―烙印術―
光条が降りる。それは光のとばりが如く。夜闇をいとも簡単に切り開く輝きが、異形から生えた蛇の一匹の頭を断ち落とした。
刹那の肉薄からの一撃は完璧にフェルの感応外で行われたもの。そよ風すら感じさせない、まるで彼女とフェルとの距離を消滅させたかのような。いや、事実そうであった。
己の一部を絶たれた異形は本能により、光の剣を振り下ろしたままのアーノイスから中空へと離れて逃げる。体を起こし、眼でそれを追うアーノイス。右手の剣もそのままで、烙印が爛々と輝いている。小さく、彼女の口が開いた。
「シェイト」
剣を今にも振り下ろさんと直上へ向け、真紅に充血した瞳が異形を映す。血が集まり瞳孔が開き過ぎたその眼が、本当に視界を捉えられているのかは定かではない。元の藤色と血の赤でまるで宝石のよう、宝石が、欠片の雫を落とす。赤黒い、血の涙。
「クローセ」
呟きとともにアーノイスの姿が消え、同時にフェルの真正面へ現れた。没する前のまま、光の束は天を衝き、動いた筈ならばはためく筈の服も髪も不自然なまでに風を感じておらず、止まっている。
再び、光のとばりが降ろされた。特別、技巧が見えるわけではない。剣の振り方など、幼い頃に教養としてやった、それも殆どお遊び程度のものだ。故に彼女はただがむしゃらに込められるだけの力を込めてその一刀を振り翳す。
だが、それだけで素直に切られる事など、奇襲の一度目ならまだしも二度はない。体を捻り刃から逃れたフェルがそのままの勢いを持って、口から生えた数匹の蛇の体躯を叩きつけた。巨体による高速の一撃が旋風を巻き起こし、地面を抉り土砂ごとアーノイスをまるで木の葉のように吹き飛ばした。
体が千切れ飛んでもおかしくはないその衝撃の中で、しかし彼女は外傷を負っていない。先程よりも激しく流れはじめた血涙と新たに加わった耳腔鼻腔からの出血以外は。さらに深く紅に染まる眼球に、再び離れいくフェルを捉え、彼女は叫び唱える。
「パレート・オフェリア!」
瞬時に大地に刻まれたタウ十字の光印、それが結ぶトライアングルの結界が、見えない壁となり飛び去る異形を阻んだ。
「アノ……様?」
雲よりも高い場所で異形の一体に刀を突き立てていたオルヴスの動きが止まる。彼の耳に聞こえたのは、紛れも無く己の主の悲痛な叫び声。絶望と憤怒が入り混じった、久しく聞くその声が空耳だなどとは、彼は決して思わなかった。
未だオルヴスの周囲には数体の異形が数匹の蛇をうねらせて威嚇しているが、彼はもはやそんなものに見向きもせず、全力で空を蹴り地表へと降りる。真下の湖の水が彼の連れてきた風圧を受けて巨大な水柱を形成するが、関係ないと言わんばかりに彼女の声がした場所へ馳せ参じた。
「アノ様!」
見えない壁を両の拳で叩き声を荒げたオルヴス。その眼に映るアーノイスの姿は、彼も見た事がないものだった。
藤色の瞳は深紅に充血し、端からは赤黒い涙をとめど無く垂らしている。耳腔と鼻腔からも同じ色の血を流し、全身に刻まれている烙印が服の上からでもはっきりと形がわかる程に爛々と煌めき、その淵からも出血しているようだ。血の赤で彩られた衣装は泥汚れが所々見受けられた。
「おやめくださいアノ様! アノ様‼」
しかし、オルヴスの声は隔絶の壁に阻まれて届きはしないのか。ふらつき、まるで錆びたブリキの人形のように緩慢で固い動きで右手の剣を振り上げるアーノイス。見ているのは、天空へ距離をとっている醜悪な異形。口から無数のヘビを出しているが、そのうち何匹かは頭がなかったり、千切れかかっていたりと損傷していた。それを、アーノイスがやったのだという考えに至るのはごく自然な事だ。だからこそ、彼女の今の満身創痍な状態も理解出来る。だが、オルヴスには納得出来なかった。
「アノ……!」
1ミリ足りとも踏みいる事の出来ない空間にオルヴスは血がにじむ程握り締めた拳を叩きつけるが、意味はない。そんな彼の元に、先程上空で戦っていたフェルの残りが集まり、取り囲む。その気配を敏感に感じ取ったオルヴスだが、わざわざ振り向いたりなどしなかった。
「失せろ」
ただ一言、そう言って白い闇を浮かび上がらせる。呪印交霊。夥しいかずの魔の黒手が刹那という言葉すら生温い速度で、今まさに牙を剥きかけた異形を一匹残らず喰らい潰した。