―裏切―
重い体を引きずり、アーノイスは足を止める事なく教会内を走る。グリムが行ったのはただ一言。
『礼拝堂で、オルヴスが呼んでる』
それだけで、彼女はベッドから飛び起き、寝間着に外套を巻いて、走りだした。乱れた髪だとかそんなものは今どうでも良かった。教会内では鍵乙女の帰還は知らされていなかった為、すれ違う人々が騒然としていたが、それもどうでもいい。そうして走り続け、アーノイスは礼拝度の扉に半ば体当たりするように飛び込んでいった。中には、所狭しと騎士たちが並び、壁側の端の方に司祭や修道女の姿も見える。だが、そんなものには目もくれず、アーノイスは真正面の、祭壇に立つ青年だけを一番に見据え、視線を外さなかった。
「おや、思ったよりも早かったですね。鍵乙女アーノイス」
冷淡とした声音、いつもの優しい微笑みではなく、邪悪に愉快そうな笑顔で、オルヴスは言った。その笑みが自分に向けられているとは信じられず、アーノイスは呆然とし、それでもふらつく足取りで礼拝堂の中央の通りを進んでいく。そうして、祭壇の手前で止まった。すぐ隣には、大司祭アバン。そして、その前に床には血を流し絶命している数人の騎士の姿があった。
「馬鹿が、手ぇ出すなっつたのに先走りやがったな」
アーノイスの後ろで、その兵の死体を見ながら、グリムは悪態をついた。恐らくは先の孤島での戦闘で、親類か友人か知人かは知らないが、親交のあった人間を殺された騎士だろう。
「すまん。私が来た時には遅かった」
「怪我人は寝てろよ親父」
「そういうわけにもいくまい」
短く会話を切り上げ、ティレド親子は祭壇に立つオルヴスを睨んだ。まだ、彼はここに現れた理由を何一つ語ってはいない。メルシアもまた、グリムの後方頭上に浮かび、オルヴスに疑念の視線を投げかけている。騎士たちは殺気と恐怖を、壁際の司祭と修道女は戦慄を。アーノイスだけが、困惑に如何な感情も乗せられずに居た。
「さて、役者も揃った所で始めましょうかね」
おどけたように、オルヴスが言う。礼拝堂全体に、緊張がはしる。だが、その様子がおかしいとでも言うように、オルヴスは吹き出した。
「そう固くならなくとも大丈夫ですよ。ここで暴れ始めるつもりはありませんからね。僕に襲いかかって来なければ、ですが」
言いながら、ちらりと祭壇の下に散らばる死体に目配せをする。妙に芝居がかったような物言いに、アバンが口を開いた。
「何が目的だ魔狼。何故アヴェンシスに現れた」
「……復讐、ですよ」
言葉とは裏腹に、ニッコリと、満面の笑みをオルヴスは浮かべていた。
「そこの、鍵乙女様に対する、いや、アーノイス=ロロハルロント=ポーターに対する、ね」
大仰に腕を広げ、語り始める。絶やさない笑みは、狂気しか感じられない。
「折角エトアールの方々を焚きつけて、門を全て壊し、その心を追い詰めたのに、まだ折れない。まあその御陰で、その呆けたお顔を拝めるというものですが。どうです? 一番信頼していた筈の人物が黒幕という、物語では在り来りの展開は? そこそこ堪えるとは思いますが」
グリムもメルシアもアバンも、信じられないものを見ているような目で、祭壇の上の青年を見ていた。あれがかつての従盾騎士の姿なのかと、鍵乙女を想い、教会から逃亡し、その果ての追跡者たちを容赦なく屠った青年の、本性なのかと。思わず霊覚を用い、その存在の真偽を確かめるが、それはそこにいる青年が従盾騎士オルヴスだという事実を裏付ける結果にしかならなかった。
「何故、そんな事をしていた」
アバンがまた問う。復讐とは一体どういった事か。と。オルヴスは嬉々としてアバンらに目線を向けた。
「昔の話しですが、僕はそこの鍵乙女の父君に殺された事がありましてね。それだけですよ。彼女を苦しめ、殺した所で今度は当人を殺しに行くつもりです。ああ、これ言わなかった方が楽だったかもしれませんねぇ」
視線が一斉に、アーノイスの背に向けられる。誰よりもオルヴスに近い場所に立っている為、皆からはその表情を伺い知る事は出来ない。彼女は何も言わず、ただオルヴスを見ているようだった。
「ま、僕の話は別にいいでしょう。この期に及んで千の言葉を用いられても、心変わりはしませんから。取り敢えず、今日来た理由は、次の約束を取り付ける為です」
一旦言葉を切り、黒い瞳が礼拝堂全体を見回し、グリム、メルシアを注視し、そしてアーノイスに向けられて止まる。一呼吸置いて、彼は言葉を再開した。
「レツァーンに来い。明日の夜零時に。そこで待つ。ああ、別に来なくともいいですけれど……あそこにある世門は破壊させていただきますね。まあ元々壊すつもりでしたので、早いか遅いかの違いになるでしょうが」
言って、オルヴスの全身を黒い靄が包み、晴れる。そこには、銀髪黒肌の、魔狼。
「それでは、また後日ということで」
最後に酷薄な笑みで笑いかけ、魔狼は直上へ飛び、礼拝堂の天井を突き破って何処かへと消えて行った。
――同日、深夜。
アーノイスは自室のベッドに呆然とした様子で座っていた。いつからそうしているのかと聞かれたとしても答えられないくらいに、彼女の心は空虚だ。同室のテーブルに運ばれた夕食は、運ばれた時のままの形で、冷め切り湿気てしまっている。そんなものには目もくれず、彼女の藤色の瞳は窓から外を、浮かぶ月を見ていた。白に変色してしまった頭髪が、嫌に月光を反射して照り返り、視界に入る前髪が妙に鬱陶しかった。
突然の、従盾騎士の裏切りと鍵乙女及びロロハルロント王殺害と世門破壊の宣言に、教会は騒然となった。鍵乙女の帰還が知れてしまった事も相まって、緊急の会議が開かれ、各地の騎士団長と共に、大司祭アバンと団長代理のグリムに巫女メルシア、そして鍵乙女アーノイスが参加した。各地の騎士団長からは口々に、一大統合軍を結成して、審判団のやったように今度こそ魔狼を葬り去るべきだという意見が出された。無論、鍵乙女たるアーノイスは現地に赴かず、だ。しかし、これに彼女は断固として否を突きつけ、他の会議参加者の話など欠片も聞かずに自室に帰ってきた。それから、彼女はずっと空を見上げて佇んでいる。会議を抜けだしてから数時間後にメルシアがやってきて、明日レツァーンには彼女とグリムとアバンの三人にアーノイスを加えた四人だけで行くという事に決めてきたとの報告がされたが、それにもアーノイスは「そう」との一言だけ返し、後は何も語らなかった。
静かだ、とアーノイスは思う。2ヶ月前、とは言っても感覚ではそう経ってないのだが、あの孤島での夜の静けさとはまた違うことを、なんとなくだが彼女は感じていた。隣に居た人が居ない、というのも多大な要因ではあろう。その心も瞳も、今はどうしようもなく空虚だ。空っぽすぎて、思考すら入り込む余地がないことに。そんな、空洞のような藤色の瞳に、影が差す。小さな、指先にでも止まりそうな小鳥が、外の、彼女が空を臨む窓の縁に止まる。真っ黒な小鳥なんて珍しい、とアーノイスはしばしその小鳥を見ていた。雀に似ているが、鴉のように真っ黒な羽毛。目がごく小さな満月のように光っているのは、動物だからなのだろう。人間の目は光を反射しない。鳥目というくらい彼らは暗さに弱い筈なのだが、まあ梟なども居るし、違うのだろう。そんな事を考え、やはりそれすらも嫌になってきて、アーノイスは目を逸らし、見開いてその小鳥を映した。黒い体躯。満月の双眸。こちらをじっと、見ていた。慌てて、アーノイスは窓を開け放つ。叩き落とされてはかなわない、と小鳥は飛び立つが、それは窓の向こうの近くで羽ばたいたまま、その小さな瞳で逸らす事なくアーノイスを見ていた。窓を見つめる彼女を迎えに来る、黒い姿の動物達。覚えがあった。
怖ず怖ずと、右手を、人差し指を伸ばす。それを待っていたと言わんばかりに、小鳥はその指先に止まった。室内へ誘い、窓を閉じる。そうすると、小鳥は飛び立って部屋の扉の方へと向かっていく。アーノイスは急いでついて行った。部屋を出て、階段を降りる。何処へ向かうのかと思いきや、小鳥が止まったのは従盾騎士の部屋に至るドアの、ノブ。それに手を伸ばし、引っ込めてしまう。怖かった。ただの思い違いだったらどうしようかと。だが、そんな彼女の迷いとは裏腹に、いやそれを悟ってか、扉は静かに開いた。小鳥が、室内に飛び立つ。
「こんばんは。アノ」
そこに居たのは一人の青年。優しい黒い瞳をした、アーノイスの愛する人。小鳥はその肩に止まり、そして靄のように散って消えた。
「どうして……ここに」
会うのは明日レツァーンでと彼は言っていた筈だった。それが何故、それも今になって。あんな、懐かしい方法を使って。万感の想いが込められた言葉だったが、彼の返答は実にシンプルなものであった。
「約束、しましたからね。覚えてますか? エトアールとの最後の戦いの前に、教えると言ったこと」
言いながら、彼は椅子に置いてあった、ピアノから鍵盤だけを剥ぎ取ったような楽器を見せる。同時に、机の上には何やら楽譜が数枚程乗っていた。
「楽譜も書いてみたんですよ。まあ初めてでしたから、上手く書けているかはわかりませんが」
照れくさそうに笑いながら、彼は椅子を引いてアーノイスに座るよう促す。やわらかな物腰に落ち着いた声、そのどちらも、朝間の時はまるで別人である。アーノイスのよく知る、彼の姿だった。それでも、アーノイスは促されるがままに、椅子に着き、彼が己で書いたという楽譜を手にとってみた。
「……ちゃんと書けてるじゃないの」
「そうですかね」
少し嬉しそうにはにかみながら、青年はピアノ板をアーノイスの前に置く。少しの間、楽譜を眺めていたアーノイスだったが、やがてそれをピアノの奥の方に置いて、鍵盤に手を置く。
「本当に久しぶりだから……下手でも笑ったら怒るからね」
「ええ。笑いませんよ」
言いながら、青年は自分のベッドに腰掛ける。たどたどしく、ゆっくりと、鍵盤の上をアーノイスの指が叩いていく。
それは、死した魂を導く鎮魂曲。肉体が倒れ、離れた魂が惑わぬように、その魂に刻まれた想念が荒ぶらぬように鎮める為の祈りを込めた、曲。門ができる以前より伝わるといわれる、柔らかなそよ風のような、さざ波のような曲だ。指の運びはそれほど難しくはない。大切なのは、音の間。うるさくならないように、尚且つ余韻が途切れぬように、音を鳴らす。置くように、置いて伸ばすように音色を響かせる。
「……ねぇ。チアキ」
指の動きは止めず、目も楽譜を追いながら、アーノイスは口を開いた。聞いてはいるが、彼は言葉を返さない。演奏を邪魔しない為だ。
「貴方は、約束を護ってくれるわよね?」
震えを押し殺したような声。指がもつれ、曲が途切れる。
「こうして、護りに来ましたよ」
応えはそれだけ。アーノイスの指が、途切れた場所から再開する。
「貴方、案外嘘つきよね」
「そうですね」
何が嘘だったのか。それはどちらも言及せず、ただ短い言葉で会話を途切れさせる。曲が進む。たどたどしいながらも、少しずつ確実に。そうして、曲は楽譜の最後の一節まで差し掛かる。
「……ごめんなさい。わたし……が」
曲の終わり。アーノイスの言葉は途中で途切れた。力失くしたように、アーノイスの頭が瞼が下がる。演奏の終わりと共に、眠りについてしまったらしい。既に、静かな寝息を立てていた。その様子に驚くでもなく、彼はベッドから腰を上げると、着ていたコートをアーノイスの背にかけた。
「謝るのは、僕の方ですね」
小声でつぶやかれる独り言。黒い瞳の端から一筋の雫が音もなく落ちた。