―異変―
一仕事終えた故の達成感からか、アーノイスは何処となく上気した顔でユレアの家の前まで来ていた。
それに対し、オルヴスは彼女の後ろで顎に手を当てて何か考え事をしている。彼の感知能力はまさに狼の嗅覚の如く敏感で、探知可能な範囲も常人のそれとは格が違う。
故に、本来ならば村にフェルが片足を突っ込む前にその存在を感じ取る事が出来るのだが。今回はそれが出来なかった。気を抜いていたわけではない。かといって結界のせいかと問われるとそうでもない。事実、結界の外で戦闘を始めたグリムの霊力は知れたのだ。人間やその他の動物と違い、自分の霊力を制御せずに垂れ流しにしているフェルの存在を見紛う事など、これまでオルヴスには経験がなかった。
「…………」
そんな彼を無言で見つめるアーノイス。
視線に気付いたオルヴスが、笑顔で相対する。
「どうかなさいましたかアノ様? 黙ってこちらを見つめたりして」
「べっ、別に見つめてたわけじゃないわよ! ただ……貴方今日ちょっと変じゃない?」
冗談めかした、いつものおどけりにも素直に反応してしまうアーノイス。いつものように微笑の煙に巻かれるかと思いきや、今回はそうではなかった。
息を一つ吐いて真剣な眼差しを向ける。
「おや、気付かれましたか」
当然、とでも言うように腕を組み自分の従者を睨んだ。
「何? なにか気にかかる事でもあるの? 言ってみなさい」
話を聞いてあげる、なんて優しさのある雰囲気は微塵もなく、自分がこうして気付いているのに秘密にするなんて許さない。そんな台詞が聞えてきそうな形相であった。
「やれやれ……敵いませんね」
流石に観念したのか、オルヴスが苦笑混じりに口を開く。
「いえ、少々違和感のようなものを感じただけですよ。フェルの存在を意図的に隠されているような……そんな、ね」
「クオンさんの結界の力じゃなくて?」
「それでしたらグリムの霊力も感じられない筈です。だが、彼の炎の匂いは感じられる。アノ様にもわかると思いますが」
目を閉じ、少しの間をおいてからアーノイスは頷いた。
「そう、ね……でも、ここで話しても仕方ないわ。そうでしょ?」
少し逡巡する様子も見せたが、ふっ切って家の扉に手をかけるアーノイス。彼女とて気にならないわけではないし、むしろ質問を投げかけたのはアーノイスなのだが、そこはそれ。主従の主であるが故に彼を引っ張って行くという意志の表れでもある。
それをオルヴスも感じ取ったのか、何も言わず、彼女の後に着いて行こうとし――駆けた。
「下がってくださいアノ様!」
突然眼前にオルヴスが現れるのは慣れがあるとはいえ、尋常ではない雰囲気の背中が平穏を許さない。
息を呑み、言われるがまま扉から手を離して数歩後ずさるアーノイスを確認し、オルヴスがドアを蹴破った。
「――――っ!」
オルヴスの肩越しに室内の様子を垣間見たアーノイスが、声に鳴らない悲鳴を上げる。
朱。赤。そして黒。
木製の柔らかな家の質感など、そこには欠片も残っていなかった。
彼等が先程までくつろいでいた筈の空間を染め上げる色は、血、肉、死の色だった。
「馬鹿な……」
オルヴスが驚愕の声を上げる。その黒い瞳に写るのは青紫色の豹に似た化物。無情な鉛色をした双眸、その下の鋭利な牙の羅列に貫かれているのは、紛れもなく、彼らをここに誘った少女の、首。もはや食い散らかされた後だったのか、首から下はもはや、確認出来る形では存在していない。豹の顎と前足に生々しく残る血だまりに恐らくは肉片と思われる何かが散在、もしくは小さな肉塊として転がっているのみだ。
飽きたのか空腹を満たしたのか、豹は死に首をオルヴスらの方へ無造作に投げ捨てる。為すがままにゴロゴロと彼の足元まで転がってくる様はまるで作りの悪いボールの様。
アーノイスが恐る恐る覗き込んだ“少女”は、恐怖と絶望の表情を凍りつかせた瞳を彼女に向けていた。
アーノイスは震えた。人の死を見るのはこれがはじめてではない。だが、それでも何度そんな場面にあっても、慣れる事は彼女には出来なかったからだ。ましてや、自分を頼ってくれた少女の。固まる身体を、戦慄く唇を、アーノイスはゆっくりと動かす。
「……ディエ……」
「アノ様!?」
「下がりなさいオルヴス!」
悲鳴にも似た叫び。だが、その声は震えていて尚、有無を言わさない噴気を放っていた。
「……ディエ・オフェロア」
紡がれる言霊。呼びかけに応じ、鍵乙女の烙印が光を放つ。
光が彼女の身体を離れ、九つの光球となり、扇状に展開された。
「消えなさい!」
紫の獣を見据え、右手を翳す。九つの球体は各々を光条として発し、標的を一瞬の内に包み込む一本の光流となり、貫いて尚突き進む。
前方にあった標的を家屋ごと消し飛ばし、地を抉り、木々を消失させる光の矢。
光の放出が数秒程続いたと思われる頃、突如として光は消え、アーノイスはその場に膝を着いた。
「はぁっ……はぁ、はぁ」
先程烙印の力を使った時は比べ物にならない程憔悴した顔で、額には汗を浮かべている。
巻き込まれないよう退避していたオルヴスがその隣へと現れた。
「アノ様っ、大丈夫ですか!」
珍しく焦燥を隠さずにオルヴスがアーノイスに声をかける。
彼女は手を借りて立ち上がり、自身が消し去った前方の遥か先までを見るように目を細めた。
「やった……かしら」
「……ええ。アノ様のお力です」
オルヴスの言葉を聞いて彼女は再び崩れ落ちる。床に倒れないよう支えるオルヴスに、アーノイスは呟く。
「ごめん……オルヴス。ちょっと、休む、わ……」
そう言葉を絞り出し、彼女は意識を手放した。