―アヴェンシス―
「……ここは」
アーノイスは目を覚ました。写るのは先程までずっと見ていた馬車の幌ではなく、白に複雑な文様が施された部屋の天井。なんて事はない。今はもう慣れ親しんだ、現在の鍵乙女アーノイスの部屋だった。全体的に白く清潔感のある色調の部屋で、床は紺色のカーペット。その他今彼女が横になっているベッド、クローゼット、一組のテーブルとチェアが完備され、生活には困らないが簡素な部屋であった。それもその筈。鍵乙女は一年の殆どを世界の門を周る旅を続けている為、この部屋で寝起きする事はそうない。
「いつの間に着いたのかしら……」
部屋の窓から外を眺める。空は青く日が高い。眼下には広大な街が広がっていた。セパンタのような乱雑な巨大さではなく、整備された道に整頓されたように立ち並ぶ建物。建物自体も四角く整えられている。
アヴェンシス教会総本山。自治都市アヴェンシス。アヴェンシス教会が最初に建てられた場所で、千年の月日の中で多くの人が集まり、自治をはじめたのが期限とされている。今となっては大国の首都並みの巨大さを誇る世界最大級の都市の一つだ。
アーノイスはその街の中心に位置する、城と見まごう程の大きさの始祖教会の最上階の一室に居た。そこは代々の鍵乙女が過ごすとされている部屋で、当代の鍵乙女他は巫女と従盾騎士以外、立ち居る事の出来ない場所だ。無論、彼女がいない間の管理は修道女達がやっているのだろうが。
ここに来てしまった以上勝手には動けない。考えなしに教会の下に降りてしまえば、瞬く間に信者に囲まれてしまうからだ。それを知らぬアーノイスではない。
ベッドの端に腰を下ろし、そのまま上半身を横に倒した。
「また、あんな夢……」
先程まで繰り広げられていた過去の鮮明な光景を思い返す。もう、記憶の中でしか会う事のない少年。
「……ディロデクト」
彼に教えてもらった古い言葉。そして。
『護ってくれるって、言ったのにー!』
彼を思い出す度に脳裏にリフレインする、幼き日の自分が泣き叫ぶ声。アーノイスは横になったままでその声を振り払おうと頭を振った。
「ディロデクト。ウィジャ家の扱う霊呪術で、霊力を極限まで凝縮、定着させる事によって他の物理、霊力問わず障断する光と為す。維持には多大な霊力消費が掛かり、術を発祥した当家ですら扱える者は少なかったという……だったかな」
そんな彼女の横に、いつの間にか金髪の童女が居た。ぶかぶかの白衣に身を包み、首からは教会のタウ十字のネックレスを首から下げている。何かを思い出すように指を顎に当てて斜め上を眺めていた。
「め、メルシアっ! いつから居たのよ!」
その存在に全く気が付かなかったアーノイスはベッドから飛び起きると、その少女――メルシアの前に仁王立ちして睨みつける。
「なんだ。烙印術使って目が覚めない鍵乙女を看病して上げてたというのにー」
だがメルシアはそれに驚くでもなく頬を膨らませて臍を曲げた。
「あ、ああ……えっと、ごめんなさい」
「うむ。わかればよろしい」
アーノイスの謝罪の言葉に、尊大に胸を張る少女。既に成年間近の女性が年端も行かない少女へ、素直に頭を下げているというのはなんとも珍妙な光景ではあるが、それも致し方のない事。
それは鍵乙女、従盾騎士そして巫女しか立ち寄る事の出来ないこの部屋に居る事もそうだ。
鍵乙女アーノイス、従盾騎士オルヴスそして巫女であるのが彼女、メルシアだ。
巫女は鍵乙女の補佐、世話役としての役職、というのが名目だが、それは建前。メルシア本人は基本アヴェンシスを離れない上に、教会発足して以降、巫女となったのはメルシアのみだからだ。『巫女メルシアは千年の時を生きる魔女』と、教会は公表していないが、噂話は世界に知れ渡っている。事実、彼女の知識の量は尋常ではなく、教会の最高議会である審判団ですら知りえない事を“記憶”している。
一節には初代鍵乙女の旅路にも加わっていた仲間だとも言われ、世界の行く末を見守っている、と言われているが、真実は定かではない。
「呼吸脈拍霊波動に異常無し、と。問題なしだ」
アーノイスが寝ている間に検査術をかけたのか、そう言って部屋の出口まで行くメルシア。
「もう動き周っても大丈夫。私は研究室に戻るから。何かあったら読んでくれ。それじゃ」
「あ、待ってメルシア」
アーノイスの呼びかけも時既に遅く、メルシアは光に包まれて部屋から完全に消えてしまう。瞬間移動。彼女が自ら術式を組み上げて作り出した霊呪術の一つだ。巫女はいつも始祖教会地下にあるという通称研究室にて、世界中の文献などを読み漁っては、新たな術をつくりだす研究に没頭している。
「あー、もう」
溜息を吐き、眉尻を下げるアーノイス。だが、ここに居てもやることはない。教会に呼び出された理由をメルシアから聞きたかったが、当人は教会地下。鍵乙女でも瞬間移動の術は知らない。
「オルヴス……どこに居るかしらね」
いつもいつも側にいるが、巫女が居たからか、彼女の従者の姿は見えない。
最低でも街の中にはいるだろうから、彼女がここで彼の名前を叫べばすぐに飛んでくるのだろう、が。
アーノイスはそれをせず、自分の足で部屋を出て行った。用はある、が今は旅の時とは違い安全な教会内。加えて緊急でもないのに彼に足を運ばせるのは気が引けたのだ。
鍵乙女の部屋は教会の最上階に位置しており、部屋を出てすぐ長い螺旋階段が続く。一つの小さな塔を下りたかと思うくらいに階段を下ってようやく、広い廊下に出る事が出来る。
とはいえここも基本的に立ち入りが許されているのは大司祭クラスの人間で、今はオルヴスが使う従盾騎士用の部屋とまるで使われていない巫女の部屋、そして禁書が保管されているという巨大な書庫しかない。書庫にアーノイス自身入った事がないのでわからないが。
そんなわけで、その階で唯一入った事のあるオルヴスの部屋の扉をノックする。
二回。無音の廊下にノックの音が虚しく響き渡るが、中の部屋からは返事がない。まあ、オルヴスが中に入れば部屋の扉に触れる前に気配を察知して出てくるのだから、ノックが出来た時点でアーノイスは期待していなかった。
「んー……街中行っちゃったかしらね……」
彼の事だから、大方旅の準備を整えているのかもしれない。もしくはグリムに突き纏われて災害という名の訓練を修練場で繰り広げている可能性もある。従盾騎士という立場なのだがどうにも教会の教えに熱心というわけでもない、とアーノイスは見ている事から、礼拝堂もないだろう。
「修練場、行きますか……」
若干気落ちした声でそう呟く。本当はこの部屋、もしくはせめてこの階に居てくれればよかったのだが、ここから下にいくとなると、下に進む程人と会う事が多くなる。となれば、そこにいるのは敬遠なる信者達で、まさに聖書の体現者たる鍵乙女はすれ違う人見かける人全てから声をかけられてしまう。それが、アーノイスは未だに苦手だった。元々王族であるのだから、周囲からの視線は慣れている筈、と彼女自身思っていたが、こればかりはどうにもならない事だった。
再度軽い溜息を吐き、階段を下っていくアーノイスだった。