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白月に涙叫を  作者: 弐村 葉月
十章 魔狼と乙女
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―営み―

「ど、何処に行きやがった!」


港より遠く放れた海上で、一人の屈強な男が叫ぶ。陸より遠い沖に居るが、船の上ではなくあろうことか衣服を着たまま立ち泳ぎしている状態だ。周りには、年齢は様々だがどれもがっしりとした体格の男達が数人、叫んだ彼と同じように海のど真ん中で浮かんでいる。彼らの周辺には木片のようなものが幾つも幾つも散らばり、中には板切れに捕まっているものもいた。その、人間たちより遥か下。不安定に浮かぶ影達をねめまわすように、一つの魚群が固まって遊泳している。それは確かに魚の外見だが、今海に浮かんでいる者も含め、誰もが見たことがないような怪魚であった。ふくらみのある楕円状の体躯の色は黒。しかし、まるで光を反射しない。姿形はタイに似ているが、異様に口が裂けて、体の半分程の所に口端があり、半開きの口腔には鋭利な牙がぎっしりと並んでいた。噛み付かれれば、恐らく腕の一本も食いちぎられてしまうだろう。男達が見失ったのはこの怪魚の、魚型のフェルの一群であった。


「と、とにかく港まで泳ぐしかねぇ! いくぞおめぇら!」


しかし、足元の遥かしたを泳ぐ光を反射しない魚を、人の視力で探すことは不可能である。男達の中でリーダー各と思われる壮年の男が声を張り上げた。肩をまだ若い男の一人に貸している。恐らくは何処か怪我をしたのだろう。そんなリーダーの声に周囲の者達は不安な様子を隠そうともしなかったが、特に反論はない。しても、仕方がないのだ。一人また一人と最後には一斉に、男達は全力で村の岸を目指して泳ぎだす。しかし、その動きが起きる波が、魚群を刺激した。獲物の確認をしたのか怪魚たちは一斉に一端動きを止めると、体を震わせヒレを広げ大口を開けて、動き始めた海上の影向かって我先に矢の如き速度で迫る。距離、一メートル。


「あ?」


港目指し泳ぐ男の一人が、空に影を見つけた。海鳥だろうか。どうせ飛ぶなら俺達も連れて行ってくれないか、と現実逃避をはじめるも束の間。それは、落ちるなんていう生ぬるい速度ではなく、泳ぐ彼らの真ん中に飛び込んできた。同時に立ち上るあまりに巨大な水柱と巻き起こる大波。


「どおわあああああああ!」


大波に半ば飲まれるその声は、影には聞こえたのかどうなのか。

海中。魚群の先頭が標的に向かって迫っていたはずなのに、それは余りに突然現れた。光反さぬ彼らよりもさらに闇を持つ黒影。しかし、その姿を怪魚たちが捉えたのは恐らく一瞬であっただろう。影は闇を広げ、数百は居たであろう魚群を飲み込んだ。

海上に打ち上げられた水が夕立のように海面と男達に降り注ぐ。波に流されながらもそこは海の男達。溺れるなんて間抜けな芸当をしているものは居なかった。雨はいまだに注ぐが、波は幾分か穏やかさを取り戻してくる、と。今度は空からではなく海中から影が飛び出してきた。入水の時ほどではないが、水しぶきをあげながら、青年は飛び出した空から静かに海面に降り立った。数秒の静寂。だがそれはすぐ後に巻き起こった男達の野太い歓喜に吹き飛ばされる。


「遅いんだよ坊主!」


怒号とも呼ぶべき声援の中で、リーダー格の男が笑顔で皮肉る。青年は、少し困ったように頬を掻いた。


「無茶言わないでくださいよ。これでも急いできたんですから。怪我をしている人は僕が運びます。迎えの船が来るでしょうから、泳げる人達はかたまって動いてください」


言いながら、青年――チアキは男衆を見回した。どうやら、リーダーに担がれている人以外は不幸中の幸いか、無事なようだ。海面を滑るように移動し、怪我人を受け取る。他の者達を迎える船はもう数十メートルというところまで来ていた。


「何処が痛みますか?」


言いながら、腕を掴んで引き上げる男の様子をチアキは見た。右足のふともも辺りからかなり出血をしているようだ。


「右足が動かねぇ、それ以外は特に」


言うとおり、他に外傷は見当たらない。大方、船を壊された時に足に何か当たってしまったのだろう。とはいえ、気づかないだけで他に何かあるかもしれない。チアキは霊覚で周囲に怪魚の残党が居ないか気を張りながら、急ぎ港まで飛んでいった。







ウォルド、マリー夫妻宅。

朝食の後始末を終え、マリーとアーノイスは二人で庭先にて洗濯物を干す仕事に移っていた。アーノイスは自分とチアキの使ったものくらいは、とマリーに頼み込み洗濯の仕方を教えてもらい今に至る。アーノイスとしては部屋を貸してもらい食事の面倒まで見て貰っているので、これぐらいのことは任せてほしいと最近言うのだが、マリーはどうも何もしないのが性に合わないらしく、いつも仕事は二人で分担という形に落ち着いていた。と、真っ白になったシーツを広げながら、アーノイスの顔が青空を向いた。少しして目を閉じ小さく息を吐く。


「終わったみたい……ね」


誰にも聞こえないような小さな声で呟いた後、微弱に光を放っていた烙印が消えた。晴天の下でその様子は実にわかりづらく、マリーもやはり気づいた様子はない。

この島に、教会の、門の加護はない。故にフェルの襲来が門の庇護下にある地域に比べ頻度が高い。村の中ではそのフェルの脅威に対抗する為の自衛団が結成されており、日々島の巡回といざ戦闘する為の訓練や住民への注意喚起などを行っている。しかしそれだけで安全が得られるなら安いなどというものではない。フェルは、小さなものなら週に一回は村の誰かが見ているのだ。凡そ、それは巡回に当たる自衛団なのだが、時折森の中へ採取に行った村民が遭遇してしまうケースなどもある。そうなってしまった場合、それが戦いの心得を持たぬ者ならば、終わりである。


「チアキちゃん、大丈夫かしらねぇ」


ふと、いつの間にかアーノイスの隣で洗濯物を干していたマリーが呟いた。空を見上げていたアーノイスはハッとして、隣の老婆へ微笑みかける。


「大丈夫ですよ。だって、チアキですもの」


アーノイス自身も、遠く広げた霊覚によりわかっている。村人の、チアキの遭遇したフェルは数こそ居れど個々の力は弱い。彼女らがこれまでの道中であってきたフェルの中でも放つ霊気は最低クラスだ。以前にも、数回二人はこの島に現れたフェルを打ち倒しているが、どれも大したことはない。門がないという影響なのか、否か。だからといって慢心しているわけではないが、余程のことがあってもチアキならば何とかする。そうアーノイスは確信していた。

そんな、迷いのないアーノイスの自信に満ちた笑みに、マリーも心配に曇らせていた表情を柔らげる。


「本当、信頼してるのねぇ。愛し合ってて、年甲斐もなく見てるこっちが恥ずかしくなっちゃうわ」


「だって……たった一人の人ですから」


そう、少しだけ重く声を響かせながら、アーノイスは思った。自分は、彼を愛しているのだろうかと。信頼は、している。確かにそう言える。でなければ、あの日始祖教会の前庭で差し出された手を取って、この場所まで着はしなかった。そういう意味で、彼は彼女が全てを委ねても良いと思えるたった一人の人だ。だがそれが愛がどうだという話になるとわからなかった。妹であるペルネに向ける気持ちとは違う。教会の仲間であったメルシアやグリムに対するものともまた違う。もっと、心の奥底に彼は居た。


「世界の何処かには、皆を護ってくれる神様が居るって話だけどねぇ……」


不意にマリーが語りだした内容に、思考の森に迷い込んでいたアーノイスが跳ねるように目線を向けた。間違いなく、彼女が言うその神とは、アヴェンシス教会の謳う女神の事だろう。両足が、震えた。もしかしたら正体を、アーノイスが鍵乙女だと知られているのかもしれない。なら何故、今まで何も言わなかったのか。いや本当に知らずに語っているかもしれない。僅かな言葉の間にそれだけの考えがアーノイスの脳裏を駆け巡った。しかし。


「私から見たら、貴方達みたいな子が傍に居てくれる方が、よっぽど安心出来るってものよねぇ」


マリーは嬉しそうに笑いかけていた。皺だらけの顔にさらに深い皺を刻んで。この人の顔の皺は、笑顔で出来たものなんだろうと、そう思わせるような優しく美しい笑顔に、アーノイスには見えた。自分でもわからない内に、アーノイスは泣いてしまった。途端に、マリーは慌てて「どうしたの」とか「大丈夫」とか真剣に心配の声をかけてくれるが、アーノイスは嗚咽に声が引っかかって言葉が出なかった。

情けない、みっともない、と自分を叱責しても涙は止まらない。いつしか彼女は目の前の、自分よりも背小さな老婆に抱き付いていた。もう、マリーは何も言わない。ただ静かに、幼子をあやすように、少女の背中を撫でていた。

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