―ひとり―
始祖教会は、その大国の城並みの大きさ故か、中に有している浴場も相当な広さがある。教会での任に従事している者達だけが使用出来るそこは、一度に大人数が仕えるようにとの設計が為されているのだろう。浴槽は一つだが、入口から反対側は湯けむりもあり殆ど見えない程だ。造りは簡素で余計な装飾も殆どないが、床面の素材が大理石であったりと、目立たない贅沢さがそこにはある。王女であったアーノイスも、とにかく広いこの湖のような大浴場には驚いたものだった。これが男女で分かれて二つある、というのは教会の世界に対する権限の強さの一端であるのだろうか。
湯に浸かる前に桶で身体にお湯を流して慣らし、それからそっと身を沈めていった。
「ふぅ……」
思わず溜息が出る。鍵乙女とはいえ、いや、鍵乙女であるが故に、修道女達も使うこの風呂場はあまり自由に使う事が出来ない場であった。第一の理由はやはり、彼女の全身に刻まれた世鍵。二言目には鍵乙女は世界を担う高貴な存在だから云々という、如何にも宗教的な理由がつくのだが、アーノイスはそちらはどうでもよかった。
そんな事をふと思い、顔を鼻が息が出来る限界まで湯船に潜る。王女の時は風呂に入る時ですら一人ではなかったのに、今では独りが多かった。流石に慣れたが、時折昔を思うと寂しくなるものまた事実であった。
「む、アーノイスじゃないか」
そんな沈んでいた彼女の背後から突然、少女の声が降ってきた。
万が一にも誰かが居るとは思っていなかったアーノイスは驚き、振り向く。メルシアだった。
「メルシア!? なんで居るのよっ」
「いや、研究に夢中になってたらいつの間にか夜も更けてきて……眠たくなってきたので風呂にでも、と思ったんだ」
言いながら、アーノイスの隣に座るメルシア。
「私は巫女だからいいよな?」
前述の理由だが、巫女である彼女は以前にアーノイスの世鍵の確認をした事がある為、該当しないと言えばしない。そもそも、この人物にしきたり云々が当て嵌められるのかわからないが。
「わ、私は……別に、構わないわ」
それを考え、アーノイスは了承した。驚かされたのは別として、誰か側に居てくれる事は、彼女としてはどちらかというと歓迎すべき事だった。ましてや、鍵乙女の事情にも詳しい巫女の立ち場たるメルシアだからだ。
「むー、なんだかよそよそしくないか?」
「そんなことないわよ」
「嘘だな。アーノイスのその顔は、何か考えてた顔だ」
外見は年端もいかない少女だというのに、メルシアの話し方や先見の眼はまるで相応しくない。はじめて会った時から何年も経っているが、千年の時を生きている、というのも眉唾じゃないなとアーノイスは改めて思った。
「鍵乙女って……ひとりなのかな、って思って。ちょっと……ね」
「鍵乙女は常に世界に一人だ。でも、孤独ではないと思う。現に、アーノイスにだってオルヴスがいるじゃないか」
「え、いや、その……オルヴスとお風呂は入らないじゃない……?」
「ふぇ!? あ、いや、そ、そういう意味で言ったんじゃ……」
何か勘違いしたのか、耳まで真っ赤にしてお湯の中に顔半分を沈めるメルシア。彼女が誤解した方向と自分の言葉の他方面的な意味を今更わかったのか、負けず劣らず頬を紅潮させるアーノイス。
「い、いやいやいや、そっちの意味じゃないからね! 違うんだから! ええと……ほら! メルシアとこうして一緒にお風呂に入るのって、はじめてじゃない?」
「ああ、そうだな……ああ! そういう事か。私はてっきり二人はもうそんな段階直前まで進んでいたのかと……いやいや。ともかく、あれだな。一緒にお風呂に入れるような人が全くいないものなのか、とそういう事か」
「そうそう! 全く何勘違いしてるのよ」
何とか誤解でかみ合わなかった話を元に戻す二人。全くもって妙な勘違いを起こすものである。
「ひとり……か。独りと言えば独りだと思うが、鍵乙女を求める人々や支え護る為に尽力する掲剣騎士だっている。私としては、やはりオルヴスが一番アーノイスの事を思ってくれていると思う」
そうメルシアは言う。しかしアーノイスはそれを聞き、少し沈んだ顔をした。
「うん……オルヴスは優しいわ。いつも私を気遣ってくれてる。だけど……」
「それは従盾騎士だから当たり前なんじゃないか、って考えてるんだな」
心の内を言い当てられてアーノイスは頷く。メルシアはさらに言葉を続けた。
「オルヴスが従盾騎士として鍵乙女である自分を気遣ってくれているなら、結局は他の掲剣騎士や民衆と同じ、自分は独りだと、そう思っている」
アーノイスはもう一度顎を引くも、さらに深く沈む。その眼はまさに孤独に怯える少女のそれだった。
「難しい問題だな、それは」
「私はいつもオルヴスに頼り切りだわ。分かってる筈なのに、旅の時はいつも余裕がなくて、私は不器用だし迷惑かけるんじゃないか、って」
「それで主従たろうとしている。矛盾だな」
「そうね……」
包み隠すことなく突き立てられるメルシアの言葉。さらに落ち込んでいくアーノイスに、メルシアは再び声をかけた。
「私も人の心はよくわからない。だけど、そうだな。今のままでダメだと思っているなら、出来る事からやってみればいいんじゃないかと私は思う」
「出来る事……?」
少しだけ顔を上げるアーノイス。メルシアは微笑んで言った。
「まあ、あれだ。一先ず明日の朝は自分で起きてみるとか」
「……そう、ね。ここで寝泊まりしてるわけだし、私だってそのくらいやれば……」
「そうだ。旅の時とは違ってこうしてお風呂も入れたし。アーノイスは低血圧だから朝は辛いかもしれないが」
メルシアの言を遮り首を横に振るアーノイス。その眼にはまだ不安や孤独感は拭いきれていない色が残っていたが、同時に決意の色があった。
「まあ、その……すごい当たり前の事で今更って感じがしないでもないけど……やってみる」
「うむ。何かあったらまた話すと良い」
「じゃあ、その時はまたお風呂一緒してもらおうかしらね」
「鍵乙女様は寂しがり屋だな……アーノイス」
ふとメルシアの表情が固くなり、瞳がアーノイスを見据える。その眼差しに、何処か悲哀が写っているようにアーノイスには思えた。
「どうしても、鍵乙女である事が辛くなったら私に言え。頼む、約束だ」
巫女にはあるまじきと言えるその台詞に、アーノイスは、何を、と動揺するがどうしようもなく懇願するような巫女の瞳に、彼女は何も言えなかった。対するメルシアはすぐに「話はおしまい」とでも言うように笑顔を見せる。
その後、先程の発言はなかったかのように、ポツリポツリと他愛のない話をしながら夜は更けて行く。
やがて、二人分の笑い声が広い浴場に溶けて行くのだった。