―何故―
視界が、世界が元に戻る。影に添えた筈の指は離れて、自分が何故か膝をついていた。
「今のは……一体――うっ!」
周囲が自分の元いた場所と同じである事を確認しならが、アーノイスは立ち上がろうとし、再び膝をついた。耳鳴りと頭痛。思わず抑えずにはいられない。あまりに不愉快なその痛みと音が、彼女に正常な行動を起こさせようとしない。
「頭が、割れ……る」
まるで眼の奥をくりぬかれるかのような痛み。鼓膜を直に引き裂かれているような音が、まるで押し寄せる波の如く断続的に続く。わけもわからず癇癪を起こしそうになるのを必死に堪え、痛みと戦う。どれだけの時が経ったのかわからない、後一瞬でも長引けば精神が壊れてしまうかもしれない、そんな一歩手前で、ようやくその痛みの波を静かに引いた。飛びそうになる意識をなんとか繋ぎ止め、よろよろと立ち上がる。立てる事が自分でも不思議であったが、そんな事を深く考える余裕までは流石になかった。そうしてようやく、自分の眼の前にいたオルヴスの影が消え、代わりと言わんばかりに、心配そうな眼をしたオルヴス当人の姿ある事に気付いた。
「大丈夫ですかアノ様、一体何が。また、声ですか?」
平静を装っているがその実結構焦っているオルヴスの声を受けて、アーノイスは少しだけ微笑ましい気持ちになる。けれど、先程の頭痛のせいか上手く笑う事が出来なかず、曖昧な表情をしていた。無事、自分の元に戻ってきたオルヴスを見て。安堵の気持ちに緩んだ気が足元をふらつかせ、オルヴスに支えられる。礼を述べようと視線を上げて、その途中で彼女は息を呑んだ。目に映ったのは黒。だが、それは月明かりの下での話であり、実際の日のもとで見たときに、一体どんな色に見えるのかは想像に難くない。彼がいつも来ている白のカッターシャツは無惨にも袈裟に裂かれている。その切れ端の方から濃く、それも着衣全体に行き渡る程の色が染みついて、鉄錆のような匂いを発していた。そして、衣服の下に覗く肌色。そこでアーノイスは彼の身体に何か紋様が刻まれているのが見えた気がしたが、今話すのはそれではなかった。
「な、何よ、これ……オルヴス、貴方」
「ああ、すみません。お召し物が汚れてしまいますね。すぐに着替えて――」
ハッとしたようにゆっくりと体を離し、自分の衣服がアーノイスに決して触れないよう注意して下がるオルヴス。
「そうじゃない! そうじゃ、ないじゃない……」
一端アーノイスから離れ、テントの中へ戻り新しい衣服を取りに行こうとする彼を、アーノイスが引き留めた。その藤色の瞳は動揺と心配に揺れ、彼の身体のあちらこちらに目線が動く。服装はところどころズタボロ、その切れ端は例外なく、重たい液体で染められていた。
「例の、エトアールの方々がやってきまして。少々戦闘を行いました。捉える事は出来ず逃してしまいましたが……」
申し訳なさそうに言葉尻をすぼめるオルヴスを、アーノイスは別の意味で責めたくなった。彼の話、行動全てが自分を二の次にしている気がしてならないのだ。それは、アーノイスにとって決して心地のいい事ではなかった。彼女は嫌だったのだ。自分の為に誰かが傷ついてしまうのが。その結果に誰かが消えてしまうのが。それが彼女にとって最も避けたい事であった。それなのに、このオルヴスという青年はずっと、自分の事を蚊帳の外に置くスタンスを崩さない。無論、感謝はしていた。してもしきれないくらいに。それにどう応えていいか度々悩む程に。そしてそれと同じくらい、何も出来ない自分が、アーノイスは歯痒く、辛かった。
「どうして? どうして貴方は、そうまでするの……?」
出会って以来、幾度も思い、一度も聴けなかった事。自分自身を世界の枠から外しているような物の見方をする彼の、その真意をアーノイスは知りたかった。そんな問いが来るとは夢にも思っていなかったのだろう。オルヴスは珍しく驚いた表情で少し固まっていた。そして、静かに、背を向ける。一瞬、聴いてはいけなかったのか、とアーノイスは後悔した。彼のそんな反応はこれまでに見た事がなかったからだ。
「……ともかく、テントに戻りましょう。僕はこんな出で立ちですし、アノ様も体調がよろしくないようですから」
言って、オルヴスはテントへ向かう。アーノイスも黙ってついて行き、テントの中に入った。オルヴスは衣服を手に一端外に出て着替えを済ませてテントの中に戻っていった。駄目にな
ってしまった衣服は外に捨ててきたようである。いつもと変わらないカッターシャツだが、少し新しいものであった。
沈黙が流れる。アーノイスはその静寂を噛み締めるようにただ、荷物を漁るオルヴスの背中を見つめていた。やがて、オルヴスが二つのカップを取り出して、片方をアーノイスへと渡した。紅茶の良い香りがテントの中に満ちていく。
「あ、ちょっと動かないでくださいね」
オルヴスがアーノイスに渡しかけたティーカップを一端置き、ポケットから青いハンカチを取り出してアーノイスの口元を拭う。いきなりの行動についていけないのと気恥しさで、驚いたように仰け反るアーノイス。
「すみません。でも、口元が切れていたので」
そう言って、アーノイスに触れたハンカチを見せるオルヴス。そこには結構な量の血がついており、アーノイスの唇には、噛み千切ってしまったような傷跡が残っていた。恐らく、先程の頭痛の際に噛み切ってしまっていたのだろう。それがわかってからようやく、彼女は下口唇が妙に痛い事に気付いた。
「あ、ありがと。っていうかこれくらい言ってくれれば自分でも出来るのにっ」
子供のような扱いが不服だったのか恥ずかしいのか、白い頬をほんのりと赤く染めながら、受け取った紅茶を啜るアーノイス。熱が少し唇の傷に染みたが、あまり当たらないよう気をつける。
お互いに言葉を発せないままに時間が過ぎた。どちらも普段通りに見えなくもないが、オルヴスはあまりアーノイスの方を見ないし、アーノイスはオルヴスの方を見るのに何処か遠慮がちというか怯えがちというか。そんな様相で数分。二人とも紅茶が空になるまで沈黙であったが、ふと、オルヴスが口を開いた。
「アノ様は……」
「何?」
何処か言い淀んでいるようなオルヴスの言葉の続きをアーノイスが促す。それでもまだ何処か言い辛そうにしていたオルヴスであったが、意を決してアーノイスを真っ直ぐに見た。
「ご迷惑ですか? 僕が」
「え?」
予想外過ぎた言葉にアーノイスは目を見開いた。あまりに想定外の言葉過ぎて、しばしの間二の句が継げなかった。少々の時を置いて冷静になったアーノイスの頭が、恐ろしい速度でまず言うべき言葉を探索する。そして、弾きだした。
「ば……ばっかじゃないの?」
怒りと焦りと呆れでついに出てきた台詞がそれ。今度はオルヴスが驚いた顔をする番であった。いつも微笑を浮かべる目が点になっている。
「何よ、どうすればそんな事になるっていうのよ」
アーノイスは憤った。護られている立場の自分が口を出すのはおこがましいのかもしれない。だが、彼を従盾騎士と認めその任につかせたのは他でもない彼女自身だ。その理由がどうであれ。己を全ての事象の外部として捉えるような思考をする彼が、はじめて自分自身の事について言及したのが、アーノイスの事を思っての台詞。それも、結構ネガティブな方向で。
「迷惑なわけないでしょうが。私がどれだけ貴方の世話になってると思ってるの? 貴方が居なかったら私は鍵乙女なんてやれていなかったって、言い切れる。その貴方を迷惑だなんて言わないわよ。むしろ感謝、してるのに」
立て続けに言葉を吐き、アーノイスは嘆息した。その後で、何故か少しだけ微笑む彼女。
笑顔の意味がわからなかったオルヴスは疑問符を浮かべて右のこめかみの辺りを掻いた。そんな彼の仕草に気付いたアーノイスが、ああ、と笑ったままで言った。
「ごめんなさい。貴方も、そんな風に不安に思う事があるんだなぁ、って。ちょっと安心したかも」
面白そうというよりは楽しそうにどこか嬉しそうに、アーノイスはクスクスとまた笑う。呆気に取られっぱなしであったオルヴスも、ようやくいつもの微笑に戻り、閉口を解いた。
「酷いですね。不安くらい、僕にだってありますよ」
「だって、そんな素振り見せないんだもの」
「それは……」
一端言葉を切り、空になった紅茶のカップをアーノイスから受け取り、荷物の中にしまいながら、再び続ける。
「アノ様がずっと辛いめにあっているというのに、僕が弱音なんて吐くわけにはいかないじゃないですか。全く、さっきのは失言でした……誰かに怒られたのは久しぶりですよ」
「私は貴方みたいに血塗れにはなってないもの。それに、私の方が年上なのよ? 無茶なんかしてたら怒るのは当たり前じゃない」
そんなアーノイスの返答に苦笑しながら、オルヴスは寝袋に潜り込んだ。アクシデントがあったとはいえ、まだ夜は明けていない。何もないならば寝るべきであった。それはアーノイスも理解しているのか、見習って寝袋に潜り込む。
「……どうして、そこまでするのか。僕も以前、アノ様に聴いた事がありましたっけ」
アーノイスの方に背を向ける形で横になっていたオルヴスが、そう口を開いた。寝転がっても瞳はまだ閉じていなかったアーノイスは、月明かりの透けるテントの天井を見るともなしに眺めたまま、答える。
「そうね……」
それは門を巡る旅を少し経った頃だっただろうか。儀式の際に聞える声、それに毎回気を失う彼女を案じたオルヴスが聴いた事だった。『何故、鍵乙女である事から逃げようとは思わないのか』その当時から教会に属している人間とは思えない言動をするオルヴスであったが、アーノイスはそんな彼にどうしてか、それまで肉親にですら言った事がなかったある誓いをオルヴスに教えたのだった。
「チアキ、でしたか」
それは、彼女の記憶の中に何よりも深く刻まれていた人の話。その人への誓い。
「うん。そう」
頷きながら、アーノイスは先程の自分の問いへの答えが結局うやむやにされていた事をふと思ったが、今更聴き直す気にはなれなかった。代わりに、といってはなんだが、別の質問をぶつけた。
「ねぇ、オルヴス。貴方は……チアキの事、知らないの?」
「何故、そうと?」
「門のあるところを結構何回も周って来たけれど、黒い髪で黒い瞳の人は見なかった。貴方を除いて、ね。だから、もしかしたら貴方とも何か関係があるんじゃないかって。ずっと、思ってて。それに、チアキも兄が一人いるって言って――」
門はアヴェンシスを中心にペンタゴンを描くように置かれている。それを一周するということは大陸の大半を回っているのと同義だ。
アーノイスは言葉の勢いのままに半身を起しかけてオルヴスを見つめるが、彼は背中を向けたまま、至極淡々と答える。
「……知りませんね。それに、珍しい色の組み合わせですが全く見ない程ではないですよ」
「……そう」
乗りだした体を元に戻し、寝袋を引っ張って半ば被るようにするアーノイス。
「ごめんなさいね。もう寝ましょう。おやすみなさい」
「いえ。おやすみなさいませ」
言って、二人とも目を閉じた。完全な暗闇の中で、アーノイスはオルヴスに彼の少年を聞いた理由がもう一つあった事を考えていたが、それを口にするのは憚られた。見間違いかもしれないし、気のせいだったのかもしれない。血染めのシャツから覗いたオルヴスの身体に刻まれていた、在りし日の少年のと同じに見えた漆黒の刻印は。