―グリム―
「アノ様、アノ様。起きてください」
次の日。アーノイスは獣道に揺れる馬車の中で目を覚ました。
オルヴスは山小屋を既に出発し、アーノイスを荷車の中に寝かせ、馬を走らせていたらしい。
すぐに出発するような時でもオルヴスは滅多に彼女の事を起こさない。だが、今回は敢えて、馬車を止めてアーノイスを起こしに来たのだ。まだ寝惚けが抜けきらない彼女の頭でもその事の次第は理解出来た。
「何かあったの……?」
目を擦りながらも声を小さく抑えてオルヴスに問う。
「ここで動かずに待っていてください。いいですか? じっとしていてくださいよ」
具体的な答えは出さずにそう主人に耳打ちすると、オルヴスは静かに荷台から出て行った。怪訝な瞳を向けるアーノイスだったが、事態を把握しきれない為、下手を打つ事も出来ず、言われた通りに身を固め、幌の隙間から外と出て行った従者の様子を窺う。
山の中に入っていると思われ、陽の光もあまり入っておらず、太陽の位置からして真昼間だというのに薄暗い。
加えて生き物の声がせず、辺りは変に静まり返っているように感じられた。
アーノイスはそんな様子を把握すると、目を閉じ、嗅覚、聴覚を意識から排する。目に見えず、音に聞こえず、何も匂わない。そのどれでもない時、人はもう一つの異変の可能性を感じようとする。
世界に人にあらゆる生命に満ちている「霊力」。命の力そのものと称されるそれは、生物の五感のさらに外の感覚で知覚されるものなのだ。
「これは……」
アーノイスは目を開き、独り呟く。その瞳には少々の驚きと呆れの色が濃く写って見えた。
「さて、かくれんぼはそろそろ止めにしませんか?」
馬車の前に立ち、真っ直ぐ前を見据えてオルヴスが柔らかな口調で、そう虚空に問いかける。
当然のように返答はなく、オルヴスは溜息をついて首を振った。
次の瞬間。
オルヴスの見つめていた方向から唸るような音、同時に巨大な火球が出現し、真っ直ぐにオルヴスへ向けて放たれた。
草木を焼き払い、地面を溶解しながら迫りくる閃熱。
「オルヴス!」
荷台からアーノイスが身を乗り出して叫ぶ。それに応えるかのように、ゆっくりとオルヴスの右手が、火球へ向けて翳された。
着弾する火炎。しかしそれは爆散するでもなく、またオルヴスも馬車も焼失させるべく突き進むでもなく、ただ、ぶつかったその場所で動かない。
「全く、出てこないでくださいと言いましたよ? アノ様」
翳した右手で事もなしと火球を抑えながら、主に向けて苦笑を向けるオルヴス。その手は淡い青白の光を帯びていた。
軽くその手を振り、炎をかき消す。
「し、仕方ないでしょ!」
「大丈夫ですから。サンドイッチでも食べて待っていてくださいよ」
真剣に叫ぶアーノイスを若干からかうかのように彼はゆったりと歩を進め、馬車と距離を取った。
「もう……いつもいつも」
呆れて悪態を吐きながら、アーノイスは自分が寝ていた所の横にバスケットが置かれているのを見つけ、手を伸ばす。
「アンバタじゃなかったら後でお説教ね」
「いぃぃぃやっはぁぁぁあ!」
アーノイスが呟いたのと奇声が轟いたのはほぼ同時。
オルヴスの遥か頭上より襲来する、炎の剣を振り翳した一人の男。空を“蹴り”、一瞬で肉薄しその剣を振り下ろす。
「相変わらず騒がしい方ですね。グリム」
「相変わらず企画外な奴だぜ! オルヴス!」
先程の火球同様、オルヴスの光を纏った手が斬撃を防ぐ。力が拮抗した瞬間に二人の身体が跳ね、距離が置かれた。
「んー、やっぱ切れねぇか。せめて火傷くらいは負わせたかったんだけどなぁ」
身の丈程もある大剣を両肩に担ぎ、右に左にと揺れる、グリムと呼ばれた男。年はオルヴスよりも一つ二つ下程度。燃え盛るような紅い髪に同じ色の眼。教会の金のタウ十字が描かれた白い服の上に鎧の肩当て、膝当て、胴当てだけをつけた格好だ。
「貴方こそ。詠唱もなしにここまでの火炎を起こすなんて、霊術の基本を無視していますね」
己の持つ霊力に詠唱を重ね、現象を起こす術を総じて霊術と呼ぶ。霊術は呪術とは違い、主に人々が戦う術として使われるものが多く、先程グリムが見せた空中での動きも、霊力を固めて足場とする霊術の基礎の一つである。その程度ならコツさえ掴めば詠唱は不要だが、グリムの起こした火炎という現象はそれに当てはまらない。いくら修練を積んでも、霊術の法則から外れるのだ。しかしそれはオルヴスが纏う光の方にも言えた事ではあるが。
「俺様は特別性なんだよ」
言って、剣を地面に叩きつけて炎を纏わせるグリム。
「続きやろうぜ。ここんところ碌な敵と会ってないんだよ。セパンタの儀式が終わってここら辺はフェルと全然遭遇しねぇし」
「僕は貴方の敵ではなく同僚なんですけどねぇ……」
グリムの格好から分かる通り、彼はただの変な襲撃者ではない。オルヴスと同じ教会に属する騎士の一人。
元従盾騎士候補グリム・ティレド。若齢でありながら以前は教会一の腕を持つとされた男だ。
「んだよー、細けぇこたぁいいじゃねぇかよぉー。久々に会ったんだぜ? 剣と拳で愛し合おうぜ?」
教団内でも常勝無敗とされてきた彼。だが、それも数年前にはじめての敗北を喫している。鍵乙女アーノイスの御前で開かれた、従盾騎士を決める為の武闘大会。その最後の戦いでグリムはオルヴスと戦い、敗れたのだった。
「お前だけだオルヴス。俺が戦ってて、どうしようもないくらい楽しいのは!」
それは彼にとってこの上なく予想外で、喜ぶべき事だった。
グリムの剣が纏う炎が、感情に合わせるように膨張する。火炎はもはや剣を覆い尽くし、グリム自身の身体さえも包み込んで、空気すら焦がす。
「本当、熱い男ですねぇ……」
オルヴスも、彼がこうなってしまっては説得では止めるまで面倒になるので戦闘態勢を取る。腰を落として上半身を逸らし、顎を引いて相手を見据え、両の腕の力をダランと抜いた独特の体勢。
「んだよ。本気でやってくれないのかよ?」
だが、それでもグリムは不満げにオルヴスを睨む。
「この姿のままで、少々お相手させていただきますよ」
オルヴスはそれに、口角を僅かに上げて嘲笑を返した。無論、わざと挑発しているのだ。
「チッ……後悔すんなよ!」
さらに火力を上げたグリムの周囲の地面が赤熱化し、溶ける。
「させてみせてくださいよ」
オルヴスの言葉が合図になり、二人が同時に直進し――
「オルヴスー!!」
森を震わす程の怒気をはらんだ絶叫が、止めた。
「うわっ!」
高速で動いた二人に吹き飛ばされた大気が戻る勢いで起きた突風に、荷台から出てきたアーノイスは堪えながらも、視線は自分の従者を睨みつけている。
オルヴスとグリムはお互いの拳と剣がぶつかる寸前で止まったままだ。
「え、ええと……如何なさいましたかアノさ――」
「どうもこうもないわよ! 何よこれ! このサンドイッチ、ピクルスが入ってるじゃないの!」
「えっ、それ僕のなんですけど……」
戦いの最中であった事を忘れ、構えを解き、怒れる主の元へ弁明すべく近づいて行くオルヴス。
彼の主はピクルスが大嫌いであった。
「サンドイッチなんて食べないと中身わかんないじゃない! 分けてるなら名前書いときなさいよ! むしろサンドイッチは全部アンバタにしときなさいよ!」
「そんな無茶苦茶な……」
流石にこれは予想外だったか、オルヴスも少々頭を抱える。そんな二人の様子を見てか、グリムもようやく固まった状態から剣を降ろしてアーノイスらの方を見た。
「おいおいアーノイス様よぉ、俺達今戦ってたとこなんだけど」
「ああ、やっぱりあんただったのねグリム。何でこんなところにいるのよ。あんたは目的地の偵察が任務でしょ。私達に追い付かれてどうするのよ」
不機嫌さを隠しもせずにグリムへも未だ怒ったままの視線を向けるアーノイス。
グリムは溜息を吐き、取り敢えず大剣を背中の鞘にしまいこんだ。やる気が削がれてしまったらしい。
「俺だってさぁ、もう二つも先の村に居たのに教会がさぁ、二人に一度戻って来いって伝えろなんて言うからさぁ、急いで戻ってさぁ、きたんだけどさぁ」
「は? なんでよ?」
「知らねーよー……まあここからなら教会もそんな遠くないし、鍵乙女様の大好きなアンバタでも買いに戻れば―?」
戦う事以外は基本的にどうでもいい性分のグリムは頭の後ろに手を組んでその辺りをフラフラとしはじめる。元従盾騎士候補とはいえ、彼は別に敬遠な信者でも鍵乙女を守るという使命に惹かれたわけでもなかった。
「では一度教会に戻る事にしましょうか。わざわざ呼び付けるという事は何か大事な用があるんでしょう」
「待ちなさいオルヴス。その前にこの私の後味の悪さを何とかしなさい」
ピクルスの独特の酸味や塩味が未だ口の中に残っているのだろう。気分が悪そうに顔を歪ませるアーノイス。
「あ、ははは……今代わりを作ります……」
「全く、本当我儘なお姫様だな……」
オルヴスは愛想笑いを、グリムは呆れて呟きを漏らしていた。