二人と二人
アーノイスのお陰か、どうにか平静を取り戻したチアキは、教会の一室でアーノイスの治療を受けていた。
治療、とは言ったものの最高級の温室育ちたる彼女にそんな技術があるわけもなく、あーでもないこーでもないと数度チアキをミイラに仕立て上げている。そうこうしている内に少女は自分の不甲斐なさに眼を潤ませはじめ、自身が救護している筈の少年へ助けを求めるような視線を向けた。焦りと申し訳なさがない交ぜになったそんな瞳は、しかしてすぐさま仰天したものになる。
「あ、あれ……?」
眼を擦り、瞬きを意図的に繰り返し、それでも眼は点になったままだ。少女の瞳に映るのは、年齢の割りにはがっしりとした--アーノイスには比較対象が居らずわからないが--胸板、先程彼が自ら引きちぎった筈の胸部とそこに這っている文字のような模様のような黒い刺青。
「治って……る?」
だがそこについさっき鮮血を噴き出した跡は無かった。いや、ほんの少し前まではあったのだ。アーノイスもそれを確認している。教会に戻り、彼の上着を取り去って無造作に包帯を巻き始めた頃には、確かに。その証拠に床に散らばった白い布のそこらには血の跡がありありと残っている。
チアキもその事態を察したのか、一瞬訝しむ顔をし、しかしすぐにそれを消していそいそと上着を着始める。しっかりとボタンを止めて、まるで刺青も傷があった場所も隠すように。
「ありがとアノ。なんか治っちゃったみたいだね」
なんて、少年は笑顔で言った。尚も困惑する彼女へ「アノが一生懸命やってくれたから」などと核心をつかない事を付け足して。アーノイスもアーノイスで本人が治ったと言っているのだから、と無理矢理納得するよう意を呑み込む。
「本当に? 大丈夫? 痛くない?」
だがそれでも最後の確認とばかりに少女は心配の一心で問いかけるが、少年はいつもの笑みを浮かべて首肯するだけであった。
そんな一日目を終えて。
死の村と化したレラの唯一の生き残りとなってしまった二人は、これからの方針を相談しあった。まず第一に、救助を待つ事を選択する。その上で必要なのは衣食住に尽きた。住居はまず問題ない。何の因果か、村全体にある建物はあの夜が訪れる以前のままだ。これはアーノイスの提案で、彼女がずっと使っていた教会の一室をそのまま使う事にした。そこにチアキも共に寝泊まりをする。別々に夜を過ごしてフェルか何か野生動物に遭遇しては大事だからである。次に衣類であるが、これもそう問題にはならなそうであった。アーノイス、チアキ共々、少し長めの滞在であった為、替えの衣類くらいはある。後はそれを洗濯すれば良いし、もし仮に持って来ている衣類が全て駄目になってしまったとしても、村には遺品となってしまった衣服が多く残されている。死者を尊ぶ念から出来るだけそれは避けたい所だが、背に腹は変えられない。残るは食事である。山間の寒村にたった二人の子供。状況だけ見れば確かに絶望的と言えるのが、この食事だった。だがこれに関してはチアキが簡単な料理なら作れるという事、フェルを凌駕する戦闘力のお陰で狩りも可能、また果実や山菜の知識も齧る程度には習っているとの事でどうにか光明があった。幸い、村の民家にも食糧はある。当分はそれでどうにか過ごせるとの見積もりだった。
「生きていくだけならきっと何とかなる。必要の情報は何処かの家にお邪魔すれば、何かしらの本とかがある筈だよ。泥棒みたいで気は進まないけど、仕方ない」
一連の話し合いの末、チアキはそう結論づけた。後は病気といった心配ごとが残るが、それは生活の上で何とかしていくしかない。
と、そこまで話が進んだ所で、ふとアーノイスが項垂れた。それに気付いたチアキが口を開く。
「どうしたのアノ? もしかして具合でも悪いの⁉」
最大の懸念事項が既に、とチアキは慌てたが、そうではないとの即答がアーノイスから返って来た。
「違うのチアキ。えっと、そのね、なんていうか……私、役立たず、みたいで」
縮こまり、申し訳なさそうなか細い声であったが、チアキは「何だそんな事か」と肩をすくめる。
ぞんざいとも思える反応にアーノイスは少しの憤慨を込めてどういう事かと聞くも、少年は
笑って答えるのだった。
「だって、アノを守るのは僕の役目だからね」
衒いも無く言ってのけられて、少女は面食らうと同時に頼もしさと不甲斐なさを感じる。役立たずでは居たくない。そう思い、彼女は彼に家事を教えて欲しいと頼むのだった。
それからの生活は決して楽なものとは言えなかったが、二人とも病に苛まれたりフェルと遭遇、なんてアクシデントも起きず平穏無事に時が流れていった。アーノイスもチアキに習いながら、また村にのこされた書物などを紐解き、炊事洗濯掃除と家事を学ぶべく奮闘した。その結論は
「アノは掃除係ね」
とのチアキの一言にて伏すべきであろう。
とにもかくにも、世界の鍵たる乙女と、赦されざる過ちを犯した少年の生活は、一月が過ぎようとしていた。
「魔女が笑うよ 大きな鳥と一緒」
アーノイスは歌を口ずさみながら、教会の門前を箒で掃いていた。歌は、食糧を探して村を探索中に偶然見つけた楽譜をチアキが読み取って、アーノイスへと聞かせたものだ。一定で陽気なテンポが妙に頭に残って、時折勝手に口から出ている。
チアキはと言うと、もう既に村内には食べられる物が心細くなってきている事もあり、一先ず今日の分と森の深くへ狩りへ出掛けていた。村に残る事になったアーノイスはやる事もないので、掃除に勤しんでいる、といったところ。食材がないので炊事も出来ず、洗濯物は今朝チアキが済ましてしまった。決して、絶望的に手先が不器用で未だにジャガイモの皮剥きでは実がことごとく削られ、服を洗っては桶をひっくり返して台無しにしてしまう事が度々であったから、というわけではない。
そもそも、生まれてこのかた特一級の箱入娘であった少女にいきなり家事をしろ、なんていうのも無理な話である。
一ヶ月もあれば、生活には慣れるものか、アーノイスの心は今や穏やかだ。その表情を見ても、とてもいつ来るかわからない救助を待っている少女にはみえないだろう。故にか、彼女は
自分のものでも彼のものでもない人の声が何処からか聞こえてくる事に違和感すら覚えた。
「姉様! 姉様何処ですか⁉ 返事してください!」
「ペルネ、そんなに叫ぶなよ。喉を痛める。しかし一体この村に何が……人一人いやしない」
懐かしい声がする。そんな事をアーノイスは思っていた。それもその筈だろう。その声は、彼女もよく知る、彼女の妹とその許嫁の少年のものであったのだから。
「ペル、ネ……?」
歌が止まり、手にしていた箒を取り落とし、唇が実妹の名を紡いだ。
「聞こえましたかシュウ⁉ 姉様! 姉様何処ですか⁉」
殆ど声にはなってなかったであろうアーノイスの呟きを、彼女の妹はしっかり聞き取っていた。その声、足音のする方向へ
、自然とアーノイスも駆け出す。
互いが互いの姿を見つけるのはすぐの事であった。二人とも全速力で駆け寄り、その勢いのまま衝突するように抱き合った。
「ああ姉様! 本当に姉様なのですね⁉ よくぞ、よくぞご無事で……」
「うん……うんっ!」
涙を浮かべ、お互いの存在を確かめるように抱き締め合う少女達。そんな彼女らの傍らに、ようやくシュウと呼ばれた少年が追いついた。
「姫様、ご無事でしたか……」
感動の再会を邪魔しないよう、シュウが声をかける。
「ええ……。それにしても、あなた達が何故この村に」
その台詞は、姫たる自分の
妹と婚約者が城を出てこんなところまで来ている事を指しているのか、純粋に自分が行方不明とされているであろう事を忘れ去ってしまっているのか、どちらとも取れず、半ば呆れたようにシュウは口を開いた。
「ペルネッテ姫がどうしてもアーノイス姫を捜すと聞かなくてね。祖国より一個中隊を率いてここまでやって参りましたよ、と」
本人にそのつもりがあるのかは定かではないが、何処か気の抜けたような小馬鹿にしたような口振りで語る彼に、未だに姉にしがみ付いたままのペルネッテが射抜くような視線を向ける。
「シュウ! それではまるで私が貴方に我儘を言って無理矢理出て来たみたいではありませんか!」
「その通りですペルネ。まあどちらにせよ--」
あしらうような言葉を、シュウは途中で切り上げた。何かの存在を捉えたのか、アーノイスとペルネッテ両方を庇う位置に躍り出て、両の手の先に黒褐色の霊陣を展開する。
「シュウ?」
「お静かに。何か居ます」
霊陣から二つの短筒を取り出し正面へ向けて構える。彼が感じたのは、巨大な霊力。目には見えずとも威圧として身に降りかかるそれに、シュウは危機感を覚えずにはいられなかった。唯一の光明としては、その霊気が彼らに敵意を持って向けられているわけではなく、ただそこに存在している事を示すかのように垂れ流されているだけだということだが、それはそれで相手が理性を持たない--フェルのようなものかもしれないとの示唆か含まれている。
シュウは思索した。二人を守り、もしくは逃がしながら今こちらへ近付いて来ている何かを相手取る事が出来るか否か。まだ相手に敵性を認めたわけではないものの、事態の予期として最悪を仮定するのは当然の事である。
そしてゆっくりと、シュウの感じ取った正体が現れた。
「動くな! お前は何者だ。答えろ」
姿を見せたのは、己とそう年齢の変わらないであろう少年だった。しかしながらあまりの霊気にシュウはそれが真っ当な人間であるという仮定に疑念をかけておく。彼から感じられる霊気は黒い。それは、幾重にも織り交ぜられた霊魂すなわちフェルの持つ雰囲気とほぼ同じであったからだ。
「待ちなさいシュウ」
二つの銃口を少年の頭部へ向けたままの彼に、背後からアーノイスがそう声をかける。だが、シュウは微動だにしなかった。
「アーノイス姫。ペルネッテ姫を連れて逃げる用意を。すぐに私の連れて来た隊が後ろに居る筈です」
「だ、だから」
「おい貴様! 先程の質問に答えてもらうぞ!」
尚もシュウに待ったをかけるアーノイスのせいか、シュウはほんの一瞬目の前の存在に対する注意を忘れた。それが、彼にとっては長過ぎる一瞬であった。
「人の話は聞くものだと思うけど。まあ、僕も他人の事は言えないか」
声は、シュウの後ろから聞こえていた。目の前の存在は霧散して、巨大な霊気は声の発されたのと同じ場所からしている。
「アノ。この人達は?」
「こっちは私の妹。そっちは妹の婚約者。私達の救助に来てくれたのよ。だから、警戒する必要はないわ」
アーノイスの台詞に、少年の霊気が収束する。身動きも取れずにいたシュウが振り返りその存在を見つめた。無論、銃は下げている。
彼の動作を感じ取ったのか、少年はアーノイスの方からシュウの方へと振り向き、口を開いた。
「申し遅れました。僕はチアキ=ヴェソル=ウィジャ。恐れながら、鍵乙女アーノイス様の従盾騎士候補の一人にございます」