―左眼―
「気に入ってもらえたかな? 我のコレクションとでも言おうか。全てではないが、まあ今ので三分の一と言ったところだ」
未だ晴れぬ砂煙の上で、クオンが喉の奥で笑いを押し殺しながら言う。未だ砂煙に包まれている地上からの返答無いが、クオンは続けた。
「本当は貴公にまず、鍵乙女と門。世界のこの二つの仕組みについてどう思っているかを聞きたかったのだがな。まあ、仕方ないか」
一息つき、今度は周囲に首を巡らせる。
「ふむ。鍵乙女の居た最初の場所から大分離れたようだが、どの方向だかわかるかユレア?」
二人は月も届かんという空で戦っていた為、いつの間にか場所が移ってしまっていたらしい。クオンの言葉を受けたユレアが左目にしている眼帯に指先を当て逡巡する事数秒。あちらに、と言いながら指を指し、アーノイスの眠るテントの方角を示した。
「では、行くとしようか。従盾騎士殿と先に話をしておきたかったが、まあ仕方あるまい。つい熱くなってしまったよ」
「戦いに興じるクオン様も輝いておいでですよ」
二三言葉を交わし、二人はアーノイスの元へと向か――おうとして、その足を踏み出せなかった。最初に感じたのは不可視の圧力、プレッシャーと狂気、殺気。目には見えないのに、まるで暗黒の深海に叩き落とされたかの如く、重く深く、彼らの身体にまとわりつく。そしてそれは、二人の挙動を一瞬遅らせた。地上の砂塵の殆どを吹き飛ばし、現れる黒い瘴気の塊。それの模す姿はまるで一匹の巨狼であった。月を背にした二人を、まるで月ごと呑み込まんが如く開いた顎。それが地獄にすらも辿りつけない魔の入り口である事を、クオンは刹那の時間も掛からずに理解した。
「どけ! ユレア!」
「クオン様!?」
一にも二にも先にユレアを突き飛ばし、迫りくる巨狼の牙から逃すクオン。だが、出来たのはそれだけであった。地表から天まで、瞬間という言葉すら拙く思わせるほどの速度で迫った狼の顎が、クオンを飲みこむ。そして、瞬く間に通り過ぎて、虚空へと闇の残滓すら残さず消える巨狼。残されたのは、その一度の攻撃だけで全身から血を滴らせる緑髪の男ただ一人。数秒、静止していたと思われていた男の身体が傾き、重力に引かれた。
「クオンっ!!」
主の名前を叫び、空間の断裂を利用して即座に主の直下へと現れるユレア。落ちかけたクオンの身体を受け止め、再び中空に留まる。黒紫色の彼女の衣装でもわかる程、血が染みつきはじめる。
「やってくれましたね……痛かった、ですよ」
砂煙の晴れた地上から響く声に、ユレアが激情を滲ませた隻眼を向けた。そして、驚愕する。何故、その男が立っていられるのか。何故、そいつは何事もなかったかのように立ち上がっているのか。
オルヴスはゆっくりと天を見上げた。月明かりに照らされた魔狼化で伸びた銀の長髪も血で所どころ赤黒く染まり、服もボロボロになっているというのに平然としていた。その足元には先程クオンに寄って叩きつけられた武器らが無数に転がり、足元にはどこまで続いているのかわからないほどに深く、ユレアの放った鎌での一撃の痕が残っている。だがそれでもオルヴスは立ち上がっていた。全部避けた、なんて事は有り得ない。現に本人も痛かった、とまでのたまっている。
「なん、だ……今のは」
掠れた声で、ユレアに抱きかかえられたままのクオンが口を開いた。しかしその眼は焦点が合っていないのか、視線では何を見ているかわからず、口調もどこか覚束無い。
「まだ生きているんですか。しぶといですねぇ」
問いには応えず、自分の事は棚に上げて嘆息するオルヴス。ユレアの隻眼がより一層の憤怒を顕わにし、彼を睨みつけた。
「ユレア……」
「クオン様、喋らないでください、お怪我に――っ!」
一端オルヴスから視線を外し、クオンの容態を心配するユレア。だが、それは格好の隙であった。そこを突くのは卑怯、と言えるのかもしれない。しかしこれはルールに乗っ取った試合等ではない。単なる殺し合い。その場で見せる隙、弱さなんてものは、相手に対して殺してくださいと言っているようなものだ。故に彼は動いた。魔狼の影が、二人に映る。無情に、無慈悲に振るわれる淀紅の五爪が二人を裁断せんと襲いかかった。クオンを庇うように鎌の刃の背でその一撃を凌ごうとしたユレアであったが、クオンを抱えたまま片手では到底抑えきれる代物ではない。弾き飛ばされ、砂上へと墜落した。
「鍵乙女と門、世界の仕組みについてどう思っているか、でしたか? 別に隠すような事でもないので答えましょうか」
地上に降り、静かに歩を進めてユレアらとの距離を縮めながら、オルヴスが先程のクオンの問いに返答する。
「一言で言えば、僕自身にとってはなんだって良い事ですよ。世界の為に門が、鍵乙女が必要であるとしても、僕にとってそれ自体はどうでもいい」
「ならば、何故……」
息も絶え絶えと言った様子ながらも、クオンは答えた。先程と違い、目もはっきりとしているのかしっかりとオルヴスの姿を捉えている。
「何故従盾騎士になり、鍵乙女を護っているか、ですか? 簡単な事ですよ。まあ、こんな事言うと世界中の方々から反感を買いかねませんが、まあ、滅んだ国の人間かつ教会の敵対者には言っても差し支えないでしょう」
数mまで距離を詰めた所でオルヴスは止まった。そして言う。
「僕は鍵乙女を護っているのではなく、アノ様を護る為に従盾騎士でいるだけです。万が一、彼女が鍵乙女ではなかったならば僕はこんなところで貴方がたと戦っていなかったかもしれません」
世界で唯一、鍵乙女を直接護る従盾騎士の放つ台詞ではない事は、前述の彼の言葉通り彼自身も熟知している様子であった。それでもオルヴスは淀みなく、その台詞を口にし、それでいて欠片も罪悪感と言った感情はないと見えた。
「それはそれは……見上げた忠誠心だな」
薄く笑い、クオンが言葉を返す。言葉は発せてもまだ指一本動かないのか、ユレアに抱えられたままだが、それでも死んではいない。
「もう動かないでください。あとは、このユレアがなんとか致します」
「すまんな。よりにもよって左腕をやられるとはな……」
クオンを横たえ、鎌を手に立ち上がるユレア。砂の上に寝かされたクオンの、その左腕はなかった。先程の攻撃で千切れてしまったのか、服の切れはしと同じように肉が骨が無惨にも剥き出しになっている。二人のやりとりに一瞬の眉をひそめたオルヴスであったが、すぐにユレアへと視線を戻した。
「貴方お一人でやるおつもりですか? 大人しくしていた方がいいと思いますが。殺しはしませんよ。貴方がたには聞かなければならない事もありますし」
「確かに、私では貴方を殺せないでしょう。ですが、この場を乗りきるくらいの事は出来ます……では」
言って、ユレアはその左目を覆う眼帯に手を当て、引き千切った。
「そこに至る路、見せていただきます」
顕わになる、左の瞳。いや、瞳ではなかった。眼球とほぼ同じ大きさと思われる、ダイヤモンドのような宝石がそこには埋め込まれていた。そして、それ自体がユレアとはまた別の霊力を放っている事をオルヴスは感じ取っていた。それも、強大な霊力を内包している事を。
「人体に魔具を埋め込むなど……正気ですか?」
言うものの、それほどの驚きは乗っていない声でオルヴスは言う。
「これは、クオン様が私に取り返していただいたものの一つです。無駄話はやめにしましょう……」
ゆらり、と酷く緩慢にユレアが動いた。大鎌を腰だめに構え体勢は低く、“左目”がオルヴスを写す。一閃。大きく振るわれた鎌から放たれた紫黒の斬撃がオルヴスのすぐ右側を掠めた。
「この距離で何を――」
狙ったにしてはあまりに見当違い。今更威嚇の一手というのも、あの大仰な構えからは想像し難い。一拍置いて二閃、だが今度はオルヴスが先に動いた。猶予を与えるつもりなどなかった。こんな下らない事に付き合うつもりもなかった。一息に肉薄した魔狼の爪が彼女を襲う。大鎌を振るう動作があまりに遅く思える程の速度。勝敗は決した、筈であった。
無機質な金属音が響き渡る。ぶつかる爪と刃。そんな事は有り得なかった。鎌はまだ振り切られてすらいない。いくら巨大なその獲物でも、懐に入り込まれ即座に反応できるわけはない。それ以上に、その刃の出所が異常であった。ユレアは先程の一閃から返すように二撃目を振るった筈であるのに、あろうことかオルヴスの爪とかち合った刃は、ユレアのその背後から伸びていたのだ。クオン、その可能性がオルヴスの脳裏に過ったが、ユレアの背後で横たわったままの当人の存在がそれを否定する。
「一撃目、貴方はこちらに攻撃を仕掛けず……」
ギリギリと押し合う刃に全力を込めながら、ユレアが口を開いた。
「二撃目と開始と同時に距離を詰め、左手の五指を斜め下45度の角度で振り上げる。全て……『視えて』いますよ」
ユレアの左目が鮮血の涙を流していた。そしてオルヴスはようやく理解する。その魔具たる宝石、彼女が行った“路”の意味を。今爪とかち合っている刃は、一撃目の斬撃の際、彼女の背後に造られた亀裂から伸びているのだと。その証拠に彼女が持っている鎌の先端には空間の断裂が出来ており、刃がそこに埋まっている。
「厄介な」
せめぎ合っていた両者の均衡をオルヴスが強引に崩す。だが、それが間違いだったと気付いた時には遅かった。先程の刃を出現させていた亀裂が顕在であり、ユレアはクオンを掴み、弾き飛ばされた勢いを利用して即座に空間の向こう側へと入り込む。同時に振るわれた刃が突貫し追撃しようとしたオルヴスの動きを阻害し、紙一重でユレアとクオンは空間の狭間に逃げ込んだ。
『それでは。この借りはいずれ返させていただきます。魔狼、オルヴス』
何処からか響くユレアの声。オルヴスは既に追おうとはしなかった。彼としては、捉えておいた方が良かったのだが、相手が逃げたのならばそれでいい。そう判断した。せめて魔具の回収でもと思ったが、いつの間にか砂上に突き刺さっていた無数の武具も何処かへと姿を消していた。残るのは、クオンの流した血痕のみ。
「逃がすのは甘いとは思いますがね……まあ、いいでしょう」
オルヴスの姿が黒い靄に包まれて剥がれ、元の人間の姿へと戻る。しかしながら流した血で染まった身体や髪、服までは戻る筈もなく、非現実的であった先程までの彼の姿と比べると、これまで以上に痛々しい姿に見えない事もない。とはいえ、彼当人は気にもしていないのだが。
静けさを取り戻した夜空の下を、オルヴスは真っ直ぐにアーノイスのテントの方へ歩いて行った。