―悔恨―
持ち主のいなくなってしまった湖の畔の一軒家。結界の施術者も同様である為、既に隠れてはいない。とはいっても、まだ日も昇り切らない時間の為人がよりつく事はないが。
その寂しき家のベッドにアーノイスは横たわっていた。全身に包帯が巻かれ、頭部も目元を隠すように施されている為、起きているのかどうかも定かではなく、呼吸も過ぎるくらいに静かでともすれば生きているのかどうかもあやしく思える程だ。
そんな彼女の額に固く絞ったおしぼりを乗せて、オルヴスは席を立った。異形のフェル最後の一匹をアーノイスが倒したあの後、すぐにエトアールの三人は退却し、迷走の結界も跡形もなく消えた。正しい判断だ、とオルヴスは一人ごちた。でなければ、彼は全力であのエトアールの人間を始末していただろうから。リシェーナの、無関係の人間の死、それに深く傷つき、また自らをさらに傷つけたアーノイスを思えばこそ。
そこまで考えて、彼は頭を振って外へと出た。後少しで朝日が昇り行くだろう空は星すらなく暗い。徐に、オルヴスは力無く膝をついた。そして、拳で地面を叩く。
「僕は……」
霊力を通さないままの力では、少しだけ土を抉っただけで、皮が裂けて血が滲む。だが、そうして出来た傷も、黒い靄が染み出して一瞬にして閉じてしまう。彼は、何もしてはいないというのに。その光景を久々にまじまじと見て、オルヴスは歯噛みした。加減無く力を込めたため、自らの歯肉が限界に達して血が溢れるがそれも刹那の事。すぐに痛みすら消える。
「僕には!」
油断をしているつもりはなかった。だが、慢心はあったのかもしれない。守ると誓った筈なのに、傷つけてしまった、そんな後悔の念がオルヴスに慟哭を強要する。それに呼応するかの如く、浮かび上がる白い呪印から黒の闇が染み出し、黒手が蠢き始めた。
「何も出来ない……っ!」
闇が彼の周囲の命を喰らっていく。草花が枯れ粉と化し、大地を形成する土も生気を失ってひび割れて行く。空気すら淀み、蹲る彼の周囲一部分だけが一連の景色の中で黒ずんでいくような、そんな光景。それは、彼が意図的に生み出している物ではなかった。感情のままに溢れだしてしまう力は、オルヴスという檻に常に囲われて普段は表へ出てくる事はない。だが、今の彼にその力の制御は出来ていなかった。徐々に範囲を広めて行く手が、世界を蝕んでいく。両手両足を着いた地面が生気を失い、脆くなって崩れた瞬間に、オルヴスもようやく、力が奔走してしまっている事に気付き、慌てたように立ち上がって、一際光る胸部の呪印に手を当てて抑え込む。しかし一度噴き出した力の流れは強く、簡単には戻らない。当てた手にも力が籠って行き、遂に魔狼化して爪が服と胸部の皮膚を突き破った頃、ようやく黒の手も動きを止めてその色が薄まって行った。
「惨めだな。魔狼。それが貴公の呪印交霊か」
侮蔑と落胆を込めた若い男の声がオルヴスの背後から響く。いつもであれば、ゆっくりと振り返り、何かしらの言葉を返したりもしただろう。だが、今のオルヴスにそんな余裕はなかったのか。振り返るという動作すら見せず、魔狼化したその鉤爪で声の元へ容赦のない一撃を加える。金属音と共に止められた奇襲は、地面と大気を吹き飛ばし、数十メートル半径を進んだところで見えない壁にブチ当たりその全てを砕いた。
「珍しく、血気盛んな事だな。結界を張っておいて正解だった。でなければこの美しい場所が消し飛んでしまう。まあ、いくらなんでも一撃でなくなってしまうとは思ってなかったが……」
『まだ生きていたのか』
空間から半分だけ引き出した細剣で爪を防ぎながら呟いたクオンの言葉への返答は、オルヴスの声ではあるものの、誰ともつかない老若男女幾人もの声も重なって空間に木霊する。またその姿もいつもの戦闘時に見せる魔狼のものでありながら、黒のオーラを迸らせ、止めどなく周囲の命を吸っているように思える。さらに“手”が伸びて競り合いを演じるクオンの元へと伸びる――が、届かない。
「その力、我には通じぬぞ」
口の端に小さく笑みを浮かべながら、自らの体に白い闇を浮かび上がらせるクオン。その呪印の形はオルヴスと同じように違う、似て非なる形をしていた。
『それが』
「ん?」
『どうかしたのか!』
かち合う爪、その手首の辺りから靄が噴き出して漆黒の狼を形成して飛び出す。受ける剣の角度を変えて狼の牙をどうにか防ぐクオンであったが、勢いは殺しきれず大きく後方へと押し戻された。
「なんと、禍々しい」
ガチガチと剣にまで牙を咬み立てる狼の首を振り払うクオン。その、すぐ眼前。魔狼の姿から片腕だけを残して人間のものに戻り、霊刀を構えるオルヴスの姿があった。
「消えろ」
逆手に握られた刀が抜き放たれる。光の追随すら許さない一撃がクオンを狙うが、間一髪か、一閃をまたも空間から現れた鏡の如き刀身を持つ剣が瞬間受け止めて弾ける。尚も斬撃を進んだようだが、皮一枚でクオンは回避していた。
「迂闊だな!」
弾け宙を回転していた剣が消えて、細剣を手放したクオンの手元にその柄が現れる。それを逆手に握り、まるでオルヴスの抜き打ちを真似た一撃がオルヴスを襲った。剣先がオルヴスに届いたとは思えない。それでいて尚、鏡の剣は先程オルヴスがフェルを斬殺した時と同じように、彼の体を分断する。横一閃に真っ二つになったかに見えたオルヴスの体はしかしてフェイクであった。象っていたのは靄。霧散すると共にクオンの背後に影が指す。今度は、魔狼の姿であった。振るわれる爪、五本の爪のそれぞれの先から黒い刃が飛び、襲いかかる。刃が届くとほぼ同時にクオンの前に現出した三叉の槍が彼を守るかのように極大の雷を撃ち上げて相殺する。雷が晴れたそこに、クオンの姿は既になかった。どこに消えたかと周囲へ向けて気配を探るオルヴスだが、その探査網に引っ掛からない。
「悪いが、まだここは貴公と決着をつける舞台ではない」
『出てこい! 今ここで貴様を喰い千切ってやる!』
空間の何処からか響き渡るクオンの声に、幾重にも重なった魔狼の吠え声が返り、その爪が手当たり次第に、空間を“叩き割り”はじめる。全身から伸びる黒い腕もそれを手伝うが、等のクオンを掴めない。
「無駄だ。そんな事をしても冷静さを欠いた今の貴公では境界の向こうの我は捉えられまい。では、さらばだ」
クオンの気配が消える。うっすらと空間全体に漂っていた雰囲気さえ消え去って、オルヴスは歯噛みし鉤爪の手を握り絞めた。己を貫こうと悔恨の念が力を緩める事を許さない。魔狼が、声に鳴らない咆哮を明けかけた空に響かせた。