―闇夜―
白く白く輝く満月の前に、佇む二つの人影の前へ、アーノイスとオルヴスは立つ。
眼下のアヴェンシスの街並みは、月の光と同様に静かだ。整備された街並み、その道路には常夜灯が備え付けられており、空から望めばまるで等間隔で整列させられた星座のようにも見える。しかしながら喧騒とは無縁で、それがさらに夜の街灯りを神秘的なものに見せていた。
そんな地上の星座の上で、二人と二人はただその視線を交わす。お互いの存在を確認しているかのような、そんな眼で。そうして続く静寂を破ったのは、仮面の男であった。
「一月ぶり、といったところか。どうだ景気は?」
久しぶりに再会した知人のような、親しみを込めた挨拶をするクオン。それに大して。眉一つ動かさず、アーノイスは答える。
「最高よ。貴方達のおかげでね」
皮肉する言葉に、クオンは喉の奥で押し殺して笑っていた。
「そうか、それは良かった」
「一応、聞いておきましょうか」
皮肉りあいの流れを立つように、今度はオルヴスが口を開く。
「貴方がたは何故此方にいらしたのか、を」
その問いに、クオンは笑みを消した。そして、黙したままで仮面を取り、そのまま手を放した。重力に引かれ、仮面は遥か下のアヴェンシスの何処かへと落ちていく。露になった青年の顔は、いつかアーノイスとオルヴスも見た、在りもしなかった村の青年のもの。だが、そこに、以前のような優しい瞳はなかった。あるのは、憎悪と怨恨と憤怒をどうしようもなくない交ぜにして隠さない、淀んだエメラルドの双眸。そうして、ゆっくりと、ただ一言だけを彼は紡ぐ。
「奪われた者の為に」
それが、合図となった。言葉が言い切られると同時、四人が動く。最初に動いたのはユレア。はじめから持っていたのか、それとも何処からから取り出したのか。いつもの鎌ではなく、妖しい赤紫色の横笛を口元へ運び、跳んで距離を取る。アーノイスは、その笛が如何なるものかはわからないが、躊躇する時間もない、と踏み出すと共に右手の五本の光糸を伸ばした。
空をうねり、襲い掛かる五閃の前に、立ちはだかるはクオン。その手に、門を切り崩した赤黒の刃――報復者を振りかざす。そこへ飛び込むオルヴス。
ユレアへと向けられた光糸の全てを報復者で弾き、迫るオルヴスの拳を、新たに取り出した鏡の剣で受け止め、さらに押し返して空を蹴り、始祖教会の頂上の壁へ激突した。その一連の終わりに、ユレアが笛を鳴らす。艶のある単一の高音が、空気に染み渡るように響き渡る。音自体はそこまで大きくないだろうに、笛の放つ音色はその霊力の所為か、地平線の彼方までも届いていた。飛んでいったオルヴスに一瞬気を取られたが、すぐに向き直り、笛を吹き続けるユレアへ光糸を伸ばそうとするアーノイス。しかし、その動きは途中で止まってしまった。背後から飛んでくる、霊気を纏った何かを彼女の霊覚が捉える。それほどの速度ではない。態々動きを止めなくとも確認せずとも避けられる程度のもの。しかし、それはオルヴスとともに始祖教会の塔へ沈んだクオンのものでも、笛を奏で続けるユレアのものでも、いつか対峙した小さな双子のものでもない。となれば一体誰が、とアーノイスは振り向き、その際に向かってきていた一本の矢を光糸で叩き落とし、その射手の方を睨みそして眼を見開いた。
そこに居たのは数十人の人間。子供と老人を除いた男女の団体。見知った顔でもましてや名前を知っているわけでもない。しかしながら、唯一つだけ。彼らの統一された装備には、覚えがあった。
「なんで……」
思わず、驚嘆の声を漏らす。そう。始祖教会の前庭に現れ、彼女へと矢を向けていた人物。それは紛れもなく、アヴェンシス教会が誇る掲剣騎士団の面々であった。
未だ続く笛の音に、アーノイスは今一度振り向く。これが、ユレアの持つ笛の効力か、と。だが、180度戻った視界に、もはやユレアの姿はなかった。変わりに、宙に“置かれて”いる、以前ツバリ湖でも見た「捕魔の籠」がその闇吐き出す口をあけられた姿が映った。一瞬、脳裏にツバリ湖での強大なフェルとの遭遇を思い出し、天を見上げるアーノイス。だが、そこには何もなく、ただ暗闇が広がるばかりであった。何処に行ったと探そうとするその前に、彼女は異常に気づく。先ほどまで空に座して居た筈の満月。その明かりが全くない。空は完全に暗転している。そしてその暗黒からは間違いなく、色濃い霊気、フェルの霊気が感じられた。いつの間に、とそんな事を思索する間も与えられず、十数の霊気を纏った矢がアーノイス目掛け放たれ、彼女はそれを打ち落とすべくまた振り向いた。見れば、兵士の数はどんどんと増えており、そのうちの数十人は何故か始祖教会前庭の階段を下っている。
「一体何だって言うの!」
悪態を吐きながら、アーノイスは兵士達の目前まで急降下した。途中、容赦なく矢が射られるが、それを体を捻るか光糸で弾くかしてかわし、階段を下る兵士達の前に降り立った。
「止めなさい貴方達。敵は私じゃ――」
兵士達を諌める鍵乙女の言葉。しかしてそれは言い切られる前に、群集の先頭にいた兵士の振った剣に遮られる。不意打ちに驚きながらもどうにか下がって剣線を避けるアーノイス。だが、それで終わりではなかった。また別の兵士が何かの詠唱を紡ぎ、霊術を発動させる。拳大より少し大きな火球が、その兵の手から放たれ、アーノイスを狙った。甘い狙い故に軽く体を逸らすだけで避けるアーノイスであったが、すぐにそれが失態であったと気づく。背後の建物の一つに火球が命中し、その壁を破壊した。
「何が、どうなって」
無言でアーノイスへと距離を詰めてくる兵士達。躊躇なく彼女へ矢を放ち、あまつさえ後ろに常日頃から守っている筈の民の建物を破壊した。アーノイスが何を言おうと聞く耳は持たない。まるで何かに操られている幽鬼のような動きで迫る。
「これは一体何の騒ぎですか!」
そんな中、アーノイスの背後から、破壊された建物の住人なのだろう中年の男が出てきた。先ほどの火球で眼を覚ましたのだろう。見れば、その他の家々の灯りもポツポツとつき始めている。
「出てきちゃ駄目! 戻って!」
咄嗟に、アーノイスは振り向いて叫んだ。それと、ほぼ同時に、彼女の頬の横を風が通り過ぎる。ストン、と綺麗な音ともに、男性の額に埋まる一本の矢。あまりに綺麗に刺さったそれは間違いなく、彼自身が狙われたものだった。固まるアーノイスの視界で、さらに事態は動く。空を覆う暗黒の霊気が増し、その空より数本の触手のようなものが一斉に降りて、絶命し倒れつつあった男性へ食らいついた。まるで肉体というものを繋ぎとめていた全てを失ったかの如く、全身の肉という肉が溶け崩れて行き、触手が空へ帰っていく。ドクン、と空が鼓動したかのような音が響いた。
「お父……さん?」
そんな光景の向こうに、突如として少女は現れていた。恐らくは今先ほど崩壊してしまった男性の子供。寝巻き姿で布団を引き摺っているが、眼は見開いて見ている光景が何なのか理解できていない様子であった。
そんな少女にも、容赦なく、兵士は矢を番え弓を引き――轟音と共に吹き飛ばされた。五本の光りうねる閃光が、兵達の立つ石造りの床を容赦なく砕き、兵の一団を大きく吹き飛ばす。
水色の髪を振り乱し、アーノイスは兵団を睨んだ。
「何やってるのよ貴方達は……。悪いけど、皆眠ってもらうわよ。恨まないでよね!」
月の灯りすらも消えた空の下、鍵乙女は十線の閃光と共に踊り始めた。