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白月に涙叫を  作者: 弐村 葉月
五章 苦痛と悲哀
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―影―

鳴り響いていた轟音、震える地べたと空気。そして何より、自分の隣で寝袋にくるまっているであろう人物の雰囲気がしなかった事、その違和感にアーノイスはテントの中一人でに眼を覚ました。

朝方からずっと続いていた幻聴も烙印の引き起こす痛みも今はない様子だが、それでもまだ気だるさは残っているのだろう。どこか緩慢というか億劫な動きと眠気から抜けきらない少々半開きな眼で、隣の空になっている寝袋を叩く。ボフっと空気が抜け、為すがままに沈む寝袋が、いる筈の人物の不在を知らせる。アーノイスの記憶が正しければ、この寝袋の主は昨夜も寝ていない筈だ。それに加え、彼女の安眠は妨げた轟音と震動。何かが起こっている事をアーノイスが理解するのに時間はかからなかった。

テントの向こう、周囲の霊気に気を配りながら、彼女はテントのすぐ前に彼の霊気を感じ、静かに伺うように、垂れ幕の隙間から外の様子を覗く。輝く月明かりに少々目がくらみながらも、そこに彼の、魔狼と化した際のオルヴスの後ろ姿を見たアーノイスは心の内に安堵と、その後に沸々と湧く憤りを感じながら、靴を履き、テントの外へと出ていった。


「何してるのオルヴス。何か――」


彼に近づき、問いかける最中に言葉は途切れる。その魔狼の姿をした影は彼自身ではなかった。通常、魔狼と化したオルヴスの姿は青銀の髪に漆黒の肌と金色の眼である。しかしながらそこにいたのはまるで狼の影。髪までもが漆黒で微妙に色合いが違う。さらに瞳の部分は黄金に光っておらず、空洞のように白く濁っていた。一瞬、オルヴスではなかった事に驚き、警戒を見せたアーノイスであるが、それが以前見た事もある存在だった事を思い出し、構えを解く。何かしらの事情でオルヴス自身がアーノイスの側を離れる際、ほぼ必ず置いて行く、“魔狼の影”。分身のようなものだとオルヴスは言っていたが、これは言葉も発しなければ表情もない。まるで人形であった。


何故、こんなものを。そうアーノイスが思索を巡らしはじめたと同時、世界を捻じ曲げたかのような霊気の乱れを全身に感じた。精神の浸食をする術でも受けたかのような体の奥底の乱れ。不快とも不安とも取れる圧倒的な負の波動に、アーノイスは身体を強張らせながらも、何とかその発生源を見る。高いで出来た壁の向こう、さらにその奥の天へ、黒い獣が駆けあがっていくのが遠目に確認出来た。その獣は、今眼前にいる影と全く同じ雰囲気を惑わせている。


そうして、彼女は今この影の主、オルヴスが何かしらの敵と戦っている事を察知した。そしてその敵というのが、こうして自分の元に影を落としていかなければ心配になる程の相手だという事も。寝ている自分を起こさないようにか巻き込まないようにかは定かではないが、場所を移しているのもそんな理由であろう事は、想像するに難くない。


「どうして、貴方はそこまで」


眼前にただ存在しているだけの彼の影を見つめ、その向こうに映る彼自身に問いたくて、アーノイスは口を開いた。つい先日、大出血の痕を残して帰ってきていた。その次の日には儀式をしたアーノイスの看病をし、夜通しピアノを弾いていた。そしてその夜が明けた後の次の夜。殆どの休息も取らず辿り着いたこの場所でさえ、彼は戦っている。戦い自体を彼自身が望んでいるのならば、致し方ないと言える事なのかもしれない。しかし、曲りなりにも数年来の付き合いであるアーノイスは、元来彼が戦いを好まない性質である事くらい見抜いていた。強いのは、十二分に知っている。しかしそれでいて尚、彼は自らの為に戦いを起こしたりはしてこなかった。そう、アーノイスは見ていた。


白く細い指先が、ゆっくりと漆黒よりも深い影に近づく。近づけばわかる、そんな気がしていたのかもしれない。華奢な五指の先が、微動だにしない影の頬に触れた。と、同時。

彼女の視界は暗転した。






『く、来るな、来るな化物っ!』


木造の何処かの家。玄関があったと思しき場所は深く抉られたように消失し、暗い夜の外の情景を写しだしている。田舎なのか、街灯は外に見えない。いや、それを確認しようにも、彼女の視界と玄関の外の光景との間には闇があって、見通す事が出来ない。

突如変わった視界、何の前触れもなく耳に降り注いだ絶望と焦燥に塗れた男の声、見た事もない光景、今の自分にしては低すぎる視点。アーノイスは唐突に切り替わった自分の周りの世界に困惑を隠しきれなかった。何が起こったのか、声に出して不安を叫びたかったが、どういうわけが身体は指一本動かない。周囲を見渡そうにも全く動かない。その視界は眼の前にある闇に釘付けであった。生き物のように、人の手のような形をいくつも型作りながら、妖しく蠢く闇。そこに光は欠片の程もなく、何もかもを飲みこまんと、そう断言する深黒の闇であった。


『なんだ、なんなんだよこれは!』


自分の右側から声がする。右手が痛いくらいに誰かに掴まれている。汗ばんだその手はゴツゴツとした感触だが暖かく、声もあって、恐らくは人のそれも男の大人がそこにいるのだろうと、アーノイスはなんとなくわかった。となれば、今の自分は子供だろう。視界が低く、手は大きな手にすっぽり覆われ、声も結構上方から聞えてくるのだから。

彼女は、自分の感覚であって自分のものではないその握られた手が引っ張られるのを感じた。その、瞬間。引かれると同時に自分の背後に向きかけた視界が、蠢いてた闇に覆われた。いくつもの人の手を模した黒い何かが、全身を掴み、そこから根こそぎ何かを剥ぎ取られていく感触。痛みではない。ただ、苦しい。自分の身体をどこまで酷使したとしても、味わえないような疲労、倦怠感、喪失感。一つの声を上げることすら許されず、まるで自分そのものが奪われていくようだと、アーノイスはそう思った。黒の手に潰されて行く視界と思考の狭間で、闇の向こうに黒髪の、いつか見た少年の姿を、アーノイスは見た気がした。

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