―ピアノ―
「――リープ……シュラーフェン」
声が、響いている。
暗闇から意識が戻り始めたアーノイスが、それを感じた。
「ドルミール……ドルミーラ」
呟くような囁くような声なのに、歌っているようにも聞こえる。それはきっと、この囁きを彩るピアノの音のおかげだろう。優しい旋律。静かでいてどこか力強く、それでいて荒々しさを思わせない柔らかい曲調。ただ耳にしているだけで心が鎮められていく、そんな調べ。
「……いい、曲だわ」
寝ていた身体を起こし、アーノイスは周囲を見渡した。そうしてはじめて、そこが教会の礼拝堂で有る事を知った。何度か入った事もある。学術教会の礼拝堂であった。始祖教会に引けを取らない程に広いが、天井の造りが違う事をアーノイスは何故かは知らないがよく覚えていた。始祖教会の礼拝堂が四角形な造りで天井も非常に高いのに比べて、ここ学術教会のは天井が低く、円形な造りだ。文化であったか気候等による違いだと、オルヴスが説明していてくれたような気がしていた。
「御目覚めになりましたか。アノ様」
曲が止まり、オルヴスが座席に寝ていたアーノイスの側にやってくる。彼女の様子を伺い、特に異常はないと判断したのか、笑顔を見せた。
「気分の方は如何ですか?」
「ええ、いつもより楽。さっきの曲のおかげかしら。貴方が弾いていたんでしょう?」
そう、アーノイスも少しだけ笑みを見せる。実質、いつもなら起き上がるのも辛く、儀式の後の目覚めはいつも聞えて来る声のせいで最悪なものだが、今は不思議とその声は彼女に聞えていなかった。とはいえ、幾分かはマシな程度に過ぎない。彼女の額には脂汗が浮かんでおり、動作もどこか緩慢だからだ。
「はい。恥ずかしながら」
どこか自嘲気味に言うオルヴス。
「何も恥ずかしがる事ないじゃない。なんて曲なの? 聞いた事ないわ」
大抵の宮廷音楽や教会で使われるような讃美歌等なら、アーノイスにも多々聞き覚えはあるが、先程の曲は全くそれに当てはまらないものだったのだ。
「ただの鎮魂歌ですよ。アノ様に聞えているのが霊魂の声であるのならば、少しは効果が望めるのではないかと思いまして」
まあ、ベンチなんて堅い場所に寝かせてしまったのは謝ります。と付け加えオルヴスははにかんだ。
アーノイスは感心する。彼は本当、何でも知っているように思えてならない。と。アーノイスの頭に耳鳴りが響いた。思わず、耳を塞ぐように両手で頭を抑えるアーノイス。
「アノ様!?」
「ごめん……オルヴス。さっきまでは、良かったんだけ、ど」
耳鳴りがどんどんと強さを増して行く。それに加え、彼女の身体の烙印が反応し、痛みを引き起こす。そうして次には声が聞えはじめる事をアーノイスはよく知っていた。知りたくもない事ばかり、こうして強烈に残って行く。思考をするのも辛くなってくる苦痛の中で、彼女はそんな事を考えた。
「すぐにベッドまでお運びします」
言って、アーノイスの身体を抱えようとする手を、彼女は拒む。今までそんな行動を取られた事がないオルヴスは動揺の色を隠せない。そんな彼に、アーノイスは何とか頬笑みかける。
「違うのよ、オルヴス。あのね、さっきの曲、もう一回弾いて欲しいの」
拒むのに掴んだ手を強く握るアーノイス。それ以上の言葉は激しくなる彼女の動悸に遮られ聞えなかったか、続けられなかったが、オルヴスはその指示に従った。『声』に怯えうなされているいるのは彼も幾度となく目にした事があるが、起きている状態でここまで苦しむ姿は見た事がなかった。一瞬、先程の曲が原因なのかもしれないと思わないでもなかったが、彼女がそうしてくれと言うのだ。確証もない自分の判断で行動するわけにはいかない。
アーノイスを一端席に寝かせ、椅子ごとピアノの近くへと運ぶ。少しでも状態が悪化するようならすぐに演奏を止める。その為に、ピアノの席に座ったオルヴスは視線をアーノイスの方から外さず、そのままで先程の曲を弾き始めた。
音が彼女を不必要なまでに刺激する事のないよう、さっきよりも意識して。少しでも少しでも、彼女の苦痛が和らぐよう祈りながら。
死者の魂を鎮める為に創られたという哀しい旋律は、朝日が昇るまで、礼拝堂に鳴り響いていた。