―主義―
「だーもー、何で俺がこんなん書かなきゃなんねーんだよ」
「黙って手を動かせ。報告書は騎士の義務だ。特にお前は特例扱いんだから、当然だろう」
「だからってよー……」
教会内、掲剣騎士隊舎。修練場と隣接して作られているそれは、アヴェンシス内に家を持たぬ掲剣騎士の為に用意された施設である。その一室に、グリムとメルシアは居た。部屋はティレド家の物で、主にグリムとその父アバンの住居であるが、今はアバンは司祭としての仕事で教会の方へ出ているので、家には彼ら二人しかいない。といっても遊んだりしてるわけではなく、グリムが机に向かって、積み上げられた書類に目を通したり何かを書き込んだりして、その書類たちの横にメルシアが座ってグリムの監視役をしている状況だ。男所帯というわけで、特に華美なものも見当たらないが、それでいて妙に片付いているのは恐らく、この家の住人たる二人がなかなか帰ってこないからだろう。グリムは言わずもがな、一年の大半をアヴェンシスの外で過ごしているし、アバンもまた司祭の仕事で家に戻らず朝を迎えることも多々ある。帰ってきてたとしても寝るだけであるので、三部屋ある部屋の内、それぞれの寝室ぐらいにしか生活感はなかった。殆ど帰らないグリムの寝室の寝具が整っているのは、親心というところだろうか。それにしても、キッチンはまるで使われた形跡がないように綺麗で。今彼らが使っている食卓テーブルといすも少し誇りを被っていたのが、生活感のなさに拍車をかけていた。
そんな室内を見回しながら、メルシアはどこか懐かしむような視線のまま、口を開いた。
「そういえば久しぶりだな。こうしてお前の家に来ることも」
「そうだったか? まあ、俺も自分の家に居るのが違和感なくらいには久しぶりな気もするが」
メルシアの言葉に、書類を書く手は止めずに言葉だけで返事するグリム。ようやくまじめに書類仕事をする気になったらしい彼の姿を見て、メルシアは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな、母か姉かのような優しい目になった。またグリムがそれに気づくでもなく書類にペンを走らせているのを、満足げに。
「しっかし、相変わらず汚い字だなー」
「うっせぇな! 慣れてねぇんだから仕方ねぇだろ!」
じゃれ合うように口論をしながら、過ごす二人の日常。端から見てよく飽きないなと思われているのだが、それが彼らにとっての普通だった。
そんな会話が、不意に途切れる。どちらともなく、声に出すことをやめ、浮かべていた笑みが消え失せる。どちらが何をしたわけでもない。ただ突然に、二人ともが凍ったが如くあらゆる動きを止めていた。完全なる停止、しかしてそれは、刹那と待たずに破られた。響き渡る、激しく切り結んだ一合の金属音。先ほどまでとほぼ変わらない体勢のまま、グリムの紅槍とメルシアの百節棍の牙が彼らの間の中空でかち合っている。見事に×印を描いたその間に、桃色の頭が、二つの武器の刃に触れないギリギリの場所に浮かんでいた。
「ふ、ふおぉ……死ぬかと思イング」
その人物は何の前触れもなく、グリムとメルシアの間に割って入っていた。扉が開けられた様子も、窓が破られた様子もない。ただそこに、ミッツァは現れていた。
「いつもながら、どうしようもなく常識外の現れ方だな。ミッツァ」
「あ? んだよ、知り合いかよ」
闖入者がメルシアの知り合いだと知るや、グリムは興味なさそうに槍をしまい、デスクワークに戻る。メルシアも百節棍を霊陣に戻して、冷たい目でミッツァを睨んだ。それはグリムとの一時を大いに邪魔された事に対する憎悪の視線なのだが、当の本人はそれにも、今さっきまで命の危険にさらされていた事もケロッと忘れたようで、床に座り込んでメルシアの視線を笑って受け止める。
「いやー、怖い怖い。相変わらずメルるん怖イング。前に会ったのは百年くらい前のだったっけ?」
「さあな。いちいち記憶していられるか」
旧知仲らしい二人は、ミッツァは取り分け友好的に、メルシアは冷たく突き放すように視線を向けずに冷淡な言葉だけを返す会話をはじめた。グリムにもまた否応無しに会話が聞こえ「百年前」のくだりで一瞬耳を疑ったが、メルシア自身の年齢を思い出して大したことではないと思い直し、再び筆を走らせる。
「百年経っても、ミッツァへの対応とか冷たいよねー、メルるんは」
「用件はなんだミッツァ。同族の返り討ちにでもきたか」
何でもないような雑談の雰囲気の中に、似つかわしくない単語を聞いたグリムがペンを置き、二人へと向き直った。
相変わらず、ミッツァはへらへらと笑っているし、メルシアはそちらを見ようともせずに虚空へ視線を向けてどこも見ていない。だが、それをまた気にもせず、ミッツァは喋る。
「虚ろな悪夢の先導者は姉さんだけど、そんな事ミッツァには関係なイング。夜はいずれ明けるもの。夢は所詮覚めるもの。夜と夢を名乗った姉さんに未来はなかったのです」
エトアールの亡霊と呼ばれ、今尚教会の頭を悩ませている襲撃者達。ナツと名乗る吸血鬼の女はその一人で、先のアングァスト会戦でメルシアが討ち取った者であった。そのナツをミッツァは姉と呼んだが、仇たるメルシアを前にして少しの怨恨も滲ませず、むしろどうでもいいといった感じの態度である。薄情な奴だとグリムは見ていたが、メルシアはそれすらもどうでもいいようだった。
「そうか。やはり、お前は吸血鬼らしいよ。ミッツァ」
「当然なのです。執着は吸血鬼の本能に反するのです」
吸血鬼とは、生まれながらの享楽主義者だ。この世に生を受けた瞬間から、死ぬそのときまで、己の楽しみのためだけに生きる。人のように我慢をする事や自己犠牲など持っての他である。その点はメルシアも知っており、だからこそナツの行動には疑問を覚えていたのも確かだ。戦場に舞い降り、相手側の中心戦力と戦闘する。そんな状況になれば、いやそんな状況になるよりも前に、普通の吸血鬼ならその場から逃げているだろう。戦いを快楽だと思う者ならば別であろうが、それならそれで、最初に出会った時に最後まで戦う筈だ。とすれば、アングァスト会戦に置いてナツがその身滅ぶまで戦ったのは、紛れも無く、自身の享楽の為だけではない。その点で、彼女は吸血鬼よりも人間の思考に近かったのかもしれない。だからといって、どうという事もないのだが。
と、そんな思考をさえぎるように、家の扉がノックされた。応対に出ようとしたグリムを制し、メルシアが変わりに出て行く。扉を開ければ、そこには一人の掲剣騎士が立っていた。グリムかアバンが出てくると思っていたのだろう、兵士の視線が一瞬空を切り、見回してから足元の金髪の童女の存在気づく。それが巫女メルシアである事がわかるや否や膝を着き、そして何事か述べてすぐに去って行った。扉が閉められるのをメルシアは押さえ、そのまま少し声を張り上げた。
「行くぞグリム。ダズホーンが呼んでる」
「えーお仕事ー? せっかくロロハルロントのアイドルミッツァちゃんが遊び着たのにー」
ばたばたと不平を述べるミッツァ。さしものグリムも、メルシアと百年前に会っているほどの年齢の人物が、床で手足をばたつかせている姿には何も言えないのか、そそくさと玄関へ向かっていく。
「お前はとっとと国に帰れ。鍵は閉めていくから来た時と同じように帰れ。いいな」
まだ不満を言うミッツァを置いて、メルシアは扉を閉め、グリムと共にダズホーンの元へと向かっていった。