―渦中―
轟音、粉塵。度重なる爆撃のような破壊が、アヴェンシス教会の至るところで巻き起こっていた。時に外側から、時に内側から、呪術も相まって強固に造られている筈の外壁や内装が吹き飛び、その破片を夜闇へと降らせる。一箇所、一階層に集中した損壊では無い為奇跡的に倒壊するには至っていないが、時間の問題と言えるだろう。しかしてそれらは、暴徒と化した騎士達の仕業ではない。普段であれば夜勤の兵士が見回りをしているだろう、この教会の本棟には今、二人の男しか居なかった。神父や修道女達が眠る宿舎がこの棟に用意されていなかったことは、一応幸運と言える。
扉の一つが吹き飛び、室内の内装を滅茶苦茶に、外壁までも衝撃で半壊させながら、男のうちの片方が、その部屋だった空間に転がり込む。
「見境なしといったところか。流石だな」
膝を着いたまま悪態を吐く仮面の男。だが、その体勢を立て直すよりも早く、彼の右側にあった壁が吹き飛び、それを構成していた木と土の欠片とともに、黒い影が襲い掛かった。淡く青白い光を纏った手がその仮面に突き立てられる寸前、仮面の男の持っていた鏡の剣が割って入り、周囲を完全に吹き飛ばす程の余波を巻き起こして止まる。鏡面を持つ剣はその刃の方向を拳に当てているのに、青い光が障壁となって触れ合わず、拮抗していた。
「別に壊したくてやっているわけではないのですがね」
拳と剣を合わせたまま、クオンの皮肉に返答するオルヴス。クオンもまた、拮抗を崩さず、その口元を少しばかり歪めながらゆっくりと立ち上がった。
「我としてはこのまま倒壊してくれても良いのだがな。ああ……いや、それはまだ少し困るかもしれんが」
要領を得ない物言いにオルヴスが怪訝な視線をする。しかし、その暇もなく、鏡の剣が煌き、内包された術を放った。どこからともなく現れる、映し出されるクオンの霊気。それは、オルヴスの真後ろから真っ直ぐに飛んできていた。本体の剣を押さえていた右腕を引き、残る左手でクオンの側頭部を殴りつける。吹き飛んでいくクオンには目もくれず、腕を振るったままの勢いで背後から迫っていた、映し出されたクオンの攻撃と向き合って打ち払う。だが、その瞬間、彼の霊覚がもう一つの“虚像”を捉えた。殴り飛ばされた向こうで、クオンが薄く笑う。地面を蹴って虚像より逃れようとするも、不可視の攻撃はオルヴスの脇腹を切り裂き、鮮血を撒き散らしていた。
「先程、見境なしと言ったが、取り消すとしよう。貴公が今その姿でなければ、このくらいはかわせていた」
己のこめかみ付近から流れる血など意にも介さず、クオンは告げる。オルヴスもまた苦々しい笑みを浮かべて答えた。
「やれやれ。まさか斬撃だけを呼び出してくるとは、恐れ入りましたよ……貴方がたは本当に魔具がお気に入りのようで」
「別に好んでいるわけではないさ。だが、我にはあまり才はなくてな。強くなる為に、色々無茶もして集めたものさ」
左手指にところ狭しとした指輪を眺めながら、クオンはほんの少しだけ自嘲気味に言う。そしてその嘲いを消して、真っ直ぐにオルヴスを見据えた。
「……そう。天才とまで言われた貴公とは違ってな。チアキ=ヴェソル=ウィジャ」
仮面の奥の瞳に憎悪と羨望と憐憫の入り混じった色が差す。オルヴスはただ黙って、無感動な視線を向けていた。彼がそれを知っている事には特に驚きはなかった。今更だからである。
そんなオルヴスを一秒だけ見つめ、クオンはさらに続けた。
「最も十年程前の“レラの消失”で、両親に術の実験台にされしかも失敗した挙句、国家反逆罪で処刑された事になっている筈の貴公を、妬むのもどうかとは思うがな」
「お気遣いは結構ですよ。そう大した事でもありませんから……それに」
言葉を切り、オルヴスが顔の前に右手を掲げる。纏っていた青白い霊光が、漆黒の靄へと変わる。
「今、貴方の前に立っているこの僕は、チアキ=ヴェソル=ウィジャではなく、ただのオルヴスです。従盾騎士でも、魔狼でも、何でもいいですがね。ただ、チアキとだけは呼ばせません」
彼の体表面に浮かび上がっていく、白い闇の刻印、呪印交霊。彼が全てを失うきっかけにして、現在を創り上げもした、呪われた刻印。
「ほう。格好の良い矜持だな」
呼応するかの如く、クオンもまた鏡の刀身を顔の前に立て、その身の奥の呪印を呼び覚ます。オルヴスのとのよく似た、それでいて非なる刻印。
「いいえ。だだの幼稚な我儘ですよ。それより……何故貴方もその呪印を持っているのか、聞いてもよろしいでしょうか」
それを見たオルヴスが、先程のクオンの問いに答えつつ問う。呪印交霊はウィジャ家の秘法にして禁術。命を食らうという術の特性は知っていても、その全容までもはオルヴス自身も存ぜぬものであった。ウィジャの文献でも漁れば手がかりくらいはあるのだろうが、家自体が跡形もなく焼き払われてしまった今となっては、確かめる術などあろう筈もない。そんな、もはや失われてしまった筈の呪印を、クオンがその身に纏っているのを疑問に思っても仕方ない。
「ああ……そうだな。いいだろう。ただしその前に――」
クオンの纏う白闇が荒ぶり、濃い霊気がその鏡の剣に宿る。身構えるオルヴス。だが、クオンは鏡の刃を正面ではなく、己の足元へと突き立てた。
「少しだけ、我の用事に付き合ってもらうとしよう」
床が、その下の地面までもが爆砕される。数メートル離れて立っていた二人を囲ってもまだ余るくらいの大穴が、彼らを重力に従って地の底へと誘う。二人はそのまま、無限とも思える垂直のトンネルを落ちていった。
「――!」
油断していた、とユレアは歯噛みする。魔眼を開放して全力でアバンを倒したところで、緊張の糸が緩んでいたのだろう。首、両手足に絡みつつ視認しづらい光の糸を意識しながら、己の甘さを悔やんだ。鍵乙女が、こうまで戦えるようになっていたとは思わなかった、という完全なる勘違いが今のこの状況を生んでいる。ちらり、と動きを封じられて一ミリも回せない首の代わりに目線を追って、己を捕らえ宙に浮かしている鍵乙女――アーノイスを見た。まさに、その表情は激情が滲んでいる。怒り、焦り、憤り。戦いの中で時には大きな隙となるであろう、振れ幅の大きい感情を隠すこともなく表す少女を少しだけ羨ましくも妬ましくも思いながら、ユレアは努めて冷静に、まだ手の内にあった鎌に霊気を送った。相手の身動きを封じたからと問題はないだろう、というのは、どうしようもなく素人考えであった。
「ぐっ」
突如襲い掛かった首筋への衝撃に、アーノイスは視界を揺らす。何が、と見ればそこには自分が今捉えたはずの女の持つ刃が、空間を裂いて現れていた。振るわれたわけではなく、ただそこへ現れた刃。それは元々この空間にあるであろうものを押しのけて出現するのが常であるが、烙印術により己が身に襲い来るあらゆる攻撃を閉じているアーノイスには、干渉出来ない。とはいえ、その直近から出現させてぶつけ、一瞬の意識の乱れを起こすことは可能であった。
その隙を見逃さず、緩んだ光糸を振り払い、ユレアは自由の身となって、地面へと降り立った。
「荒々しいですね、鍵乙女。以前とはまるで別人のようです」
乱れた髪を頭を振って軽く直し、鎌を構えて数メートル離れた場所に立つ鍵乙女を見据えるユレア。
アーノイスもまた、伸ばしていた光糸を幾分戻し、己の足元に遊ばせる。
昼間とは打って変わって、惨憺たる様となった、始祖教会前庭に二人は居た。辺りには、それこそ両者の足元にまで、幾人もの掲剣騎士が倒れ伏している。騎士達は階段を下った広間にまで及んでいるが、街の中に入っていった様子はない。全て、アーノイスの光糸が意識を『閉じ』、気絶させた結果である。
「貴女こそ。前に一緒にお風呂に入って上げた時は全然違うわよ」
ユレアの言葉に、荒ぶる感情を無理矢理押し殺して震えた声で、アーノイスは返答した。
「気づいておいででしたか。いや、あの魔狼が知らせたのでしょうか」
変わらず、冷淡に言葉を吐くユレア。
「今はそんなことどっちでもいいんじゃないかしら」
「そうですね」
声音の端々に棘を散らした会話を一旦区切り、アーノイスは空を見上げた。相変わらず、そこには無間に思われる闇が広がっている。亡霊たる彼女らの襲来の際、捕魔の籠より呼び出された何かが、アヴェンシス全体を包むよう覆っていた。故に街をこの場を照らすのは青白い月明かりなどではなく、呪術による燈赤の街灯達のみ。だがその灯もまた、不安定に揺らめきアーノイスとユレアの影を乱す。呪術により成っているその火が揺れるということは即ち、この場の霊気が乱れているという事だ。それは紛れも無く、天上の漆黒の所為。
おもむろに、アーノイスは指を一本空へと突き立てた。
「あれは何かしら」
「あの方の、我らの復讐の象徴」
答えるはずはないだろう、と高を括っていた矢先に割とまともな返事をもらい、アーノイスは少し虚を突かれた。大鎌に刃が燈色に光る。無機質な衝突音と突風が巻き起こり、二つの影がぶつかった。真正面より愚直に、大鎌の先端は真横よりアーノイスの首を狙い、それを下方の左手から延びる五本の糸が押し留めている。
「貴女にもわかるでしょう鍵乙女。奪われた者の想いが」
極めて細くしなやかでいて、絶対的な壁と化す光糸に刃を阻まれながらも、ユレアはその両手に力を込めることを止めない。何者も犯せぬ意志を宿した隻眼が、アーノイスを写す。
「……そうね」
その暗い瞳を見据えながら、アーノイスもまた口を開いた。『奪われた』その言葉に反応に思い起こされる二つの人影。遠い昔に出会った少年と、僅かばかりの時を共に笑いあった少女。“彼”は今、居る。だが“彼女”は今や居ない。この世界に存在しない。奪われたのだ、今まさに目の前に居る者たちの手によって。強引に、アーノイスは均衡を押し破る。木の葉のように跳ね飛ばされたユレアの体躯が、宙空に止まった。
「貴女と、そして魔狼を下せば、我らの悲願は終焉のはじまりを見る」
「させない。もう終わらせる。それが私の、貴方達への復讐よ!」
鍵乙女が飛ぶ。石の地面を踏み砕き、十条の光をはためかせながら。ユレアもまた動いた。足元に形成していた霊力の足場を消し、自由落下すると共にその先へ空間の断裂を造り、落ちる。紙一重、アーノイスの振るった光糸はユレアの頭上を掠め避けられた。だが、そのまま光糸は直下の断裂へ向い、暴れ狂う。全てを切り“開く”五本の光が空間を引き裂いて散らした。しかし、アーノイスの霊覚はオルヴス程正確ではない。亜空へと沈んだユレアの姿までは捉えきれず、そこには無造作に破られた亜空への穴だけが残された。小さく舌打しながら地面へと降りるアーノイス。その耳に、覚えのある笛の音が届く。はっ、とアーノイスは全方位より響いてくる、その妖艶な笛の音に翻弄されるように周囲を見回した。だが、つい先程彼女の手によって倒された兵達が動く気配はない。何が狙いだ、と彼女が霊覚を研ぎ澄ませるとほぼ時を同じくして、それは感じられた。
「いやああああああああ!」
強くはない、だが確かな、誰のものかわからない霊力。そして悲鳴、さらに轟音。前庭の階段を下りた向こうの街の方から、それはアーノイスに伝えられる。見れば、街の方から煙が上がっているようであった。一足、全速で悲鳴の下へと跳んで行く。そこには、既に血に塗れた少女と、それに刺さる剣とそれを持つ騎士、火霊術により燃えた建物があった。一にも二にもなく、アーノイスの光糸が騎士を横薙ぎに吹き飛ばし、別の建物へと叩きつける。それを見向きもせずアーノイスは少女へと駆け寄るが、既に遅かった。それは先程、目の前で父を失った少女。一度は助けた筈の、命。それを悔やむ間もなく、アーノイスの霊覚が直上からのプレッシャーを伝える。反射的に後方に飛びのく彼女の視界に、空から伸びる闇の手が少女の亡骸を貪る様が写った。その間にも、アーノイスの周囲で騎士達が立ち上がっていく。生気も感情も何もない、眼、眼、眼。それらを、アーノイスは無造作に光糸で吹き飛ばした。ふらふらと幽鬼の如く歩む騎士の一団が、情けの薄いその一撃に羽虫のように軽々と吹き飛ばされていく。
――これでは、さっきと同じだ。
そうアーノイスは奥歯を噛み締めた。またユレアを見失い、また騎士達を操られ、そして死人と怪我人を出す。終わらせる方法は、一つしかない。騎士達を操っているユレアを早急に見つけ出すことだ。どうにも、後手に回っている感じが、アーノイスをさらに苛立たせた。
それは、詮無きことでもある。ユレアの戦闘経験はアーノイスよりも遥かに上だ。純粋な力で行けば烙印術を持つアーノイスに分があるのは明白で、その上ここはアヴェンシス、彼女らにとっては敵陣の真っ只中。間違いなくアーノイスに有利なこの状況を、彼女は逆手にとり騎士を操り無辜の住民を襲わせてアーノイスの行動をさらに制限してくる。それを打破するには、騎士達の意識をもう一度全て閉じながら、亜空に居るだろうユレアを見つけ出し倒さなければならない。
と、そんな思考を巡らせていた彼女の頭が突然、強い衝撃に揺さぶられた。たたらを踏みながら衝撃を感じた左側を見れば、そこには一瞬だけ姿を覗かせた大鎌の刃を捉えることが出来た。
挑発か、それ以外の何かか。そんな思考を巡らせるよりも先に、アーノイスは右手の光糸を伸ばした。必ず捉える、許しはしない、と。確かに、彼女の反応は早かった。自分の体勢を整えるよりも先に、ユレアを捉える為に動いたのは決して間違いではないだろう。だが。それはこの場においてはあまりにも、冷静さを欠いていたと言わざるを得ない。
鮮血が飛ぶ。光の糸に真っ赤な血がついて、紅い光の線となる。一拍を置いて、アーノイスは眼を見開いた。ゴトリと、続いてガシャンと、落ちる、頭。頭部を失った身体から噴水のように飛んだ血が、雨のように降り注ぐ。続いて、倒れる首無しの、鎧を纏った男の、死体。それらの情報を、最初アーノイスは認識出来なかった。何が起きたのかを、光景は見えても脳が処理することを拒んだ。しかしながら、それは事実として彼女に突きつけられる。鎌はそこにはない。その刃が破った空間の断裂も同様に。あるのは、操られていた騎士の首を跳ね飛ばした、アーノイスの右手より伸びる五つの線光だけ。
「諦めなさい」
そんな声が聞こえると同時、アーノイスの視界は空を仰いで、体は地面に叩きつけられた。右腕の付け根に感じる、力。己へと向けられる全ての攻撃を閉じている彼女に、押し付けられている鎌の刃が通ることはない。如何なるものも決して通さない、独特の拒絶の衝撃及び圧力。震える視線をどうにか動かし、漆黒を背景に写りこむユレアに、アーノイスはどうにか焦点を合わせた。
「私の刃が貴女を傷つける事は不可能。ですが私を仕留めることも、今の貴女には無理というものです」
実際、ユレアが今アーノイスの右肩に突き立てている刃には、何の意味もない。ただ少しアーノイスが腕を動かすか烙印術の威力を高めるだけで、いとも簡単に弾き飛ばせる。それは、ユレアも当然わかっていた。そう。彼女は、アーノイスへその無力さを突きつけているのだ。
「それに、貴女は気づけなかったかもしれませんが……霊覚をこの街全体に巡らせてみなさい」
言われるがまま、アーノイスは自身の霊覚を研ぎ澄まし、街全体を覆うほどの感知をはじめ――息を呑んだ。巨大な円を描くこのアヴェンシスという街の至るところで、霊気が高まりまた消えていく様を、彼女の霊覚は察知した。その意味するところがわからない筈もない。
「操られている兵が、全て此処に居るものだとでも思いましたか?」
何の感慨もなくユレアは呟く。アーノイスの霊覚が伝える幾つもの情報。崩される建物燃やされる家、焼かれる人斬られる人、焼く騎士剣振りかざす騎士。少し冷静に考えればわかることだった。彼らは言ったのだ、これは復讐だと。その復讐の相手が、オルヴスやアーノイスにだけ留まる筈がない。紛れも無く、その怒りの矛先はアヴェンシス教会へと向けられていたものだ。だとすれば、操った騎士の全てをアーノイスに一人にぶつけてくるとは考え難い。そもそも、数が少なすぎた。
アーノイスの全身が一瞬発光する。光に弾かれ退くユレア。生まれる多大なその隙に、アーノイスは眼もくれず地面を蹴って空へ、天座すフェルの直近まで刹那の内に移動する。そうして離脱したアーノイスを見上げながら、ユレアはゆっくりと空間を鎌の切っ先で少しだけ開け、そこから笛を取り出す。
「そうやって、目の前の事しか見れないから……貴女は無力」
細く艶めかしい横筒から、妖しい音色がアヴェンシスの街に再び降り注いだ。