―涙―
アーノイスの振り下ろした光の剣が瞬間的に吸い寄せられるように異形の一部たる蛇を切り裂く。苦悶の吠え声と共に切り裂かれなかった蛇が彼女を遥か下方の地面へと叩きつけた。
彼女の術により隔絶された空間は微動だにしないが、雲に近い場所からはたき落とされた衝撃は計り知れない。それでも、アーノイスの身体に傷は見えない。だが、全身は血塗れだ。全て、烙印術の行使による反動である。使い方も詠唱もその力もアーノイスは良く学んでいた。それ故にその強力な力が起こす副作用の辛さも知っていた、その筈なのに、彼女はまるでタガが外れたように術を連発し、その結果か決して戦える筈のない相手と死闘を演じている。全てを切り開く光の剣を生み出し、隔絶させた世界の中で逃げる対象との“距離を閉じ”て一撃を加える。当たるか、もしくは避けられて食らう反撃を“閉じた”その身で受け止める。行動のほぼ全てに負担の大きい筈の烙印術を使い、それの反動によるいたみすら強引に閉ざして。
仰向けに地面に転がったまま、アーノイスは口を開いた。
「どうして、あなた達は」
紡ぎかけた台詞は途中で小さな咳に遮られ、息と共に鮮血が噴き出る。それでも彼女は尚言葉を続けた。
「どうして、命を奪うの」
まるで、痛みなどまるで感じていないかのよう。隔絶された空間、その地は彼女の流している血でもはや真っ赤で、人の致死量などとうに超えている。それでいて尚、彼女の戦う意志に揺らぎはない。先刻よりも鈍く遅く重たい動きで手を伸ばす。
「……そう。寂しいのね」
閉ざされた空間の中では彼女しか言葉を発していないのに、まるで会話をしているような台詞であった。
そして突如、アーノイスの体が烙印の放つのと同じ光に淡く包まれはじめる。印から溢れ出す有機体の如き光が彼女の身体を覆い尽くし、アーノイスを宙空へと吊り上げて浮かばせる。音も無く形成された光は卵の形を成し、そして割れた。
最初に現れたのは一対の巨大な翼。光のにより形づくられ、微妙なコントラストで羽一つ一つがある事が伺える、鳥類の白鳥のような羽根だった。続き、仄かに輝きを放つアーノイスの肢体が露わになる。光の翼を背負っている事と光の剣が消え去っている以外は衣装も姿形はそのままだが、血みどろに汚れていた筈の彼女はまっさらな白であった。そして、もう一つ。水色であった彼女の頭髪も月明かりに照らされ光る銀白に染まっていた。その姿は童話に描かれる天使そのものと言えよう。
地面から1m程浮き上がっているその場に静かに、彼女は佇む。
そのあからさまな隙を、異形は襲う事無く、また距離をとる事も無く、呆然とした様子でただ複数の目で見ていた。
先に動いたのはアーノイスであった。翼の内左のものが折れて羽根の先を彼女の胸元近くに動かす。そこに右手で触れ、光の珠を摘み取った。翼が離れてまた元のように大きく広がると、アーノイスは遥か直上にて身動きしなくなったフェルを見上げる。視線は外さずに、摘み取った光を両手で合わせ、引き延ばす。形成されたのは光で出来た弓矢。彼女は身の丈をゆうに超えるその弓矢の先を、異形へと向けた。
「解かれ、放たれよ」
矢を掴んでいた指が離れ、一筋の光が天を昇り、空に座すフェルの中心を撃ち抜く。巨大なフェルを貫いたそれは体躯の真ん中まで到達すると失速し、代わりに十字に伸びてフェルを貫通した。
「還りたまえ」
光の十字架が炸裂する。パレート・オフェリアにより隔てられた世界を神々しいまでの光が包んだそれは、外から見ればまるで天へと至る光の柱だ。
やがて輝きが収まると、空に居た筈の異形は跡形もなく消え去り、アーノイスだけが佇んでいる。その姿は先程の天使のものではなく、血に塗れた一人の少女のものだ。糸が切れたマリオネットのように、少女はふらつき、そして仰向けに倒れた。同時に、薄氷が砕ける音を立てて彼女の作り出していた結界が崩壊する。
「アノ様っ……!」
すぐさま、アーノイスの横にオルヴスが跪く。一瞬抱え起こそうと動いた彼だったが、あまりの重傷を負った彼女に触れていいものか逡巡している様子だ。
「オル、ヴス……わ、たし」
「喋らないでください。お体に障りますから」
やられているのは喉か肺か、掠れた声を出すアーノイスをオルヴスは制するが、彼女は首を横へ向け、何かを見つめる。
「わたし、あの子をっ……巻き込んじゃった。助け、られなかった……!」
彼女の視線を追ったオルヴス。そこには、少し乾燥して黒くなりかけた血に覆われた、人魚の少女の半顔。暗くなってしまった色のエメラルドの眼球が無感情に二人を見ているようだった。
「ごめん……ごめっ…。ごめんね……っ」
アーノイスが悲しみの涙を流す。嗚咽と血痰の混じった声で
悔しさを吐き出して。そんな彼女の目元を、オルヴスの手が静かに覆った。
「今はもうお休みくださいアノ様。後の事は僕が何とかします」
アーノイスが何か言いかけて口元が開くが、すぐに力なく閉じる。オルヴスの手が離れ、閉ざされた彼女の目元から一筋の涙が零れた。