―神意―
白銀の核が開く。球体の最下の場所から、上へ半分の場所へ放射状に幾つもの線、真っ直ぐな亀裂が走る。中央となるところで止まる亀裂の端から今度は真横に、球を取り囲むように線が入った。柔軟性のある物質には見えないのに、それは器用にも亀裂の方のままに広がり、三角の切れ端を幾つもつくり、根元の線に三分の一程沈み込んでいく。顕になる球の内側はまるで夜空。月無き夜の星空であった。不安を煽られそうなほどに深く美しい星空から、今度は刃が顔を覗かせた。音も無く、夜空から染み出してくるように生える縦半分が白もう半分が黒の、球体の1.5倍の長さはある巨大な諸刃の剣。中心からせり出してくるそれに合わせるように、均等な感覚で白黒の剣を囲むように外側へ向けて、八本の剣が現れ始める。赤青緑黄紫橙藍茶、それぞれの色に彩られた、中央の剣よりは二周り程小ぶりな剣たち。一つは波打つ刃を持ち、一つは刀身自体が捻れ、一つは幾層もの鏃を継ぎ合わせたような形をしている。様々な形態と各々の色を見せる剣は、色鮮やかながら、あまりにも異質過ぎた。いつの間にか、周囲を回る歯車の動きが激しさを増し、現れた剣に触れぬようにと球に対して斜めになり、その上下を入れ替えながら回転を続けている。人が何とか認識できる形で在りながら、偏屈な芸術家の作品のように難解な出で立ちは、オルヴスとアーノイスの行動を幾分にも遅らせていた。
神の意を賦する剣が、光を纏う。それぞれの刀身の色を、中央の白黒の剣は螺旋を描いた混ざらぬ色で。
「――あぐっ!」
晴れた視界で変貌を遂げた神意の剣を見やると同時、アーノイスの口から濁った苦悶が零れた。その両肩に手を置き容態を心配するオルヴスの目に、彼女が自分の両耳を塞いでいるのが見える。
声か、とオルヴスが思うと共に、彼の霊覚も“それ”を捉えた。目には見えぬが霊覚が伝える。夜空に、何処からとも無く現れた霊魂たちが吸い込まれていく。その夜空とは無論、球体に開いた孔に臨む星空だ。一つ、また一つなどと数えられたものではない。視覚的に表現するのならば、夥しい数のの霊魂が天の川を形成し、何本もの流れで穴の中の星空へ飲み込まれていく感じ。霊魂に河は地平線の彼方まで及んで、一体何処から集めているのかもわからない。オルヴスは逡巡する。今この場にある霊魂全てを己の呪印交霊で喰らってしまえば、恐らく声はアーノイスに届かなくなる。これまでは、彼女が鍵乙女としての使命を全うするために行動していた為ので、霊魂の声に対してもそんな強硬手段は取りはしなかったが、今の彼女は鍵乙女として生きているわけではない。故にその考えが首を擡げたのだが、それは同時にこれまでの彼女の鍵乙女としての行動を無為にするものなのではないか。そんな想いも浮かび上がってしまって、オルヴスは一瞬、思考の袋小路に迷い込んでしまった。それは本当に刹那な時であったが、今この時においてはあまりに長すぎる逡巡であった。
「嫌……みんな、消え……逃げ、あああああああああっ!!」
彼の思考を消し去るアーノイスの悲鳴。気が触れたと思わせんばかりのそれに、オルヴスは空っぽの頭で彼女を強く抱き締め、そして。
神の光は落ちた。幾つもの色が折り重なるはずの光の柱は余りにも強い光量に色の判断などできようもない。纏霊もせずに見てしまえば一瞬で失明してしまうだろう激しい光は、島全体を包み込んだ。
巨大過ぎる熱量と質量の嵐は一瞬にして過ぎ去った。咄嗟にアーノイスを庇い、光に背を向けていたオルヴスは、展開していた呪印交霊を解く。そしてアーノイスに回していた腕を外し、振り返った視線に映ったのは、ただの焦土であった。広がっていた鬱蒼とした森など無い。草木は炭や灰すら残さず完全に消滅して、黒く焼き焦げた大地を剥き出しにしている。所々、光の呑まれ方が浅かったらしきところにポツリポツリと樹木が見えるが、そのどれもが焦げているか今尚音を立てて燃えていた。山の頂上の向こうの空が少しだけ赤い。恐らく、火災だ。大規模な、島全体に及ぶほどの。
「なに……これ」
掠れた声で、アーノイスが言葉を零す。呆然とした瞳は現状を把握しているようには見えない、が次の瞬間彼女は駆け出した。焦燥と声の負担に初歩から足がもつれかけるが、それでも、まるで倒れこむように無様に彼女は走り出す。
「待つんだアノ!」
その後方でオルヴスが叫ぶも、聞こえていないのかアーノイスは焼けた地面を真っ直ぐ進んでいく。オルヴスも、それに続いた。
ほぼ全てのものが失われてしまった荒地の斜面を、アーノイスはただ走る。まともな思考などあるはずもない。いや、思考することを彼女自身が拒否していた。空に座す神意の剣。放たれた島全体を覆いつくすほどの禍々しき光。焼け焦げた大地。もたらされた破壊。その魔の手が、何処まで伸びてしまったのか。自分達を狙ったものならばいい。その余波で、ただ自分の視界に入っていた光景が塗り替えられていただけなら。そう思う事が希望で、そう思っていなければ、自分すら保てないのだ。
そうして。山の頂上まで走りきった、彼女の視界に移ったのは、全壊して尚燃え盛る一軒屋だった。
「マリーさん! ウォルドさん!」
息を切らしたまま叫び、彼女は倒壊した家屋の中に足を踏み入れる。既に火の手は大きくない。建物自体が崩れているのだから。
『熱い』『痛い』『苦しい』『熱い熱い』『痛い痛い』『苦しい苦しい』『熱い熱いあついアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイ』『痛い痛い痛いいたいイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ』『苦しい苦しいくるしいクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイクルシイ』
魂の苦悶の叫びは容赦なくアーノイスを抉る。死んだ霊魂ではなく、死に逝く霊魂の声は前者のそれに比べて異常に生々しく重たい響きを纏う。直接頭の中体の中に鉄塊を打ち込まれているような感覚に、視界が眩み幾度となく意識が飛びそうになりながらも、アーノイスは必死に、瓦礫まみれの家だったものをくまなく見回す。そして、屋根か壁か、崩れ燃えている木の板の下に、アーノイスは手を見つけた。しわがれた手は煤汚れて、力なく横たわっている。
「マリーさん!」
その手の人物の名を呼び、アーノイスは瓦礫を強引に引き剥がした。声に乱された精神では纏霊するという余裕があるわけもなく、まだ燃え尚且つ熱もっている板に彼女の掌が焼けるが、アーノイスは構わない。だが。押しのけた下にあったのは、手首から上を残して黒く焼き焦げた腕だけであった。肩から先が千切れた状態で横たわり、切り口は熱に焼かれてか新たな血も流れていない。息を呑み、それ以上の呼吸を忘れて、アーノイスは膝から崩れた。恐る恐る、マリーに手を伸ばす。両手で包み込むように掴んだ手は、暖かい。それが、未だ生前の暖かさを保っていたのか、周囲の火に当てられた為のものなのかはわからない。声も、涙も、出なかった。聞こえるのは、火の粉の爆ぜる軽い音だけ。瞳に、亡骸の欠片は映っているものの、見ることすら出来ていない。
そんな彼女の視界が、突如として揺れた。動いたのは彼女自身ではない。肩と腰に回された腕、オルヴスが、アーノイスを抱え家の跡地より一足に飛び去ったのだった。強く掴んでいたわけではない腕が落ちたが、アーノイスは反応を示さない。未だ火の上がる家を背に、二人は村へいたる坂道のはじまりへ腰を下ろされ膝を着いた。そこかた臨む村は、茜色。夜闇に残酷に輝く焔の爪。
「なん、で……」
自失から少しだけ戻ってきたアーノイスが、俯き、地面に爪立てる。焦げた土を抉り、震える両手。その手には未だマリーの亡骸の感触が残っていた。どうしようもない喪失感と、自責の念。自分がここに居なければ、こんなことにはならなかった、と。自分が逃げたりしなければこの死はなかったのだと。彼女は、確かに逃げた。アヴェンシスから、教会から、人々から。責められるに決まっていると、彼女自身もわかっていたことだった。だが、どうすればよかったのかなどアーノイスにはわからなかった。彼女は戦ったのだ。未熟で、無知なままでも、名も顔も知らぬ人の命が失われぬようにと。それでも、駄目だった。だから逃げた。逃げるしかなかった。限界だった。鍵乙女という身に降り掛かる期待という重圧。心砕く霊魂の声。そして、烙印術という力。その全てを棄て、解放されたかった。余りに未熟で幼稚な考えだと、彼女自身わかってはいたが、逃亡の果てに触れた平穏は、余りにも心地良すぎたのだ。
蹲り、動けぬアーノイスの傍らで、膝を着いていたオルヴスは静かに立ち上がった。そして、言う。
「アノ、少しの間ここに居てもらえますか」
静かに、感情の波を押し殺した無機質な声に、アーノイスはゆっくりと顔を上げた。見上げる彼の横顔は、如何な感情も読み取れない無表情。いや、それは彼が憤怒している証拠だった。アーノイスの方も見ず、またいつもの微笑みなど微塵もない。黒い瞳の色は普段のそれ以上に漆黒に見える。
「わ、私も――」
「ここに居てください」
彼行くならばと声を上げたアーノイスだったが、その台詞を言い切るよりも先に、オルヴスは釘を刺した。アーノイスは反論できない。彼が今から何処に何をしに向かうのか、ただ着いていくとだけ思った彼女は考えていなかった。彼女はただ、傍に居たかったのかもしれない。今近くい居てくれなくては、また失ってしまうような気がしていたのかもしれない。だが、彼は残酷に、この場に居ろと告げた。
「大丈夫です。ちゃんと戻ってきますから」
それだけ言って、オルヴスは村への坂道を下り始める。その背は既に、銀髪の魔狼のものであった。