―来客―
「――待った!」
「またですか……もう五回目ですよ」
始祖教会最上層、従盾騎士の部屋。黒を基調とした質素なその室内。これまた黒塗りの椅子に向かい合って座り、オルヴスとグリムは卓上の盤に向かっていた。チェスだ。しかし、誰がどうみても、グリム側の白い駒の残数が少ない。残るはキング、クイーン一、ナイト二にポーンが四つとなんとも侘しい事この上ない。対するオルヴスの駒はナイト一とクイーン一、ポーン三つだけが欠けた状態だ。クイーンがないとはいえ、オルヴスの数の勝利は揺るぎようがないだろう。その上、グリムのクイーンは敵陣中央に突貫しており、黒のキングを狙えそうだが、同時にいつ取られてもおかしくない状態だ。
「かーっ、なんでクイーン最強なのにポーン一体に止められるんだおかしいだろ」
赤髪の頭を掻きむしり、グリムが唸る。そんな事を言ってはゲームが成り立たないではないか、とオルヴスが苦笑する。
「まあゲームですからねぇ。待ちますから、次の手を考えてくださいよ」
チェックメイトの位置に動かそうとしていたナイトを、オルヴスが避けて別の駒を動かした。奇しくもそれはグリムのクイーンを狙ったものだ。右前方向に立つビショップ。グリムのクイーンの前と左右にはポーンがあり、その後ろにはルークが控えている。前に進めばルークに取られ、動かなければビショップに。斜め前に進もうにも盤上ギリギリですぐに囲まれてしまう。
「おいおい……これじゃ下がるしかねーじゃねーか」
「さあ、どうでしょう」
またも唸るグリムに少々意地悪い言葉をかける。そんな中、部屋の扉がノックされる音が響いた。グリムは未だうんうん言っているが、オルヴスには大層余裕がある。まあ、ノックして入ってくる、それもこの最上層に来れる人物となれば、誰かは明白であるのだが、オルヴスは扉に向かって丁寧にどうぞ、と言った。
「お邪魔します……ってあれ? グリム? 珍しいわね」
オルヴスの予想通り、やってきたのはアーノイスであった。旅の時とは違い、鍵乙女の正装である白いドレスを身につけている。
鍵乙女と従盾騎士は一年の四分の三程を使って五つの門を巡り、アヴェンシスへと戻って、休息を取り、また儀式へ向かうのだ。レラの門が消失し、旅の期間が短くなったが、門の解放のサイクルは変わらない。乱す事は出来ないのだ。しかしながら今現在セパンタ以外の門が消失しまっている。門の再生の法はまだ見つかっておらず、またエトアールの事もあり、今回の休息がいつまで続くかはわからないという状況である。
「ああ、それはですね……」
グリムという客がオルヴスの部屋にいるのは珍しいと、目を丸くするアーノイスの視線が、オルヴスが指さす方向へと誘導される。そこにあったのは窓。いや、窓だったもの。枠組みも硝子もなく、ただの四角い穴と化している。
「突然グリムがそこから飛び込んできてですね」
「だってよー、あの糞親父が書類書類うるせーんだもんよー」
やれやれと言った様子のオルヴスと、疲れた声を上げるグリムを視てアーノイスは納得したように頷いた。グリムは父親である大司祭アバンと仲が悪い。悪いと言うか犬猿の仲というか。ここの所旅に出ていたので忘れていたが、以前アーノイスがオルヴスの部屋を訪れていた時も、「匿ってくれ!」と窓をぶち破って参上したことがあったな、と思い出す。その時は部屋に居てもなんだから、と二人で修練場に行った筈だったが。
「それで、チェスなの?」
オルヴスはまだしもグリムがこういう頭を使ったゲームをするのもまた珍しい。そう言っては失礼かもしれないが。
「あー……最初は訓練してたんだぜ? でもよう熱が入っちまって、修練場をメルシアの術ごとぶっ壊しちゃってよ」
「メルシアさんは自室に籠って仕事をなさっているようですので、報告は後にすることに……」
グリムはあっけらかんとして言うが、オルヴスはどうにも心苦しそうだ。メルシアは現在、門を修復する為の術を探しているのだという。それに余計な仕事を増やしてしまったことになる。
「でもメルシアの仕事は手伝えないしね……私は烙印術しかわからないし」
「僕も霊呪術は使えませんしね」
「ぶっちゃけあいつの研究は邪魔しちゃ悪いと、俺でも思うくらいにゃ意味不明だからな。なんつーの? 亀の甲より年の功ってのを実感するぜ」
「ほう。で?」
そそくさと、オルヴスが席を立ち、椅子をアーノイスへ渡す。アーノイスは無言で会釈の礼を述べて腰かけ、オルヴスは簡易キッチンの方へ向かってお茶を注ぎ始めた。グリムだけが、周囲の様子に気づかず、盤上とにらめっこしている。
「まあでもそのおかげでここに追って来る奴がこなくてサボってられるんだけどな!」
晴れ晴れとした笑顔で、盤上から顔を上げるグリム。だが、そこにオルヴスの姿はなく、宙に浮かんだ金髪の童女が、卓に両腕の頬杖を着いて微笑んでいる姿が映った。
「ふふーん。来ちゃった」
「は……あれ?」
言葉も表情もにこやかだが、グリムには確かに見えた。彼女のその小さいの背に、鎌首をもたげた百節棍が、その牙を鳴らしている姿が。
「さあ行こうかグリム。誰が、年だって? その辺りを詳しく聞かせてもらおうじゃないか」
瞬時に纏霊し、来る時に通った窓へ飛び出そうとするグリム。だが、体の半分が外へ出かかった所で、彼の体に百節棍が絡みつき、捉えた。
「ちょっ、待っ! は、話せば、話せばわかる!」
もがくグリムを無視し、笑顔のままでメルシアがアーノイスの方へ振り返り、口を開く。
「そうだアーノイス。お前の妹が来てるみたいだぞ。礼拝堂で待ってるそうだ。行ってやれ。それじゃあな」
言うだけ言って、メルシアが転移する。無論、グリムもグリムも捕まえた百節棍も共に。突如として嵐の如く過ぎ去って行った事態に茫然とするアーノイス。数十秒の後、オルヴスがその目の前に紅茶のカップを指しだした所で、ようやく意識を取り戻した。
「所でアノ。もう体調はよろしいのですか?」
卓上の勝負がつかなかった――殆ど終わっていたようなものだが――チェスの盤を片付けてながらオルヴスが問う。アーノイスはそれに笑って答えた。
「大丈夫よ。心配性ねチアキは。一週間ずっとそれ聞いてるわよ」
言って、彼女は紅茶を口元へ運ぶ。
アングァスト会戦の際に壊されたコルストの門。そこから強制的に流された霊魂の声による苦痛は、いとも簡単にアーノイスの意識を奪い、また続くマイラ、ヘイズの破壊がそれを加速させた。結果、彼女が目覚めたのは戦争が終わり、アヴェンシスに戻ってから三週間程が過ぎてからの事だった。そして目覚めてから今日で一週間が過ぎた。その間、彼女は普段通りにしているが、元々心配性なチアキが彼女の容態を聴くのも、いたしかたないと言えるだろう。
紅茶を飲み干し、流しに持って行きながら、アーノイスは口を開く。
「そろそろ行きましょうか。あんまり待たせるのも悪いから」
「ええ。わかりました」
お茶の片付けを軽く済まし、二人は部屋を出て、ペルネらの待つ礼拝堂へと向かっていった。