―邂逅―
――静かだ。
そう、第一にスティーゴは思った。うすぼんやりと覚醒していく意識の中で、胸の下くらいに鈍痛を感じた。バーンに殴られ、眠らされた箇所。まだしびれるように続く痛みが、彼の動きを抑制し、四つんばいの状態で止めた。隊長は、あの魔狼は、戦いはどうなったのだろう。そう考えるスティーゴの耳に、砂利を踏み歩んでくる音が聞こえた。一定のリズムで、ゆっくりと近づいてくるそれに、あわせて恐る恐る、彼は顔を上げた。目に映ったのは、黒い、人。それは既に彼の目前より一歩右へずれた場所に居て、そのままスティーゴの真横を通り過ぎていった。衣装もその銀髪も、至るところが煤や血に汚れているが、足取りは確固たるもので、負傷は見えない。スティーゴを置いていった、隊長の姿はない。霊覚にも、引っかからない。感じるのは、地べたについた手元に落ちている、双つの手斧のみ。震える両手で、スティーゴはその手斧を握り締め、抱く。
「――――っ」
言葉にならぬ慟哭。為す術などなかった。自分達を率いていた隊長ですら、倒せず、目立った負傷すら負わせることが出来なかった。そんな相手に、一体どう挑めばいいというのか。そいつは、彼のことを一瞥すらしなかった。まさしく、眼中にないのだ。
「お、れはっ……」
嗚咽と共に漏れる台詞。荒野と化した大地には誰もいない。ただ、独り。不甲斐ない、情けない、あまりに、あまりに無力。
「俺は……っ」
言葉の続きが紡がれない、動けない、何も変わらない。腕に抱く刃が酷く冷たい。背に感じる漆黒の霊気が意に介すこともなく遠ざかっていくのを、ただ見ることなく見送るだけ。
この日、数万に昇る数の人間がその肉体をこの孤島の地に埋めた。生き残ったのはたった三名。アヴェンシス教会現体制における上層部はこの戦いの顛末は知らず、全ては消失したと思われていた審判団の独断と強制によるもので、その実態を掴むのに教会は二週間もの時間を要した。
神意の剣は、審判団の密命を受けたマイラの研究者が極秘裏に製作したもので、その開発責任者はすぐに拘束された。数万を越えた騎士は大部分がマイラの騎士で、それも審判団により召集されたものだと、現地の孤島には向かわなかった騎士の一人が語っていた。教会内では審判団の行動の後を引き継ぐべきだとの意見も相次ぎ、騎士団長代理グリム=ティレドと巫女メルシア及び大司祭アバン=ティレドらは騎士派遣を容認しなかったものの、アヴェンシス外の騎士団の中からは独断専行で孤島へ出兵させる地域もあり、その全てが音信不通となった。事態を重くみた上層部は無断でも出兵に厳罰を施す令を出し、その島への渡航を事実上禁止とした。
そして、審判団の誅戮失敗より一月。騎士団長代理と巫女はたった二人でその孤島へ向かう決定をした。それは完全に、極秘裏に遂行された。
「……暗ぇな」
「ああ」
孤島の海岸。かつては石造りの港であったろうそこは、瓦礫の砂地になっている。転移の術により降り立ったグリムとメルシアは、ほんの一月前までは人間が居た場所とは思えないほど交配した場所に、少しばかり呆然としていた。ただ、壊されただけとは思えない。破壊に破壊を重ねられ、元の地面だろう砂に削りだされた石が埋まっているのが確認できるくらいだ。二人はどちらからともなく歩き始める。二人とも既に纏霊はし、メルシアの姿は普段の童女ではなく成熟した魔女のものだ。霊覚を油断なく広げ、奥に一つ、知った霊気があるのを感じていた。歩んでいく途中には、何もない。村があったという話しが嘘だったのではないかと言うほどに。そもそも地形がおかしい。正面に見えるはげ山以外、左右と背後に目をやれば何処でも海岸線が見えるのだから。草木の一本もなく、土が幾度も掘り返されたようにめくれ波立ち、所々に大穴が開いている。戦災の跡地でも、もっと物が残っている。どの様な戦闘が行われていたかなど、想像することすら出来なかった。
二人の足が山へいたる坂道へと踏み入る。その先に、目的の人物が居る。暗い黒い霊気の塊。以前に会ったのはもう幾月も前のこと。その時は孤高と完全の黒というイメージだったその霊気は、今や絶望と拒絶の色に思えた。自然と、グリムの右手に力が篭る。彼らは、ここに来る以前に、オルヴスという人間を徹底的に調べ上げた。そうすることで、今回の件に経緯などがわかるかもしれない、と。
チアキ=ヴェソル=ウィジャ。ロロハルロント国の、古き術に精通した伝統ある家の、嫡男。幼少の頃から天才と謳われ、両親の教育も相まって、物心つくときには既に一流の戦士となっていた少年。ウィジャの秘術たる交霊術も巧みに使いこなし、家に舞い込んで来る荒事も含めた仕事を手伝いときに任されもしていたという。当国の皇女たるアーノイス=ロロハルロント=ポーターが鍵乙女に選ばれた際には、国王からの勅命を受けて従盾騎士となることが半ば確定していた。レラの消失の時までは。皇女を謀殺せんとしたとして、ウィジャ家は抹消された。しかし彼は生き、ロロハルロントから姿を消す。だが、知れたのはそこまで。何故かロロハルロント王家がチアキの生存を知っており、刺客を送り続けていたことを臭わせるような知らせや、レラの消失自体がロロハルロント王家の謀であったのではないかとの話しもあったが、裏は取れなかった。そうして、一度目の死から数年が過ぎ、彼は教会へ姿を現した。従盾騎士と、なるべく。そこからの行動は、二人も良く知っていた。教会の教えに心酔しているような素振りは一切なく、ただアーノイスは災厄から遠ざける為だけに戦っているような印象。いや、事実その通りだっただろう。だとするならば、今回の“叛逆”と称される行動も、彼にとってはこの惨事に値する理由があるのかもしれない。
グリムとメルシアは、一言も交わさずに坂の終わりまで辿り着いた。紅と琥珀の瞳が黒と白を映す。恐らくは、この島に残った唯一の瓦礫だろうものの上に、青年は女を抱いて座っていた。