少年と死神
それは、今は遠い幼き頃の記憶――。
少女は泣いていた。
村はずれの小高い丘。宿を飛び出した少女が偶然見つけた場所で、村からそう遠くはないけれど、誰もいなくて静かな場所。少女はその場所で独り、泣いていた。
少女は怯えていた。漠然と自分に圧し掛かる未来に。己の両肩に覆いかぶさる人々の期待、希望、憧憬その他畏怖と尊敬と願望を織り交ぜた祈りが怖くて仕方が無かった。どうして自分にそんな目が向けられるのを少女はよくわかっていた。ほんの数カ月前までは自分もただ祈るだけの人々の側に居たのだから。だが。実際に自分自身がその役目を負う事になって初めて、自身の想いが如何にその当人を苦しめるのかを知った。
けれど、逃げられない。それをわかっていたから、少女は独り、この場所で泣いていた。誰もいないとわかっていても声を殺し、涙の痕を残さないよう必死に隠しながら。
「何をしているんだい?」
と、少女の背後から人の影が伸びてくる。突然現れた影と声に少女は悲鳴を上げる事も忘れて思わず飛び退き――転んだ。
「あ、ごめんなさい。えっと、大丈夫?」
それは少女とそう変わらない背格好の少年であった。村の人ではない事はその漆黒の上等な生地を使った衣服を見ればわかった。村の子供はもっと動きやすそうで汚れても構わなそうなものを率先して着せられていたから。少女が咄嗟にそんな事を思うのは、羨望の眼差しが宿の窓から村の情景を覗いていたからだ。そんな彼女の想いの中で、彼はどうにもちぐはぐだ。
「な、何ですか貴方は。何者です!?」
目尻に残る涙を強引に拭って、毅然とした態度で少年に相対する少女。それが虚勢である事は誰の目にも明らかだったが、少年は恭しく一礼を返し、笑顔で言った。
「これは失礼しました。僕はチアキ=ヴェソル=ウィジャ。ウィジャ家の嫡男です。チアキとお呼びください」
「え? 貴方が……」
名乗りを上げた少年に思わぬ反応を示した少女は、しまったと言わんばかりに自分の口を両手で塞ぐ。この場所は彼女にとって独りで、独りの少女で居られる唯一の場所だった。だから、相手の名前に聞き覚えがあってもそれを言ってしまったら、また少女の居場所はなくなる、そう思ったのだ。
そんな彼女の事情を知ってか知らずか、少年は少女の行動を怪しまず、丘から覗く森と村の風景を眺めながら口を開く。
「いい場所ですね。ここは。静かで、風も心なしか柔らかい」
「そ、そうね……」
追及が無かった事を良しとし、少女は少年の話に合わせた返答をした。頭の中では、自分の正体がバレていないか、先程までの泣き顔を見られていないか、そればかりが気にかかっていた、というのが事実だが。
「ですが、そろそろ日が暮れます。村からそう遠くはないとはいえ、少しばかり森を歩かないといけない。暗くなる前に帰った方がいいと思うけれど」
「あ、貴方が帰ったらね」
少年がどうしてこの場所に来たのかは謎だが、もし一緒に村に帰った時に教会の人や従者などに会ったら素性が割れて、この場所も知られてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。
「それは困る……僕はもう少しこの場所に居ないといけない。だから、先に帰った方がいい」
しかし、少年は少女の思惑通りには動いてくれない。けれど、彼がしばらくここに居る用事があるというなら、早々に帰った方がいいか。そう思った、矢先。
「それじゃ、私は帰るわ。ええと、チアキ、だったわね。貴方も早くここから――」
台詞の続きを、少女は忘れてしまった。音もなく、突如として現れた“それ”のせいで。
彼女も話には聞いていたが、実物を見るのははじめてだった。そいつは少年の背後で、無機質な目を彼に向けながら、木々程もあろうかという大きな身体を浮かせていた。
「ひっ――!」
「おや、これは……困ったな」
人骨のような頭部。その下は黒紫色の霧のようなものに覆われ、そこから人間の骨と思われる両腕がだらんと伸びていた。足はないが、代わりとでも言うように背中からさらに二つの腕、計四本の腕がそれにはあった。
死神。そう少女は思った。まるで本の中に出てくる死神そのものにそれは見えた。
腰を抜かし、地面に座り込んでしまう少女を余所に、少年はそんな異質な存在を目の当たりにしても、先程までと変わった様子を見せない。ただ少しだけ考えるように小首をかしげている程度だ。
「えっと君、早く逃げた方がいい」
「に、逃げるって言っても……」
少年はそう言うが、少女は既に全身が恐怖に震えて指一本動かせずにいた。言葉を喋れたのが奇跡だったくらいだ。
「……仕方ないな」
死神が咆哮を上げる。少女はもう生きた心地がしていなかった。フェルは人を襲う、化物。それは地震や雷等の自然災害と同じで、あってしまっては人間にどうにもできない相手だと、そう教えられてきたからである。
だが、少年は違った。そんな天災を前にしても平然として、自分の何倍もの大きさを誇る死神をジッと見つめていた。
「大丈夫。僕が守るから」
少年の言葉を皮切りに、フェルの四本の腕が、少年を捉えんと動き出す。突き出された手が地面を砕き砂塵を巻き上げた光景を最後に少女は目を瞑った。
耳を塞いでも、死神の咆哮が響き渡る。自分が消えてしまうように縮こまる少女。怖くて怖くて何も考えられなくなる。少女は祈ろうとした。だが、そこに祈るべき存在は居なかった。何故なら、その役目は、祈られるのは自分自身とされてしまったから。絶望する。縋るものがないというのはこんなにも寂しくて恐ろしいものなのだと。少女は改めて実感した。
「ディロデクト」
そんな中。少女の耳にはっきりと、少年のそんな呟きが聞えた。意味のわからない単語。発音も聞きなれないその言葉。だが、その響きはどこか彼女を安堵させた。
同時、先程よりも一際大きな轟音と突風が巻き起こった。座り込んだままでそれに耐える少女。
風が止んで少しすると、少女はもう、死神の叫び声が聞こえなくなっていることに気付き、恐る恐る目を開けた。
「大丈夫?」
「わっ、わわっ!」
視界に入りこんだのは少年の黒い双眸。驚いて悲鳴をあげながら立ち上がって距離を取る。
「ぶ、無礼者! 私を驚かすなんてどういうつも、り……」
「よかった。立てるみたいだね」
朗らかに笑う少年。呆気に取られ、辺りを見回す少女。そこに、先程まで居た筈の死神の姿はない。
「あ、あれ……さっきのは……」
「安心して。もういないから」
少年のその言葉に少女は再びへたり込んでしまう。
「もしかして、貴方が」
「うん、そう。本当は人が気付かない内に済ませるように言われてたんだけど、参ったな、見られちゃったね」
信じられない気持ちで少女は少年を見上げた。黒くて綺麗な髪に同じ色の瞳。珍しい色だが、自分と歳も変わらなそうな少年が、先程の化物と戦った事は簡単に頷けない。けれど、でなければ自分は今生きていないだろう。先程の事を夢だと思うには流石に都合が良過ぎる。
「んーと、この事は秘密にしておいてくれなかな?」
困惑する彼女を余所に少年は何やら話を進めていた。どうやら、少女と遭遇したのは偶然だったらしい。有り得ない状況なのに努めて普通の、それもどこか控えめな少年の言葉に少女は笑った。
「ええ、良いわよチアキ。その代わり、私がここに居た事も秘密ね」
そう交換条件を出して約束を交わす。別にそんな事をわざわざ言わなくたって、彼が言うようには思えなかったが念の為だ。
「さ、帰りましょ。暗くなると危ないんでしょ」
先程の恐怖はどこへやら、少女は軽い足取りで先を進む。
と、ふと思い出したように少年の方へ振り向いた。
「そういえば、さっきの言葉、なに?」
絶望の中でも確かに聞えた少年の言葉。それが気になっていた。
「さっきの?」
「ディ……なんとか」
ああ、と得心がいったように少年が頷く。
「ディロデクト。古い言葉で“護りたまえ”って意味なんだってさ。詠唱だよ」
「ディロデクト、か。いい言葉ね」
気に行ったようにその詠唱を反芻する少女。そんな彼女に少年もまた質問を投げかける。
「あ、そういえば君の名前、聞いてなかったんだけど」
「えっと……そうね、アノって呼びなさい」
「そうね、って名前じゃないの?」
「名前よ。いいから貴方は私をアノって呼ぶの。いい? わかった?」
「わかったよ、アノ」
それが、アーノイスとチアキという少年の出会いだった。