―来訪―
儀式翌日。
昨日の騒動のまま、礼拝堂で一夜を明かしてしまった二人は、朝の見回りにきたレイクに発見された。彼の見回りの後には修道女や神父らによる朝の礼拝が始まる為、ここ学術教会の司祭に匿ってもらい、ついでに朝食も頂く事になった。敬遠な信者である司祭は、鍵乙女であるアーノイスに集まる信者達に向けて何か一言でもいいから祝福を与えてくれないかと懇願したが、今は事態が事態である。アヴェンシス教会、引いては鍵乙女そのものが狙われているかもしれない状態で、大衆の面前に出るなど自殺行為だとオルヴスが断りを入れた。さらに、従盾騎士であるオルヴスが砂漠の門にて既にその敵と会ってしまっているのである。あの時オルヴスが会った三人の消息は掴めておらず、この街を離れたともまだ潜伏しているともしれない。事が起こった際にその敬遠な信者までも巻き込んでしまわない可能性はない。それを考慮しても、この街を早々に離れるのが得策であった。食い下がる司祭をオルヴスが何とか説得し、二人はレイクの手引きで民衆に悟られぬよう裏道を使い、マイラの街を後にしたのだった。
まだ体調が万全とは言えないアーノイスに砂漠越えは辛いものがあるだろうと、オルヴスはレイクに掛けあい、救護用に造られた特性の橇を用意していた。救護用として造られたそれは、屋根を完備し、内部に砂や風等が入り込まないよう幌とさらに幌には呪印も組まれているという優れ物だ。
唯一、砂嵐も起きていなかったのが僥倖といえるだろう。
そんな事を思いながらオルヴスはただ、黙々と橇を引くラクダを急がせた。一応、ラクダ達が途中で力尽きる事のないよう最低限の配慮はしているが、もしも駄目になったとしても自分が引いていけばいい。そうまで思っていた。
「ごめんなさいね、オルヴス。何から何まで」
橇に横たわるアーノイスが、蚊の鳴くような声で言う。彼女は顔面蒼白で、額には冷やしたタオルを乗せ、眼は真っ赤に充血していた。どうみても健康であるとは言い難い。本来なら医者にでも見せるような状態だが、本人が大丈夫だからと強く推したので、今こうしてオルヴスは街を出ていた。だが、その過程を全て彼に任せきりに、橇に乗り込むのまで任せてしまった事に負い目を感じているのだろう。
「そんな事よりご自分の体調を気にしてください。本当に、いつもの声によるものなんですね、それは?」
オルヴスは彼女の謝罪を一蹴し、逆に彼女の体調の事を聞き返した。儀式後の発作とも言えるこの彼女の不調は今に始まった事ではないが、今回は別段酷い。何か他の要因があるのではないかと勘繰っているのだ。
「うん……わかるの、私には。ただ、今回がちょっと強いだけ。だから、心配しないで。それに、少し楽になってきたもの」
彼女自身がわかると言うのなら、とオルヴスはそれ以上の詮索をする事をやめた。あまりしつこくしても、アーノイスの負担になるだけだからだ。
「無理はしないでください。辛いようでしたら、何とかします。取り敢えず、少しでも楽になったなら寝てください。昨夜だって結局眠れてはいないでしょう」
昨夜、オルヴスが鎮魂歌を弾いていた時は、ここまで辛そうにはしていなかった。多少の効果があると見て良いのかもしれないが、旅をしながらピアノを弾く事は不可能だ。しかしながら、それでもアーノイスは眠れていなかったのである。だからずっと、オルヴスはピアノを弾き続けていた。
「それは、貴方もじゃないの……」
「僕は大丈夫です。良いから、身体を休めてください。食事も摂れるようなら摂ってくださいよ」
言い切り、オルヴスは会話を切り上げた。いつまでも話なんてしていては休まるものも休まらない。橇の幌の中は温度を一定に保つ呪術と橇からの振動を抑える呪術等が刻まれているというから、休むには最適な筈だ。
アーノイスもオルヴスの気持ちを汲み、了承の返事だけをして毛布にくるまった。寒いわけではない。ただ、怖いのだ。声と共に苦痛が続く。それも今まで以上に強い。本当なら、礼拝堂にて、オルヴスの弾くピアノをずっと聞いていたかった、というのが本心だ。だが、それをすると次の行程に支障が出てしまうだろうし、オルヴスの負担も今より大きくなるだろう。何より、こちらが狙われているのだ。一つの場所に留まるのは自分達にも、そしてその場所に居る人達にも危険である。救済の象徴たる鍵乙女が、不幸を呼び込むような存在ではあってはならない。アーノイスの手が、毛布を強く握り締める。そして心の中で、大丈夫だと、自分に言い聞かせた。この発作は儀式後の時間の経過で解消されていく。それまで、耐えていればいい。ただ、それだけの事なんだと。
――夜が更け、流石のオルヴスも行程を就寝へと移すべく、大きな岩の陰に橇を停め、折り畳み式のテントを組み立てた。食事は街を出発する際にレイクから渡された保存食だけだが、ないよりマシだ、と調理してテントの中で横になるアーノイスへと渡す。アーノイスも、昼間程の辛さはもうなりを潜めて普段通りの対応に戻っていた。とはいえ、ほぼ一日中苦痛に苛まれていたのだ。すっかり憔悴し、正直なところ手足を動かすのもの辛い、というのが彼女の本音だった。その様子を見抜いたオルヴスが食事も食べさせようかと提案したが、これくらいは出来るんだから、と突っぱねていた。
そして、現在。食事の後片付けも終え、身体を休める以外にする事のない二人は寝袋に潜り込んでいた。疲労が溜まっていたアーノイスは既に静かな、時折苦しそうな寝息を立てている。辺りは静か過ぎる程で、テントの中からでも小さな風やラクダの身じろぎするような音まで聞こえるくらいだ。そんな中、オルヴスは物音を立てないよう寝袋、そしてテントから出て行った。このまま彼が眠らないつもりであれば、徹夜二日目という普通なら旅をするような状況ではなくなるのだが、当の本人は至っていつも通り――ただ一点を除いて、だが。
「ご機嫌麗しゅう。魔狼殿」
まるでオルヴスの登場を待っていたかのように、若い、しかし威厳のある声がそう、夜の砂漠に響いた。