―散華―
鉤爪の生えた手が、肉塊を貫いてく感触。紙でも裂くかのように安々と鎧に沈み込む爪。鉄の板を抜けた先ですぼめていた指を爪を開き、さらに突き進む掌に感じるのはぬるま湯の中とそう大差ない。手に触れる幾つもの糸ようなものは恐らくは多少太い血管だろう。それらを引き千切り爪の先が後ろの皮膚を突き破って、背後の鉄板を貫き強引に突き抜く。その後引き抜くか横に強く振って破壊して抜き出すかの違いはあれど、この一連の感覚を魔狼は身に染み付くほどに繰り返してきた。極めて薄い膜のように、爪に手に腕に纏わせた呪印交霊が、如何に対象が纏霊していようとも切り開き貫くその行為を強引に可能にする。派手さや範囲は持たぬ搦め手でもない単純な業だが、これを真っ向から防ぐ術は早々ない。霊気纏うものに、霊気纏わぬ如何なるものも通用しないのがこの世界の決まりで、呪印交霊が強引にその霊力を奪ってしまうのだから。
もはやこの戦場でその手が奪った命は一万では利かない。もはや魔狼の体躯は、返り血に染まりきり、手に到っては紅に淀んだ爪と黒い肌の指の境界がよくわからない。やろうと思えば、周囲全ての霊魂を喰らい尽くすことが出来る。だが、魔狼はそれをしない。
そんな簡単な方法で殺すなど、持っての外だ、と。彼は憤怒していた。何を、村の人々を皆殺しにする必要があったというのか。焼き払われた大地は、永きに渡って新しい命を育まぬことだろう。霊力による破壊とはそういうことなのだ。世界支える根幹の力同士のぶつかり合いの果ては片方もしくは両方の消滅しかない。もはや、この島の大地は死んでいた。そして、死した声は全て当代の鍵乙女の元へ流れる。今や生者の声ですら聞こえてしまう彼女にとって、それは多大な負担を強いるだろう。
魔狼は止まらない。一挙手一投足が新たな死を生み出す。爪が肉を裂き首を腕を体を切り飛ばす。足が人体を蹴り砕き、踏み抜く。動きに吹き飛ぶ大気と大地に巻き込み、体を四散させる。殺した霊魂はアーノイスへ届かぬように呪印交霊で食い殺して。力を持つ者同士がその力を比べ合うことを戦いと呼ぶのなら、これはもはや戦いなどではなく、ただの捕食だ。普通の狩猟と違うのは、餌が逃げずに向かってくるという一点のみ。
と、暴虐の限りを尽くすその動きが止まった。見上げる空、そこに現る、紫のコートの男と、青緑の肌をした亜人の姿。斧の刃と拳が同時に襲い掛かった。衝撃が周囲の兵達を吹き飛ばす。二人の襲撃者は斧と拳を突き出したまま、宙に止まっていた。魔狼の伸ばされた両手が二つの攻撃を掴んで抑えている。魔狼は地に足は踏ん張って、二人は霊力を足場にして、互いに押し合う。二対一の真っ向勝負だというのに、その力は拮抗していた。
「従盾騎士。あんたに恨みはないが」
「命在るが故に。貴殿を斃す」
口上と共に、バーンとガガが動く。完全に息が合いシンクロした攻撃。魔狼の右からバーンのもう一方の斧が振るわれる。左からは、拳はつかませたまま体を捻り、撓る尾が。二つが触れる寸前、魔狼は黒の靄となって霧散し、着地した二人の頭上に移動し顕現した。そこを狙い、人よりも一回り巨大な鋲つきの鉄球が飛び込んでくる。アンナの武器であった。無造作に片手でそれを跳ね飛ばすが、鉄球の背後より、二つの霊塊により形成された玉が迫っており、着弾して爆発した。霊力そのものを扱う才をもつスティーゴの業だ。
「全員退け! 巻き込まれて死にたくなかったらな!」
バーンが全軍に向けてそう叫ぶ。翳刃騎士隊長として名だけは知られているバーンだったが、この戦闘はじまって以来はじめて魔狼の動きを阻害した者の言葉は重く、兵達は素直に距離をとり始めた。隊長格の他の騎士長が軒並み屠られて指揮系統が死んでいたことも理由になるだろう。
スティーゴの一撃に煙幕に包まれた魔狼を見上げるバーンの元に、アンナとスティーゴもやってくる。動きはないようだが、この程度でどうにかなるとは、この場の誰一人思っていない。たが、動かないのならば好都合だ。下手に攻撃せずに騎士たちを遠ざける時間を稼げる。魔狼は、煙幕が自然の風にかき消されるまで、ずっと動かなかった。
「翳刃騎士……厄介な」
二つの月がぎょろりと動き、足元に居るバーンとガガ、そして前方の宙に居るアンナとスティーゴを見やる。鬱陶しい羽虫でも睨み付けるような、気疎い視線。
『スイ――』
この場を止めることを許さんとばかりに、空気に浸透するかのガガの心唱が響き始め、また魔狼も動いた。一直線にガガへ突撃する黒い影に、バーンが割って入りガガの心唱を守る。
『ゼツ』
一瞬の拮抗を見せた二人を、もろとも吹き飛ばさんと真横より唸る鉄球。
『テン』
弾けるように離れた二人の間に鉄球が叩きつけられ、土片が舞った。身を翻し今一度ガガを仕留めんと空を蹴る魔狼。その背の、上方に浮かぶスティーゴが霊力の弾を両手で連発する。狙いは乱雑に広がる零弾の雨が、魔狼目掛けて降り注ぐ。
『キョウ』
ガガの後方に飛んでいたバーンが双斧を投げる。弧を描き飛ぶ刃が標的に当たり円の軌跡をつくる。
『――カイ』
心唱が完成した。霊力の雨に舞い上がった粉塵すべてを吹き飛ばし、顕現する巨大な水龍。牙と爪と魚類の尾を持った、津波の竜が空を舞い標的に襲い掛かる。
「水号・王流」
聞こえる筈のない竜の嘶きとともに、刃乗せた大瀑布が魔狼を飲み込んだ。牙はえ並ぶ顎で捉えたまま、地面へと自らを叩きつける。砕け水となるだけの体躯はさらに霧散し、周囲を濃霧に覆い尽くしていく。だが。その大気飲み込む霧は、その内から広がった黒闇に喰われた。刹那の展開と収縮を見せた闇に、まるではじめからなかったかのように、その小さな雫の一滴すら残さず、霧が消え、残るは闇滴らせた一人の魔物のみ。
「ちっ」
小さく、バーンは舌打した。ブーメランのように手元に舞い戻る斧を掴みながら、仲間の様子を伺う。ガガは問題ない。大技を破られたとはいえ、このくらいは想定内だろう。スティーゴは宙に居て先程の闇に飲まれなかったようだ。アンナも範囲には遠い――と、ガガの左前方に眼をやるが、遅かった。
「がっ……」
バーンの視覚に捉えられてから、まるで思い出したかのようにアンナは口から血を吐き出した。その腹を突き抜ける、一本の腕。魔狼の右腕は、器用にも薬指の爪で彼女の心臓を引っ掛け引きずり出していた。物言わぬ肉塊と成り果てたそれから腕を引き抜き、ゴミを払うように爪先のまだ脈打つ心臓が棄てられる。バーンが魔狼に向けて突進した。いつ動いた、だとかそんなものはどうでもいい。今感覚が伝えることが全てだ。魔狼がそこに居て、仲間の一人を殺した。純粋な憤怒に精神の全てを傾けてバーンは斧握る手に力を込める。数十メートルあるはずの肉薄までの時間は無に等しいほどの速度で。だが、彼が女戦士の死体の元に着いたとき、既に魔狼はそこにはいなかった。
それはまるで幽鬼の如く、スティーゴの前に現れていた。移動した、というようには見えない。彼の霊覚では感じられないだけなのかもしれないが、少なくとも彼には魔狼が周囲の夜闇から集合して現世に出でたように思えた。夜という暗い世界では、その暗がり全てがその彼そのもののようにも思える。と、スティーゴの視界が大きく揺さぶられた。体の前面に残った感触から、何かに突き飛ばされたのだと判断する。しかしそれは攻撃というにはあまりにも弱い。いや、こういう攻撃なのかもしれない。そんなことを思いながら自分の元居た場所に戻した視界に移ったのは、青緑色の背中だった。
ガガは予想していた。魔狼は恐らく、邪魔になりうる人間から殺そうとするだろうと。それは先程の騎士団との戦いを見ながら得た、翳刃騎士全員での見解の結果だ。魔狼がどれだけ彼ら翳刃騎士各々の実力を知っているかはわからないが、強大な霊術を放つ者が居ればそれをまず狙うことは明白だ。術は攻撃性だけでなく心身を阻害するものまである。集団戦闘において後方支援をする術者を狙うのは、常套手段である。そして四人いる彼らの中で、術を使うのはガガのみ。最初の策は上手く行った。わざとじっくり術を練り、それを狙ってきた魔狼を攻撃する。だが、問題はその後。魔狼の攻撃を防ぐための攻撃で、彼らは個々の距離を離しすぎた。となれば、次に狙われるのは術者を守る盾になる人間だろう。故にガガは、アンナの元に魔狼が現れた瞬間、スティーゴの方へと跳んだのだ。仲間の死にバーンが単身突撃するのは予想済み。一対一でも彼ならば、との信頼もあった。
肩に突き刺さる狼の爪を、腕を掴んで強引に抜き、ガガは接近戦を挑んだ。相対する魔狼。爪と拳打の応酬がはじまる。
『スイ セン ゴ ザン――水濡』
全速の心唱が紡がれ、ガガの四肢と体と尾にそれぞれ水の流れが螺旋を描き纏わりつく。自らを守る盾にして敵を裂く刃となる水流は、留まることなく生み出され流れる。微弱な呪印交霊では一度に喰われはしない。先程よりも攻勢に寄って、ガガは連打を繰り出していく。魔狼もまたその紅き爪で連撃をおこない、攻撃に攻撃を当てる形で互いに互いを迎撃する。
スティーゴは己には追えぬ動きで応酬を続ける二人の背後で、強く強く霊力を溜めていた。ほぼ密着するように格闘を続けるその間に、魔狼だけに攻撃当てるなどという技能は彼にはない。だが、もしガガに一瞬でも隙が見えれば、魔狼は容赦なくそこを突くだろう。ならば自分に出来るのは、そこを妨害すること。この場に及んで尚、スティーゴは自らの役割を自覚していた。仲間の死に何も出来なかった自分を呪いながらも、あの時のように相手との力量差を考えないで挑むなどということはしない。体を捻り、右腰に引いた両手の間で、霊力が収集を続ける。より大きくより密に。霊力そのものを何の媒介もなく扱うのは、彼の才であった。才とは即ち、出来ること。その出来ることに、彼はただ全力で挑む。研ぎ澄まされ行く精神が、彼の霊覚をより鋭敏にする。徐々に、二人の動きを捉えてきた。まだ残像のようなものも見える。しかし確実に、動きを追い始め、そして。下方に引いた魔狼の爪に、黒い靄が宿るのを捉えた。
踏み出す。霊力を込めに込めた一撃を右手に乗せ、叩きつけに。ガガの防御が崩れた。黒い靄が、水流を食ったのだ。術が消された衝撃にガガが後方にたたらを踏む。そこへ迫る左の爪。しかし、そこへスティーゴが割り込んだ。ありったけの力を込め、突き出される魔狼の爪にあわせるように、霊弾を爆発させる。左の手に例の靄がなかったことは、確認していた。止められたはず、少なくとも減速はしただろう、と思いながらスティーゴはガガの体を押しのけるように後ろへ飛ぶ。しかし、その背には何の感触もなかった。不意に、視界が青緑の背に覆われる。方向を間違った筈はなかった。でなければ、ガガが避けたのだ。横にどころか、前に。
――何してるんだ、下がらなきゃ。
そう口にしたかったが、遅い。それは何処から現れたのだろう。霊弾の爆塵の中から伸びた枯れ木のような黒い腕が、青緑の亜人の背を貫いていた。
「ガガさん!」
スティーゴが叫ぶ。だが、もはや、届かない。霊翔することも忘れ地面へと落ちて行く中、彼は空に浮かぶ神意の剣が、輝くのを見た。