―紅槍―
「う、うわぁぁあ! は、蜂蜜だと思ったら味噌だった!」
「マロリ! それ俺のもろきゅうのだから!」
食事の時間は騒がしく続いていた。ワインを頼んだマロリが酔って、「甘い物食べたいなー」とか言って、スティーゴのもろきゅうについてきた壺に入った味噌に手を突っ込んだり、マロリが手当たり次第に店内の女の子を口説きはじめたり。
スティーゴはマロリが問題を起こさぬようハラハラとしながらコメツキバッタのようにそこらじゅうに謝罪を巻いている。グリムはグリムでその二人の動向など眼中にないようで、三杯目のお手製サザンクロス丼を平らげたところだった。三杯の丼ご飯とマロリやスティーゴの頼んだつまみをちょいちょい食べたおかげで、幾分か満足した様子であった。
「んあ? メルシアの奴は何処行った?」
そこでようやく、この宴の席にメルシアの姿が無い事に気づく。赤い髪を掻き、そこにも居ない事を確かめながらまだ理性を保っているスティーゴへと聞いた。
「ごめん、わかんない。外かな……雨も止んでるし、ってマロリ! お前また!」
「ま、また味噌だったぁあ! スティーゴ! 蜂蜜用意しろって言ったろ!」
再び始まった二人のコントには眼もくれず、グリムは徐に席を立ち、酒場の外へと出て行った。
スティーゴの言っていた通り、外の雨は既に止んでいて、雲も流れて行ったらしく星々が瞬き始めている。あの酒場に居ると雰囲気飲まれて時間の感覚が無くなるが、外に出て空を見てみればわかる。ぐるりと辺りを見渡すグリムだが、その紅い眼には金髪の童女の姿は見つからなかった。珍しい、とグリムは思う。彼女が旅先で単独行動を取ることなど滅多にない。有ってもお手洗いとかそう言ったものに限るからだ。それ以外はちょこちょこと後ろを着いて来るか、人の頭に乗っかってどうでもいいような話を続けているかのどちらかだ。まあ、彼女なら例え一人だとしても特に問題はないのだろうが。
とはいえ、グリムとしては心配するのは別の話である。「得意じゃないんだけどな」だとかなんとか愚痴りながら、眼を閉じ、メルシアの霊気を探る。こういう細かい作業は彼の得意とするところではないが、出来ないという事もない。数秒で彼女の大体の位置を掴んだグリムはその方角、先程一行が進んでいた道とは反対の町の出口へと歩き出した。
町を東に出たところにある古い街道。もはや人々には滅多に使われず、殆ど獣道となっているその場所に、メルシアは一人立ち尽くしていた。雨が止んだことで出てきたのだろう虫たちのコーラスが聞え、照らすのは月明かりのみ。あまり背の高くない木々のおかげで月光もよく入り、たまに飛び交う蛍の姿もあいまって、少しばかり幻想的な情景と言えるだろう。しかしながら、彼女の表情は浮かない。それに加え、メルシアは周囲にフェルや襲撃者の存在を感じていないにも関わらず、普段の童女の姿ではなく、戦う時に見せる大人の女性の姿となっていた。緩やかなウェーブが掛かった金の髪と物憂げに見える琥珀色の瞳が、わずかな光に反射して、色彩に乏しい夜に華を添える。
と、地面を見つめていたメルシアが顔を上げ、後ろに振り返った。
「なんだ、探しに来てくれたのか? グリム」
まるで近づいてきているのがわかっていた、とでも言うように自然と言葉を発し、暗闇から現れるグリムを見る。その視線は優しく、それでもどこか憂いを残したままだ。
「……勝手に居なくなってんじゃねぇよ。一言ぐらいかけてから行きやがれってんだ」
彼女の珍しい表情も、大人の姿にも触れず、グリムは少し拗ねたような声で言った。その苛立ちは彼女に対してなのか、自分に対してなのかわからない、そんな様子である。
「すまなかったな……」
メルシアの返答はそれだけ。謝罪の台詞だけを告げると、再び元に向き直って、顎を引いて地面の一点を眺めはじめた。
その様子を、黙ってグリムは見つめる。たまに周囲に首を巡らせて夜盗やフェルの気配がないかを探り、それでもメルシアの背中は視界から外さなかった。
そうして時が過ぎる事数分。全く立ち去る気配を見せないグリムに、メルシアは静かな声で語り始めた。
「ここは私にとって世界で一番大切な場所なんだ」
この、何もない木と草と虫たちに囲まれた場所を。メルシアはそう言う。疑問符を浮かべるグリムだったが、不用意に突っ込まず、彼女の言葉の続きを待った。
「もう千年になる。私はこの場所で、大切な人を一人、見殺しにした。その時はこんな木とかなんて何もなくて、見渡す限りの荒野だった。本に記憶を閉じているからとはいえ、鮮明過ぎるくらいに覚えているよ」
メルシアの持つ七つの本。それは彼女が過ごして千年という膨大な時の記録だ。それはグリムも知っていた。知っていたとはいえ、その詳細まで理解しているわけではない。ただ、彼女は千年の時を生きてきた。それだけは言葉のままに信じる事にしている。
「そういえば、私が生きている理由を教えた事はなかったな」
メルシアが振り向き、琥珀の双眸をグリムに合わせる。
「約束だ。私が見殺しにしてしまった人との、最期の約束だ」
一瞬、唇を噛み締め、少女はその金の長髪を揺らしてグリムの胸元へまるで倒れ込むように飛びこんだ。
「お、おい……?」
「お前に会う為に私は今まで生きてきた」
何の前触れもなく寄りかかって来た少女の体重をなんとか受け止めながら、グリムは困惑の表情を浮かべた。どうしていいかわからないまま、茫然とすること数秒。メルシアは自分から離れ、先程まで見つめていた地面の場所にしゃがみ込み、手を翳す。
「この場所に来たのも何かの縁だろう。グリム。お前に渡して置きたいものがある」
さらに疑問の色を濃くするグリムを余所に、メルシアは何事か詠唱しはじめる。歌うように、呟くように、聞いた事もない言語で紡がれる詩のようなそれが終わると同時、鮮紅の光が立ち昇った。強いその輝きに思わず眼を閉じるグリム。光に焼かれた視界を次に開いた時、眼の前に一本の十字槍が現れていた。刃は鈍色で鋭く太く強靭で有る事が伺える。柄は長く人の身長を遥かに越え、深紅の色。柄の尻にも刃が付いていた。特別な装飾なんてものは特になく、ただ、深い紅の柄に黒い文字のようにも見える刻印が螺旋状に刻まれている。刻印以外は何の変哲もない槍に見えない事もないが、グリムはその姿を見た途端に、動揺を感じていた。その槍は彼にとって間違いなくはじめて見る物。だというのに、“それ”はまるでグリム=ティレドそのものであった。グリムの特異体質である火霊術を使う際に感じる霊気の匂い。霊気と言うのは本来此処の生命体で全く別の感覚がするもの。だというのにこの槍はグリムのそれを止めどなく匂わせているのだ。
無言で、メルシアがその槍をグリムに向けて渡す。恐々としながらも、グリムをそれを、手に取った――その瞬間。
『……これで、魂は、ここに置いていける』
グリムではないグリムの声が、彼自身の頭に響き渡る。何処から聞えるとも知れないその声が、槍からの流れてきているのだと、グリムには何故だか知らないがわかり、あっさりと受け入れていた。
『どれだけかかっても、絶対にお前を探して見せる。だから、待ってて!』
次に聞えたのは、よく耳に馴染んだ、眼前に居るはずの彼女の声。だが、そこ言葉を発したのは眼の前のメルシアではなく、またしても槍。
メルシアはグリムにその槍の声が聞えているのがわかっているのか、静かに彼の事を見つめていた。どうしてか、今にも泣きそうな顔で。
「それはお前の槍だ。グリム。お前が持つのにふさわしい。だから、私はこの場所に封印していた」
「俺の……」
そう言って、メルシアは光に包まれて、普段の、童女の姿へと戻った。
「よっ、と!」
すぐに、軽やかに飛びあがり、いつもの定位置、グリムの頭の上に乗るメルシア。
「戻ろうグリム。いい加減宿を取らないとな」
頭上から聞える、普段通りの少女の明るい声。
「……ああ」
しかしグリムは生返事。手渡された槍を片手で持ち、来た路を引き返す事なく、しばしの間立ち尽くしていたのだった。