―月影―
「それじゃあ、またね」
「ええ。姉様も、お元気で」
アヴェンシス、始祖教会の正門前。そこで、アーノイスらとペルネッテらは別れの挨拶を交わしていた。アヴェンシスへ、ダズホーンの死去とセパンタの門の破壊が伝えられて三日。本来であれば、一国の皇女たるペルネッテが未だアヴェンシスに居ることはおかしい。今、アヴェンシスはその最重要物であるはずの門を全て失い、いつ教会総本山たるここに敵が現れてもおかしくないのだ。だが、門が破壊された四日前から、アーノイスはずっと意識を失い昏倒し、ペルネッテはその看病の為にずっと残っていたのだった。オルヴスもシュウも、ここはもう危険だからとどうにか諭そうとしたのだが、ペルネッテは「姉様がこんな状態なのに自分だけ逃げるなんてことは出来ない」と言って頑なに聞かなかったのだ。そうこうしている内に日が経ち、アーノイスが目覚めたのは昨夜の事であった。それでもまだ心配だからとペルネッテは言ったのだが、それはアーノイスが諌め、どうにか今に至るというわけだ。
「もー、マジでペルっちはシスコンなんだから」
「申し訳ありませんでした。皆も巻き込んでしまって」
「済んだことはもういいだろ。とにかく行くぞ」
「兄さんは帰ったらきっと王様にお呼び出しですね」
「……うるせぇ」
来た時と同じように少し騒がしく、しかしながら一瞬、憂いの残る瞳でペルネッテは振り返り、会釈して去っていく。アーノイスは努めて笑顔で、手を振って見送った。長い階段を降り、四人の姿が見えなくなるまで、彼女は見つめる。そうして送り、完全の見えなくなってはじめて、アーノイスは笑顔を消した。そのまま、何も言わずに、服の内側からフードを取り出して目深に被って踵を返す。彼女が進もうとする先の扉はオルヴスが先んじて開け、教会の中へと戻っていた。そのまま止まることなく階段を昇り自室へと直行する。途中、すれ違った人々から声をかけられたり礼をされたりするが、彼女はフードを取らず声も上げず、会釈だけして足早にその場を去っていった。
そうして、アーノイスはアヴェンシスの中でも本当に限られた人物しか至る事の出来ない、最上階へと辿り着き、倒れる。階段を上りきったところで受身も取れずに転けてしまう彼女の体を、オルヴスは素早く抱きとめて、すぐに彼の自室のベッドへ連れて行った。オルヴスに抱えられたアーノイスの呼吸は荒い。それは決して、ここに至るまでの道筋を止まらずに来たからなどではなかった。
「大丈夫ですか、アノ」
アーノイスをベッドへ横たえ、簡易キッチンでタオルを冷やしながら、オルヴスが口を開く。アーノイスは横になったままの体勢でフードを力なく剥ぎ取り、何度か深呼吸して息を整えつつ、答えた。
「ええ……ありがとう。でもごめんなさい、ちょっとまだ……動けそうにない、わ」
ペルネッテらを見送ったアーノイスだったが、目が覚めたからと彼女に伝わった門の崩壊による負荷からすっかり回復したわけではない。ふらつき、今にも倒れそうな自分を鼓舞し、彼女は自分の妹を、今は危険となってしまったアヴェンシスから遠ざけるべく無理矢理に動いていただけだ。
オルヴスが軽く絞ったタオルをまとめ、アーノイスの額に乗せる。ひんやりとしたその感触に心地よさを覚え、少しだけ安堵のため息が漏れた。
「あの子、ちゃんと帰れるかしら」
「問題ないでしょう。シュウさんも居ましたからね。それよりもアノ、今は自分のことを心配なさってください。ここ最近の貴女の無茶には冷や冷やさせられます」
いつもより少しきつめの声で、オルヴスはアーノイスを諭す。アーノイス自身も確かにその通りだと思い、一瞬だけ口元を緩めたが、すぐに彼女は陰鬱な目で部屋の天井を眺めていた。
「ダズホーン、亡くなったんですってね」
門が崩れたと同時に教会を駆け巡った訃報。アヴェンシス教会掲剣騎士団団長の戦死は、数多くのアヴェンシスの人間に戦慄を覚えさせた。人々をフェルやその他の厄災から守るべく剣を掲げた騎士。それが掲剣騎士だ。その頂点に立っていた男が直接戦い、敗北した。その事実はどうしようもなく、人々を不安に叩き落している。
「……ええ」
「彼らは、ここにも来るわよね」
「恐らく、そう遠くないうちに現れるでしょう」
力なく、アーノイスは寝転んでいるベッドのシーツを握った。それは彼女の不安の表れなのか、もしくは怒りなのか。どうしようもなく悲痛な表情からは上手く読み取ることが出来ない。そのまま沈黙が流れた。オルヴスは自分の部屋の机をベッドの脇に運び、そこに水を溜めた洗面器と新しいタオルなどを用意し、自らも持ってきた椅子に座り、アーノイスの看病をする体勢になる。以前よりアーノイスの言っていた霊魂の声による苦痛。それを消すにはどうしても時間が必要であった。ならば今は待つしかない。教会は慌しく、兵の補填や各地への派遣に追われている。教会の最重要存在である鍵乙女と従盾騎士だが、彼女らが教会の内政に干渉することはない。全てを決めるのは審判団や騎士団長や大司祭といった役職の人間だ。何より、その存在と使命を保つのが唯一絶対の役目であるのが彼女らだ。鍵乙女が確かに健在であり、従盾騎士がそれを紛れもなく護っている。それだけで、一つの希望となるのだ。だとすれば尚のこと、二人はここより動くよりも事態を静観しながら来る時の為に備えておいた方が良い。
どれほどの時間静寂に包まれていただろう。あまりに静かで階下の喧騒も聞こえそうだという頃に、アーノイスは口を開いた。
「ねえ、チアキ……お願いがあるのだけど」
夜深きアヴェンシスに、一つのピアノの音色が響く。それは始祖教会最上層、代々従盾騎士に宛がわれた部屋からであった。
ベッドの横に置いた椅子に座り、ピアノの鍵盤だけを綺麗に削り取ったようなものを流れるような指捌きで叩くオルヴス。音が出るような機構があるようにはどうにも見えないその板から、物静かで美しい、まるで音を置いていくような旋律は流れていた。鍵盤を叩くと事でピアノと同じ音を奏でる、そういう呪印がなされた霊具である。彼が奏でるのは、いつぞやの教会でアーノイスへと聞かせた鎮魂歌であった。一時凌ぎながら、その魂を鎮める為に造られた曲は以前も、そして今も、アーノイスへ襲い掛かる声の負担を和らげていた。
「やっぱり、良い曲だわ」
昼間と同じようにベッドに横たわりながらも、アーノイスは幾分か生気を取り戻したはっきりとした声でオルヴスへ話しかける。鎮魂歌を奏でて欲しいというのが、日中に彼女の告げた頼みごとであった。オルヴスは演奏をやめず、少しだけ音量を落とし、彼女があまり声を張らなくてもいいよう心がけながら、視線をアーノイスへと向ける。
「そうだ。今度その曲私にも教えてよ。ピアノの心得は少しくらいならあるんだから」
言いながら、アーノイスは体を起こした。時間が経ったのと、曲の効果もあるのだろう。蒼白だった顔も、幾分か血色が良くなっていた。
「ええ、構いませんよ。それほど難しいものでもありませんから、きっとすぐに覚えられるでしょう」
小さな約束を交わして、二人は少しだけ笑う。アーノイスは、迫り来る息災から逃れるように、オルヴスは、それすらもを包むように。
鎮魂歌が、最後の一節に辿り着く。昼間から、時折眠りながらもずっと聞いていた曲が、一度終わる。その節をアーノイスもわかっていた。今まさに辿り着かんとしている終焉へ、向かう音色。これまでそこからずっと冒頭に戻り繰り返されていた曲が、還らずに続く。最後の音がまるで落ちるように響き渡った。
「……それじゃあ、行きましょうか」
曲の余韻が完全に失せると、ベッドから降り立ち上がって、アーノイスは窓の外の月を見つめた。夜空には、雲ひとつない白い輝きを放つ満月が、悠々と浮かんでいる。
「ええ。参りましょう」
鍵盤をテーブルに置いたチアキもまた、アーノイスの横に並びたって、白月を眺めた。その、遥か彼方の上空の真白い円月に僅か見える、二つの影を捉えながら。