―蜘蛛―
大剣の切っ先を見えぬ空へと突き上げたまま、アバンはただ黙して前方を見据えていた。そこに、ユレアの姿はない。代わりに、彼の見据える燈赤に揺らめく空間には、いくつもの“亀裂”が刻まれていた。それは、亜空へと逃げたユレアの通り道。影が、そのうちの一つから飛び出した。
「ふんっ!」
軽い気合と共にアバンの一刀が、斬撃が走る。振るわれた剣と霊の圧が空気を払い空間に微かなゆらぎを見せて、影の過ぎた後を抜けていく。その延長線上にあった壁に圧力の余波がぶつかり、石の壁とその奥の土壁を砕くと同時に、アバンは振り切り地面へ叩きつけた大剣を強引に持ち上げ、首も巡らせずにその幅広い刃で己の背中を隠した。一瞬の間を置いて、鋭い風切り音と強くぶつかった金属音が響き渡る。アバンの背を覆う大剣、その腹に突き立つも刃が立たない大鎌と、亀裂より半身除かしている、鎌の持ち手。アバンは手首を回して、ギリギリと剣の腹に食い込もうとする鎌の先端を弾くと、上半身だけを捻ってユレアを横一閃に切りつけた。先ほどのアバンの弾きで体勢が崩れていたにも関わらず、ユレアはまるで吸い込まれるが如く、己が半分出現していた亜空の口へと戻り大剣の一撃を回避した。
さらにまた数瞬遅れ、今度は薄氷を砕いたような音が木霊する。
「先ほども言った。速いが、足りんとな」
溜息混じりに言って、アバンが己の左手の先を見る。手首から先が亜空に埋まり、その僅か横から湾曲した刃が顔を覗かせていた。空間の向こう側で掴んでいる鎌の柄を強引に、腕だけで引き摺りその持ち手ごと引き上げ、投げ飛ばす。宙空へと放り投げられたユレア目掛け、右手に握った大剣を振るい斬圧を飛ばす。ユレアはどうにか鎌の背でそれを防ぐが、威力までは抑えきれず、吹き飛ばされて大きく距離を離して地面へと着地した。一撃をまともに防御したことで腕に負荷がかかったのだろう、柄は指にかかっているものの両腕は力なく下げられて鎌の先が床へついている。
「空間をも裂く大鎌。その特性を活かしながらの奇襲。さらにその連続。決して悪くは無い。だが、それに頼り切っているのかお前自身の力はそれほどでもないな」
アバンが淡々と台詞を言い切ると同時、地響きが起こり、パラパラと土片が修練場全体へ落ちてきた。おもむろに、彼はその天井を見上げる。
「上でオルヴスと戦っているのもお前と同じ、エトアールのものだろう。それとお前の力の差は歴然だな。兵を操る術は見事だとして、お前がこうして戦線に現れるのはどうかな? 私の力を見誤ったか、もしくは捨て駒であろう」
「黙れ! 何も知らない奴が、彼を、クオンを語るな!」
怒気を露わにしてユレアは叫んだ。その隻眼にはアバンに対する、異常なまでの憤怒に彩られている。あまりに突然の感情の発露に、アバンは少々を眉を引きつらせて彼女を見た。
「例え……貴方の言葉通りだったとしても、私が為すべきことは変わりません」
幾分か平静な口調に戻りながら、ユレアは鎌を左手一本に持ち直す。
「私はあの方に、彼に全てを捧げると誓った……私が今為すべきことは、唯一つ……!」
持ち替えて空いた方の手が、彼女の左目を覆う眼帯へ触れた。そして、戒めを、引き千切る。
「貴方を、殺す事です。アバン=ティレド」
静かな闘志を湛えた右の目に呼応するかの如く、彼女の左の眼窩に埋められた宝玉の奥が光った。眼帯の奥に隠されていた、明らかな濃い霊気を放つその“宝眼”にアバンは目を見開き、そして少しだけ憐れみを覗かせて細めた。
「己が身に魔具を埋め込む、か。そうまでして……。哀しいものだな、亡霊の片割よ」
そう言葉を言い切るか否か、真正面からユレアはアバンへと切りかかった。亜空を通らず、ただただ真っ直ぐに、縦一直線に振り下ろされる鎌の柄を、アバンは掴む。そうして止まったまま、アバンは改めて、ユレアという人物を見た。無骨で見るものに畏怖を与える大鎌の柄を握る手は白く、細い。良く見れば、戦いの末に刻まれたのだろう古い傷がいくつも窺え、手の内には血豆とその痕が覗いている。先ほどの攻防で真っ向からの力比べでは勝敗が明らかだというのに、尚も押し切ろうとするその姿、そして右の瞳からはある種の悲壮を漂わせて。身を包む色濃い彼女の服装と、何も語らぬ左目の宝玉は、その滲む弱さを覆い隠しているように、アバンには見えた。
「……お前らエトアールの者が、我らアヴェンシスを憎む道理はわかる」
ハッと、ユレアはそう語りだしたアバンの顔を見た。一瞬緩む彼女の力だったが、アバンはそれに気づかないフリをしたまま、言葉を続ける。
「弁明はしない。謝罪も、私がしたところで何にもならんだろう。だが、むざむざと殺されてやるわけにもいかん」
「……構いはしません。ただ、私はクオン様に求められた事を遂行するまでです」
「そうか」
アバンが手を放すと同時に大剣を振り上げる。押さえを失い振り下ろされる鎌とかち合い、音と衝撃を撒き散らしながら、両者は離れた。
一呼吸置いて、ユレアは見える筈のない左目でもって、アバンを見据えた。
「……参ります」
「来い」
一言ずつの言葉。その余韻も過ぎぬうちに、ユレアは地面を蹴った。それまでとは比べ物にならぬ、強き一歩。鎌の刃を床に刺し、地面に綺麗な直線を描きながら、アバンへと向かっていく。そのまま、標的目掛けて振り上げた。
愚直なまでに迫り来る刃を、アバンは大剣で弾き飛ばす。ただ弾くのではなく、接触の一瞬に手首を使って、まるで鎌の刃と柄に大剣を絡ませるようにして、半ば投げ飛ばしたという方が正しいだろうか。木の葉の如く軽く、剣の振るわれたままの速度で宙空へ飛ばされ、壁へ激突するユレア。巻き上がる粉塵、その最中から、彼女は再び飛び出した。弧を描き直上より刃を突き立てんと、重力に引かれるのと霊翔による強制落下の勢いでアバンへ落ちる。その刃が彼に到達するより先に、大剣の先が上へ、ユレア目掛けて突き出される。まるで申し合わせたかの如く、お互いの切っ先が極小の一点で激突し、刹那の静止を見せる。その後一拍を置いて巻き起こる反動と衝撃波にユレアは乗って縦に回転しつつ飛び退き、また今度は先ほど己が叩きつけられたのと反対の壁を蹴って、肉薄した。
つい数分前のように、自分と鎌の亜空間移動を用いた奇襲の連続攻撃ではなく、真っ向からアバンへと攻撃を仕掛け続ける。ユレアが自分の戦闘スタイルを捨てた、とはアバンは思わなかった。さっきよりも格段に、ユレアの動きはキレを増している。それがあの魔眼の力であるのかは、彼にはわからないが、何にせよ何かを狙っていることは確かだと、彼はほぼ勘で確信していた。しかし、だからといって彼のやることに変わりは無い。ただただ、襲い掛かるユレアの攻撃を退け、その隙をついて一撃を狙っていく。当たりさえすれば勝敗は決する。アバンにはその自負があった。だが、彼は今、それを確実に当てる術を持っていないのも、また事実であった。
もはや何合切り結んだのであろう。幾度となく壁や天井に叩きつけられ、額から血を流し服も土ぼこりに塗れたユレアがようやく、その動きを止めた。アバンの、その背後より数メートル離れた場所で。
「どうした。止まっていては、的になるぞ」
ゆっくりと、二人は振り返り対峙した。額に数筋の血を流すユレアの、その左目からも鮮血が流れ出している。
「貴方が言えた台詞ではないでしょう」
要領を得ないユレアの物言い。だが、アバンはそれの意味するところがわかっていた。小さく舌打ちで返答する。
「貴方の両足には、霊力が通っていない。貴方のその戦い方は、自ら攻めぬのではなく攻められないのですね。だから、序盤に一撃を食らった。避けなかったのではなく、避ける事が出来ない身体だったから」
霊力が通っていない。それはつまり、戦いの上でその両足はただの枷にしかならないということだ。全身に霊力が通らなければ、纏霊出来なければ霊翔して飛ぶことも出来ない。それどころか、己で打ち出す攻撃の余波を受けてしまい、多大な負荷がかかることは必至である。その証拠か、アバンの足元には、血が溜まっていた。
「……よく気づいたな。その眼の力か? そうだ。私の足にはもはや霊力は通らん。いや、歩くことは出来ても走ることもままならん」
掲剣騎士団長として、絶大な力を持っていた男。一線を退き、彼が司祭となった理由が、それであった。
「もはや限界でしょう……。這い寄れ蠢け」
詠唱を紡ぎながら、大鎌の柄の端を持ち、高く掲げる。それにユレアの周囲、いやこの空間全体が呼応しているのを、アバンは察知した。それは、よく気をつけていれば気がつけるものだったのかもしれない。彼女が、アバンに弾き飛ばされまた向うのを繰り返していた最中、それは描かれていた。空間の断裂による、アバンを囲う、術陣。漆黒よりも深い闇が覗く亀裂が描くそれは、乱雑に見えて一つの重なりも見せず、また彼を中心として放射状に、均等に刻まれていた。アバンが咄嗟に大剣を振り翳し斬撃を放とうとして――止まってしまった。大剣を振るっていたのは確かに彼の腕、上半身だが、それを支えるのはその両足だ。支えに限界がくれば、全てのものは倒れてしまう。動くなど、持っての他だった。
「絡み合う蜘蛛」
鎌の先端が床へ埋まる。それは眼を開放したユレアが最初に鎌を突き刺して走り始めた、起点。同じく、それは術の起点であった。空間にところ狭しと刻まれた断裂が反応して、その切り口を黒紫に光らせる。アバンの頭上で交差する亀裂のアーチが二組。その十字を繋ぐように幾重にも描かれる線。まるで、ドーム状の蜘蛛の巣の中に、アバンは囚われているようであった。
「ふん……無様なものだ」
アバンは嗤う。それはユレアではなく、こうして絶体絶命の場の中心に立っていながら、足掻くこともままならない己への嘲笑であった。
そして、蜘蛛の巣の中を、無数の鎌の刃が覆い尽くした。刻印から地面から宙空から、隙間無く互いすらも邪魔そうにぶつかり合いながら鎌の刃は亜空より出現する。それはまるで、夥しい数の蜘蛛の足が絡み合っているようにも見えた。無論その中で、空間をも切り裂く刃を避けることなど出来る道理は、無い。
数秒ののち、ユレアは鎌を術の起点、床より抜き去りそのまま踵を返した。背後で、何かが水溜りに落ちる音がしたが、彼女は気に留めなかった。ポタポタと鮮血を落とす己の左目に手を当て、何事か呟くと、光から普段身に着けている眼帯が復活し、再び彼女の宝眼を隠す。そうしなければ、彼女の眼は彼女自身を蝕むからだ。全てを見通す魔眼。アバンの足の故障を見破り、またこうまで順序良く術陣を描くに至ったのも、その眼の力あってこそ。だが、それを今この場で閉じたのは、彼女の過ちだったと言わざるを得ないだろう。
はっ、とユレアが顔を上げた時には、既に遅すぎた。真正面より、首、両手足首にそれぞれ絡まる、五本の光る糸。見覚えがあるなどと、彼女が感じた頃には既に、五糸は強引に彼女を引き上げていた。声を上げることも適わないまま、ユレアの身体は凄まじい速さで修練場の天井と壁の間辺りに引き寄せられ、そのまま壁も地面もなく突き抜けて外へと引き上げられた。
再び戻った夜空の中で、ユレアは五糸を持つ者を辿り見やる。
「そんなところに、居たのね」
怒りを惜しみなく叩きつける瞳をした、純白の乙女がそこには居た。