―失跡―
始祖教会内大浴場。
昼過ぎ、ということもあって浴場に人影は見えなかった。使用した形跡があるのは、夜勤上がりのものが就寝前に使ったからであろう。現在は緊急時の為の措置として、掛けられている浄化と循環の呪術が常に稼動しており、いつでも入れる状態にはなっていた。
普段は夕方から夜の十一時頃までと、朝の三時から八時までという縛りがある。
「よし! 眠りっぱなしで疲れているだろう。どれ、私が背中を流してやる」
アーノイスを半ば強引に引っ張ってきたメルシアがこれまた強引に、湯船まで引き連れて近くの椅子に座らせる。
「え、診察するんじゃ――わぷっ」
何事か言いかけたアーノイスだったが、その頭に桶からのお湯が盛大にかけられ言葉を遮った。
「そんなもの嘘だ。もう疲労以外は健康体だよ、お前は」
あっけらかんとそう告げるメルシアは続き、手に持っていたタオルにこれまた持ってきていた風呂道具入りの洗面器の中から石鹸を取り出して泡立て、アーノイスの背中に当てた。
「後は、メンタルの方だな」
タオルを当てられたアーノイスの背中が少し跳ねる。何のことか、とアーノイスはか細い声で惚けるが、無駄であった。暫しの沈黙を挟んでから、彼女はポツリポツリと語り始める。
「――声がね、聞こえるの。その人だけじゃなく、何も言っていない周りの人たちの声も」
『あんたが! あんたが居たから、こんなことになったのよ!!』『あの人を返してよ』『狙われたっていうのは、どういうことなんだ。この女が何かしたんじゃないか』『死ぬのはいつも先方の人間と無関係の奴ばっかりだな』『手伝うなんて、罪滅ぼしのつもりかしら』
それらは全て、あの時、あの女性に詰め寄られたときに周囲から一斉に聞こえてきた声の、ほんの一部だ。本当に、彼らの声であったのかはわからない。だが、それが幻聴だったというには、あまりにも鮮明に彼女の耳には残ってしまっている。
「駄目よね……こんなことで落ち込んでちゃ。誰かに褒められたいが為に、戦っていたみたいだもの、これじゃ」
それでは駄目だ、と口では言うもののアーノイスの声に力はない。彼女はまたそれが不甲斐無くてそれでもどうしようもなくて、気づけば涙が流れていた。それすらもまた、情けないと思う。
「おい、アーノイス」
と、メルシアの声は正面から聴こえた。思いがけない方向からの声にふと顔をあげたアーノイス。だが、金髪の童女が見えるよりも先にそこには桶より投げられたお湯が飛び込んでくる。
「ぷはっ! な、何するのよ」
顔を振り、掛けられたお湯を落とすのに下を向くアーノイス。抗議と共にあげようとした頭だったが、それは小さな手に押さえられる。今度は何か、と体を強張らせるも、それは優しく頭の上を行き来するだけだった。
「気にするな、と言っても仕方ないだろう……でもな、お前のやったことも、今お前が感じてることも全部、間違いじゃない」
撫でる手は止めぬまま、メルシアは言葉を続ける。
「誰かに褒められたい、認められたいと思うのは人間の本質だ。別にそれを押し殺すことはしなくてもいい。ただ、全ての人間にとっての正解なんてないんだ。最初に……その烙印を刻んだ奴も、そうだった。皆を助けるんだって粋がって、それでも救えなくて泣いて、時には恨まれて追われて、それでもそいつは最後まで言ってたよ。皆を助けるんだってな、馬鹿の一つ覚えみたいに。でも、それをあいつは自分で選んだんだ。アーノイス。お前は自分から鍵乙女なんてものになったわけじゃない。誰かから何かを望まれていても、その通りに生きる必要なんてない」
手が止まる。止まって尚離れず、メルシアはアーノイスの返答を待っている。少しして、ゆっくりとメルシアの手をアーノイスの手が避ける。そして言った。顔は上げられぬまま。
「ありがとう、メルシア」
小さく告げられた礼。二人はそれ以上、特に語ることもなく互いの背を流して湯浴みを終えた。
執務室に半ば押し入るように現れた騎士は、先程の一件の詳細をグリムとオルヴスに報告した。
今、教会の方で捉えている例の女性は、先日のエトアール襲撃の際に死んだ騎士の恋人だったのだという。その騎士は、ユレアの持っていた笛に操られ、応戦していたアーノイスに首を飛ばされた。アーノイスが戦っていた教会前庭付近では、唯一の死亡者であった。不幸にも、その女性は恋人の騎士が殺される瞬間を見てしまったのだという。物音に起き、窓から覗いていたところであったとか。
「はぁーん……成る程ね」
机にひじをつき頬杖をしたまま、グリムは目を伏せる。
「その、自分も、彼のことは存じておりましたが……騎士足る者、何時如何なる時この命が尽きるかわからないものと思っております」
「……ですが、残された人にとってはそうではないのでしょうね」
弁明にも似た騎士の台詞に、オルヴスは本棚に背を預け、腕を組んだ姿勢のまま、正面の何処へとも視線を向けずに応えた。
「その女性は、今はどちらに?」
「はっ! 地下の騎士団の詰め所に居られます。拘束致しましょうか?」
問いに、騎士は背を伸ばし、敬礼しつつそう口にする。右のこめかみを掻きながら何か考え事をするオルヴスに、グリムは目聡く釘を刺す。
「おいオルヴス。一応侮辱罪? 辺りには該当するんだろうけどよ。妙な気を起こすなよ」
「嫌ですねぇ。そんなに信用ありませんか」
「いいや。でもお前ならやりかねねぇなと思ってよ」
言いながら、背もたれによりかかり、足を机に乗せるグリム。書類は片付いては居ないが話を聞くために真ん中が空けられ、両脇が階層をまして不安定だ。
と、二人だけで会話をしていてしまった為、困惑の表情を見せていた騎士に、オルヴスが微笑む。
「ああ、申し訳ありませんね。どうするかは、アノ様に聞くしかないでしょう……そろそろ戻るでしょうから、少しお待ちいただけますか」
オルヴスがそう騎士に告げたのと、執務室の扉が開くのはほぼ同時であった。
――同日。深夜。
始祖教会前庭。柵や門が破壊され、所々抉れている地面。おおよそ、神聖な教会への入り口となる場所には見えぬそこに、アーノイスは居た。そこで、踊る。いつもは修練場でやることだが、今は修繕工事やその為の資材置き場にもなっており、よろしくない。それに加え、彼女自身がつい先日己が戦ったこの場所に来たかったというのもあった。軽やかな足取り、音を立てるのを恐れるかのように地面を踏む足とは裏腹に、上半身の動きは激しく、キレと荒々しさを押し出して、乙女は舞う。心が、洗練されていく。流れる汗に洗い流されるように、削がれるように、研ぎ澄まされていく。ピクリ、と彼女は眉をひそめた。
『痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い』『助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて』『嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ』
声が、彼女の魂へ流れ込みはじめる。死んだ者、傷ついた者、恐れた者。霊魂そのもののものもあれば、残滓でもある。声はいくつも重なった螺旋を描くように乱れて混ざり彼女を苛む。いつしか、彼女は舞を止めていた。自分の息が乱れているのは感覚でどうにかわかるが、跳ねる心音よりも荒い呼気よりもうるさく、声は止まない。足が、手が、震え、だんだんとそれは全身に伝播していく。支えを見失い、揺れるアーノイスの体。が、倒れることはなかった。右肩に感じる、確かな力強さ。声も、ぷつりと止んでいた。
「無理はいけませんよ。アノ」
上から優しく降る声に、目線を上げる。わざわざ確認せずとも、それが誰であるかは明白であった。
「ごめんなさい、チ……オルヴス?」
静かに頷いてオルヴスはアーノイスを起こして立たせると、その左手にもっていたタオルを差し出す。顔を滴る嫌なものが混じった汗を拭いていく彼女に、オルヴスは聞いた。
「あれで、良かったのですか?」
要領を得ない質問に思えるが、アーノイスには何のことかわかっていた。昼間の、一件。風呂から上がったアーノイスは例の女性が囚われていることを聞くや否やすぐに解放するように、と騎士に告げた。侮辱罪がどうの、という話もあったが彼女はその話を切り捨てて、半ば強引に騎士に命じたのだった。
タオルに顔を押し当てたまま、アーノイスは答える。
「私は、ね……だって、あの人だって辛いんだから。その不満を裁く権利なんて、ないわ」
語る声は、弱い。そう口にしないと、言わなければいけないと己を保てなかった。オルヴスは何も言わない。ただ、アーノイスの横を過ぎて、彼女の前に立った。自分で覆ってしまった視界では、それは見えなかったが、風の揺れが伝えてくれた。アーノイスがゆっくりと、顔を上げる。
月を背にし、オルヴスは微笑んでいた。眼が合うと、彼は右手を、アーノイスへと差し出す。
「行きましょうか」
「……何処へ?」
差し出された手と優しく笑う瞳とを交互に見ながら、アーノイスは問う。オルヴスはゆっくりと、答えた。
「ここではない、何処かを探しに」
惑いながら、躊躇いながら、それでも確かに少しずつアーノイスの手はオルヴスの手をとる。手繰るように、縋るように。
――その日。鍵乙女とその従盾騎士は、教会、騎士、民衆その他の国々、その全てから姿を消した。