして風圧に弾き飛ばされる、彼女が最初に打ち上げた土片が“割れた”。対象様々数十を越える数の土片が明らかに作為的に、恐ろしく切れ味の良い刀で両断されたように滑らかな切断面を形成されて、それは割れていた。アーノイスの手には何も持たれていない。ただ唯一、よくよく見れば彼女の右手人差し指の先から、極細の糸のようなものが見えなくもないが。


と、アーノイスが素早く振り向いた。視線の先には真っ黒な狼のような獣。大きさも姿も狼そのものであるのだが、牙から爪から全身に至るまで真っ黒で、眼だけが空洞の如く白くなっている様相からはとても自然の動物とは思えない。事幻獣であるというのならまた話は別と言えるが、それが何であるか、アーノイスは良く知っていた。音もなく、狼がアーノイス目掛けて飛びかかる。いや、音があったとしてもアーノイスの耳に届くより遥かに速い速度でそれは走っていた。彼女の視認能力であれば十分に見る事の出来る速度ではあるが、アーノイスは瞼を閉じる。匂いでも音でも光ですらない何かで、彼女は相手の存在を感知する。それが出来るようにと教えられてきたのだから。

閉じていた右手を開き、左胸の前に構えるアーノイス。掌を狼の方へと向け、不可解に小刻みに五指を蠢かした。狼が跳躍する。距離にしてアーノイスより3メートル手前。対するアーノイスは丸腰、飛び掛かられれば死は免れない。だが、狼がそれを成す事は無かった。獣が四肢をふんばり飛び出したその瞬間、彼の頭部から尾までの全身が無数に分断されていた。まるで自ら見えない刃の森に突っ込んだかのような死に方である。獣は幾つにも同方向に分割され、そして消滅した。


辺りが静けさを取り戻し、小さな拍手が澄んだ空気に響き渡る。


「お見事ですアノ様。霊覚による知覚及び、光糸レイェン。使いこなしていらっしゃいますね」


何処からかオルヴスが現れ、喜ぶような頬笑みを浮かべてアーノイスへ近付いて行く。


「スパルタな師匠から誉められるとは嬉しいわね」


目を開いたアーノイスも笑みを返し、全身に通していた霊力を納める。体が重くなるので完全にではなく、まだ微弱に残しておくのだが。


「おや、スパルタだなんてそんな」


「ねぇそれ確信犯よね? 自覚ないとすればちょっと怖いんだけど」


エトアールの亡霊の襲撃より二カ月。

先の戦闘での傷を癒すべく、アーノイスとオルヴスの両名は未だツバリ湖の湖畔、故リシェーナの家に住まわせてもらっていた。教会の方で寝泊まりしなかったのは、アーノイスの容態からして移動させるのは得策ではなかった事と、以前より立ち入りが制限されていたこの場所の方が彼女の立場上都合が良かった事と、もう一つ理由がある。

「強くなりたい」痛みに苛まれ、友となりえそうだった人との死別から、彼女が吐き出した思い、それを実践すべく修業の場としてオルヴスがこの場を選んだのだった。そして彼女の体の傷は癒え、望み通り戦いにおける指南を続けていたのである。


「何にせよ、この短期間でよくここまでと思っていますよ。僕自身予想外でした」


オルヴスは当初、彼女が戦うという事を快くは思っていなかった。鍵乙女を守る従盾騎士としては当然のことである。しかしながら強く拒否する事も出来ず、どうせやるのならばと事に当たった結果、当人には「スパルタ」と称されることになったのだが、それに彼女は満足しているようでもあった。


「まだまだよ。私はもっと、強くならなくちゃいけないから」


オルヴスの賛辞にアーノイスは素気なく答え、家の方へと歩き出す。背を向けたまま、彼女は口を開いた。


「今日、出るんでしょう? 準備してくるわ。貴方も遅れちゃ駄目よ……なんてね。貴方が遅れるわけないわよね」


確かな足取りで家へ入って行く彼女の背中を、オルヴスはじっと見つめていた。確かに彼女は強くなった。体の傷も完治している。だが、オルヴスの視線には憂いがあった。それは決して目では完璧にわかる筈もない事。彼女の内側の、見えない心の傷を悲しんでいたのだった。

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