―誅戮―
魔狼の持つ双月の瞳が見据える。夜空に浮かぶ月を邪魔する球体と歯車と剣の兵器を。焼き払われ荒れた焦土と化した村を。無為に命奪われた者達の亡骸を。海岸の向こうより現る、タウ十字刻んだ数十隻の騎士団の帆船を。
彼が坂道を下りきり、元村の入り口へと差し掛かった頃。瓦礫と黒焦げた大地だけのその場所には、夥しい数の騎士たちが列を成していた。その数、万はくだらない。神意の剣の攻撃後、転移の術で配置されたのだろう。それだけの数が現れて、魔狼が気づかない筈もない。変わらぬ歩みで軍勢へ近づく彼に、兵隊の中の数人が相対して歩み寄った。両者十メートルくらいまで近づき、ようやく止まる。
「従盾騎士オルヴス。翳刃騎士バーンより言伝は聞いているか」
前に出てきた、恐らくは騎士たちの中で各部隊の隊長となっている者たちだろう数人の代表と思しきものが、一歩前に出てそう声を発する。だが返答は身振りすらなく、騎士はそれを肯定を受け取った。
「今一度言おう。大人しくアヴェンシス教会へと出頭せよ。貴公らの反逆罪は既に確定しているが、自らの意志で戻るというのであれば恩赦もあろう」
尚も言葉を続ける騎士だが、魔狼またしても沈黙を守ったままだ。表情も動作も、何もない。たっぷりと数分、硬直は続いた。だが魔狼は悩んでいるという雰囲気もなく、ただ、そこに立っているだけ。事の進展は何もない。そしてやはり、動いたのは騎士の方だった。静かに、腰に下げた剣を抜き去り、天へ向けて掲げる。
「世界を混沌に導く反逆者よ! 世界の安寧の為に、今ここでその悪しき命断たせてもらう!」
騎士の怒号に反応し、両脇の隊長各の騎士も、後ろに凄然と並ぶ騎士たちも皆が剣を抜き放った。
「女神へ掲げた正義の剣を取れ! 大義は我らに有り!!」
切っ先が魔狼へと向けられる。その号令と共に、軍勢は動き始めた。雄叫びを上げながら地を走る者。空を飛び迫る者。その合間を縫って、幾重にも幾重にも重なって霊砲が唸る。魔狼は、まだ動かない。すぐ真横に砲が着弾するが、髪が風に煽られただけで、衝撃に動じることもない。ゆっくりと、魔狼の紅に淀んだ爪生やす右手が、その顔面を覆った。小さく、言葉が漏れる。
「正義……大義……ご立派なことだ」
その、背筋を凍らせる声音の独白を聞いた者は、恐らくいない。いや居たとしても、欠片も記憶に刻まれないであろう。先陣の騎士たちは、標的を取り囲んでいたはずだった。前後左右全周囲から霊術を叩き込むべく、霊力を高め詠唱しながら。だが、彼らが囲んだその場所に居たのは、魔狼にとって遥か過去のこと。地面を砕き大気を吹き飛ばして巻き上がる粉塵は、あろうことか軍勢の、まだ砲手以外戦線に加わっていなかった筈の兵達が居る、ど真ん中。
――馬鹿な。
マイラ掲剣騎士団第一分隊隊長、ローチ=ボーノルツはこの上ない戦慄を感じていた。慄く事例が多すぎる。いつ、奴は動いた。何故、奴は千を越える包囲を抜けた。如何な、攻撃でこの大軍に大穴を開けた。
先程、魔狼と直接(とは言っても一方的だったが)会話をした彼はその異常性を僅かながらに感じていた。まず第一にその姿だ。どんな霊術を使っているのかもわからぬ、人ならぬ魔の出で立ち。獣の鬣の如き銀の長髪。黒い肌。頬に刻まれた命仇なす逆十字。血の紅に淀んだ鉤爪。そして満月の如き双眸。そう、眼だ。会話をしている最中も、こちらを見ているようで見ていない、動物のそれと同じように光を反射する瞳。言葉を交わす以上は、と彼は魔狼に声をかけた当初その瞳を見ていたが、一瞬、ほんの一瞬視線が合った瞬間に、彼は死んだと思った。何をされたわけでも睨みつけられたわけでもない。だが、彼はその眼を見た刹那に感じたのだ。己の死、己が失われていく感覚。壮年といえる年い差し掛かっている彼は、それなりに戦場もフェルとの戦いも経験していたが、そのなかで感じてきた生と死の境界など、その刹那のことに比べればどれほど些末なことか。
そんなローチの印象にまるで違わぬように、いや想像を超えて、魔狼は暴れまわっていた。纏霊した騎士が数人がかりで運ぶ重霊砲がバラバラになって宙を舞っている。巻き添えを食ったか、騎士たちも四肢や体を分断されながら共に空へ投げ捨てられていた。飛び散る土片肉片で魔狼が暴虐の限りを尽くしているのはわかるが、その実如何にしてその暴力を振るっているのかわからない。全力で霊覚を傾けても、自分が把握している彼の位置と兵達が死んでいく場所がどうしようもなく食い違い、動くに動けない。どう指示を出す。当初の作戦では対象を取り囲み、霊術と弓矢と霊砲による多重遠距離攻撃により、殲滅させるはずであった。それは、まず初手が成功するよりも先に魔の獣に破綻させられてしまった。陣形を立て直す支持は既に出している。数の利を生かすには近接戦闘では駄目だ。だが、無理なものは無理だ。如何に挑んでも動きの一つ止められず捉えられず、そんなものをどうやって包囲しろというのか。代案も、浮かばない。それほどまでに、魔狼の力は圧倒的過ぎた。
ローチは強く剣を握り締める。策はない。だが、何もしないわけにはいかない。『鍵乙女とその従盾騎士は教会を裏切り、つい先日のエトアールの襲撃に疲弊した教会を滅ぼそうとしている』そう彼は聞いていた。既に門は破壊され、アヴェンシス本隊は大打撃を受けている現状で、叛逆という行動を起こすなら絶好の機会であろう。故に、彼はそれが赦せなかった。アングァストで、アヴェンシスで、鍵乙女は自ら戦線に立っていたではないか、と。確かに騎士団の被害も少なくはない。だが、本来ならば護られなければならないその彼女が、自ら戦っていた。その事実にローチはある種の感銘も持っていた筈なのに、それを大いに裏切られた気分であった。無論その気がなくとも、彼は騎士で、兵である以上、審判団という所属の長の言葉ならば剣を掲げただろう。故に、柄を握る手に力を込め、視線を見据える。そう、これは誅戮なのだと。
だが既に、そこに、眼前に、黒い魔物は居た。
「だからこんな大軍無駄だって言ったんだがな……」
一人の敵に数万の軍勢が入り乱れる不可思議な戦場から離れた海岸沿いに、翳刃騎士は居た。彼らはまだ戦線に加わっていない。魔狼との直接戦闘では唯一相手に成り得るだろう彼らだが、それ故に最初は待機を命じられていたのだ。天に座す神意の剣を操る審判団の命で。だがバーンは余りその策に賛成ではなかった。彼は、魔狼という存在の力を知っている。戦闘している姿を見たのは、かつてアヴェンシスで行われた御前試合のみだが、そこで彼は当時のグリムを倒していた。それから数年は経っているが、まだ騎士としては若すぎると言える彼の能力が成長することはあっても衰えることはないだろう。いくら雑兵を掻き集めたところで意味はないということに。
「憤怒と悲哀。喪失を糧に出来る者は強い」
外套に姿を覆った巨漢、ガガはそう口にした。アンナとスティーゴは言葉を発さず、バーンが神妙な顔つきで、普段寡黙な部下を見やる。
「喪失、ね。どうなんだろうなあいつは」
その言葉は様々な意味を多分に秘めていたものだった。バーンは、オルヴスという人間の素性をほぼ知らない。御前試合に突然現れ、優勝者だったグリムを打ち破り、従盾騎士の座を勝ち取った青年。教会や鍵乙女を崇敬している風にも見えず、だというのに鍵乙女を、いやアーノイスを護るということに関しては異常なまでに真摯だ。今回の逃亡も、戦いに心身ともに傷を負った鍵乙女を思っての独断専行という話しもある。その彼が、自分達の滞在していた村を破壊、村人を皆殺しされたことに怒り哀しんでいるのかどうか。もしも彼にもはや故郷というものが存在していないのであれば、平穏に暮らしていたであろうここの破壊は、その精神に多大な影響を及ぼしていることだろう。だが、彼がアーノイスを狂信しているだけならばどうなのだろう。彼が戦う理由は、怒り哀しみなのか、憂いなのか。バーンにはわからなかった。いや、わかる必要はない。ただ、目標とされたかつての同胞を討てばいいだけの仕事なのだから。
「バーン、神意の剣が動くわ」
不意に、アンナがそう口を開き、思索を中断して歯車と剣と球体の兵器を見上げた。一度霊光を放ち収まっていた歯車の回転が増し始めている。それが、彼ら翳刃騎士への合図であることは、前もって伝えられていた。
「……行くぞお前ら。ま、面倒だったらここで帰んな。別に止めやしねぇし帰ってから責めもしねないからよ」
面倒と語るその意味は、戦うという行為そのものに対する言葉ではない。かつての仲間を討つというのは、如何に裏切った相手と伝えられていても辛いものだ。その感覚をあじわあないことに越したことはない。誰しも抱く思想を思考を、裏切りと決め付けて断罪する。その気苦労を面倒ごとと彼は称していた。だが、翳刃騎士のバーン以下三人は誰も踵を返そうとはしない。
「我は、戦うのみ」
「俺も、自分一人だけ逃げはしないよ」
「ま、確かに面倒だけど、珍しく隊長さんがやる気みたいだしね。付き合ったげるよ」
ガガ、スティーゴ、アンナと口々に勝手な理由を述べる彼らに、バーンは「そうかい」と一言だけ返し、戦場に向けて歩き始めた。