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白月に涙叫を  作者: 弐村 葉月
九章 亡霊と復讐
133/168

―レーナ―

長い長い、大理石の廊下。幅広く、中央に引かれた緑のカーペットも何処まで続いているのかわからないほどに大きな廊下を、一人の少年が息を切らして走っていた。時折すれ違う女中や使用人が彼に坊ちゃんと声をかけて諌めるが、気にも留めていない様子だった。少年の表情は何処か晴れやかで、息巻いて走っている事さえも喜んでいるようであった。それもその筈、彼が今向かっているのは彼の敬愛する一回りも年の離れた姉のところだからだ。世界に一人だけ選ばれる、世界へ平穏と救済をもたらす存在、鍵乙女に選ばれた、姉。優しく、時に厳しい彼女は、鍵乙女となったが為に一年のうち一時期帰ってくれば良い方であった。それが、突然、弟たる彼に何の事前連絡もなく帰還したのだ。驚きもあったが、それ以上の嬉しさで他の事を考える頭を、少年に求めるというのは酷なところだろう。


「姉上!」


永遠に続くかに思われた廊下を、突然少年は止まって、殆ど飛び込むように一つの部屋へ入っていく。そこには、お気に入りの椅子に腰掛け、柔らかな瞳を来訪者に向けている姉の姿がある。筈であった。

ぴちゃん。少年が部屋の中へと踏み込んだ瞬間、そんな音がしていた。誤って水溜りに足を踏み込んでしまったかのような。室内にそんなものがあるわけはない。あるわけはないが、事実、そこには水溜りが、いや、室内全体が水浸しになっていた。ただし、正確に言うならばそれは水ではなく、もっと粘り気があって、もっと濃く、もっと重いものであったが。


「あら、クオンじゃない」


部屋中を隙間なく、その重い水で赤色に彩られた世界の中に、少年の姉は居た。いつものように優しい声で、彼の名を呼ぶその女性の姿は、白くそして赤い。千切れたボロ布の纏わりつく裸体で、女は立っていた。赤く染まった布と、白い肌と、それに刻まれた赤黒い、少年にはなんだかわからない刻印、光のない瞳、振り乱れ所々赤に染まった元は緑だった髪。それが彼女の全てであった。少年が思い描いていた、優しい映像なぞ何処にもない。全てが血煙にかき消されていた。


「姉、上……?」


「え? なぁに聞こえないわクオン。あ。ああもう、また? またなの?」


何事かぶつぶつと呟き、女は自らの腕、取り分け赤黒い刻印のある場所へ爪立て、そのまま引き千切った。掻いたなどと生易しいものではない。爪が肉を削ぎ、また肉に爪が割れて、床へと肉片と鮮血が散っていく。とは言っても、もはや認識できるような部屋の状況ではなかったが。それでも皮膚はおろか肉までを削ぎ、骨が覗いている。少年はもう、驚きを通り越し何も言えずまた一歩も動けなかった。己の姉が一体何をしているのか、見えてはいるが全くわからない。そうこうしてる間にも、彼女はまた別の場所、今度は己の胸元に両手を当てて己の体を削りとっていた。


「ああっ! うるさい! うるさいのよ貴方たちは!」


そうしながら、彼女は何処へともなく叫んでいた。少年のほうを見ているわけではなく、絶えず己の全周囲に向けて首をめぐらせている。そこに、何がいるわけでもないのに。

そうしてる合間に、彼女が自ら削った体の部位に、ある筈のなに烙印の光が生まれ、その部分を元通りにしていく。それをまた鬱陶しそうに、彼女は自分自身を傷つけ始めた。治っては壊れ、壊れては治りを繰り返す。それを繰り返すうちに、彼女の表情が険しく、狂気を帯びていく。


「ああ、ああ……あああああああぁああああああぁあぁ!」


終ぞ、女は躊躇無く、全くの減速なく、叫びながら頭を床に叩きつけて座り込んだ。彼女自身の血の海が波打ち、飛び散る。


「あ、姉上!」


狂行を収めた姉の下へ、少年は駆け寄った。どうしたらいいのかは本人もわからなかったが、それでもこのままにはしておけない、と。そう姉の肩に手を触れようとして、彼は彼女に近づけなかった。少しだけ、地に足が届かない程度の高さに、突如として持ち上げられる少年。その首にかかる、血に塗れた、女の両手。


「そんなに生きたいなら、勝手にすればいいじゃない」


ぎりぎりと、少年の首を絞める女の手に力が篭っていく。少年はどうにか、その手から逃れようと女の手首を掴むが、全く意味をなさない。声を出そうにも、空気が通らず掠れた音しか出せなかった。女の瞳に、今まさに迫る死に恐怖し逃れようとする弟の姿は、映っていない。光を失った瞳にはもはや、何に向けられたのかもわからない憎悪しかなかった。自身の鮮血に染まった顔、唇から怨嗟の声が漏れ始める。


「生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたいって、うるさいのよ。そんなに生きたいんだったら勝手にしなさいな。私はね、もう」


女の口元が、笑みをかたどる。決してそれは喜びでも嬉しさから来るものでもなかった。何にに大してのものだったのかなど、彼女以外にはわかるはずもない。だがその笑顔が、少年の見た最期の姉の顔であった。


「死にたい」


呪詛の如く、地の底から響くような声に、少年には聞こえた。と、同時。女の全身の烙印が一瞬、光った。

少年の体が、血の海の上に放り出される。やっと戻った空気に咳き込む少年の上から、生暖かくどうしようもなく重く大きい雨粒が降り注いでいた。それは、人の形から崩壊した女の欠片。半ば液状化した、人の体として今の今までそこにあった筈のもの。それが、人の死であったと、少年には長らく、理解することが出来なかった。




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