―天馬―
光が、ぶつかる。空中より流星の如く落ちる天馬とその騎手と、糸の如く細い五本の、うねる光。五本の線はそれぞれ重ならぬよう、互い違いになりながら流星へと向かっていく。流星は、その一本一本を掻い潜るが、最後の一本が掠り、突進を止められた。本来であれば、そんな強度の欠片もなさそうな、触れたとしてもなんら抵抗になりそうにない糸であるが、その実それは天馬の突撃を一方的に弾き飛ばしていた。そうして生まれた隙にさらに別の五束の閃が天馬へ襲いかかるが、天馬は身を翻して逃れて距離を離す。
「くっ……はぁ、はっ!」
息荒く、アーノイスが膝に両手をつく。激しい動きに乱れた水色の髪の先にも、汗が滴り、もはや動くのも体力的に辛そうであった。それもその筈、今日一日の間に彼女は数度烙印術を使っているのだ。一つでも、以前であればしばらくはまともに動けないほどの反動を伴う術を、数度。さらには今こうしてクルスが飛来する速度に対応する為の力も、元を辿れば烙印術の応用。そして戦う為に編み出した光糸も、他のもの比べればマシとはいえ烙印術である。もはや倒れてもおかしくなかった。その証拠に、彼女の体に刻まれた烙印は仄かに光、傷みを打ち込んでくる。だとしても、アーノイスはここで倒れるわけには行かなかった。自分が倒れてしまえば、今アングァストの麓に居る人々が、もっと死んでしまう。戦いには関わらず、ただ日々を生きているコルストの人々だって殺されてしまうかもしれない。それだけは、アーノイスは許せなかった。
「辛そうだな鍵乙女殿」
謁見の間の高い天井の際を、優雅に舞うクルスがそう口にする。その姿を見上げ、アーノイスは苦笑した。
「ええ、そうね。体は痛いし、貴方達は速いし……戦うのは怖いし、最悪よ」
吐き捨てるように弱音を吐き、一息に体を起こす。目眩に襲われふらつきそうになるのを、無理矢理に堪え、頭上のクルスそしてココを見つめた。
「ならばコルストなりアヴェンシスなりに戻れば良かろう。逃げると言っても我らは追わぬ」
「うん。追わないよ」
そんな慈悲なのか嘲笑なのかわからないクルスとココの言葉を、一笑に伏すアーノイス。
「そんな事するくらいなら、最初からここには来ないわ」
最悪。今の状況をそう評したのは間違いではない。本当ならば彼らの言う通り一目散にでも逃げ出したい気分だった。だが、それは出来ない。
「傷つくのは痛いし、死ぬのは怖いけど……何も出来ないのが、一番辛いから」
かつて、ツバリ湖でフェルと対峙した時、彼女は逃げる事しか出来なかった。その結果、友となれるかもしれなかった、心優しき人魚の少女を失った。かつて、恩人であった少年が父の手にかかった時、彼女はその燃え盛る彼の家の前で、泣き叫ぶ事しか出来なかった。
「ここに来る途中で、ノラルの兵士とその家族を見たわ。誰だって、それこそ大切な何かを守る為に戦う事を選んだ人だって……死を選んだわけじゃない。帰りたい、帰らなきゃいけない場所があるの。それが今、脅かされてる。たった数人の人たちに踊らされて。そんなの」
アーノイスの藤色の眼が、天馬とその騎手を映す。確固たる意志を宿した瞳は真っ直ぐに、一人と一匹を射抜く。
「許せるわけないじゃない」
水色の髪がたなびく。風は、彼女自身から巻き起こっていた。手の先から伸びる五本の光の糸が揺らめく。世界にたった一人、世界を安寧に導く為にと願われ刻まれた烙印がが、輝いた。
「どうあっても、戦うのだな」
クルスの問いに、アーノイスは首肯のみで答えた。戦いたいわけではない。だが、彼らは彼女の言葉を聞き入れてはくれなかった。何処に居るともわからない、元凶たるエトアールの亡霊を探すよりも、ここで彼女らを下した方が戦いを早く止める事が出来る。状況は一刻を争うのだ。たった一人でもいい。死に行く人がいないように。
そんな彼女の意志に応えるように、ココの馬上槍がアーノイスへ向けられる。それまで殆ど表情の変化を見せなかったココが、険しく冷たい顔へと変貌した。
「私はノラル=ボウ=ココ。ノラル王ルギフの妃にして、ノラル軍幻獣部隊が長。我が国に、我が主の意向に背く者あらば、その全てを光へと還さん」
口上を述べると同時、ココは霊力を解放した。クルスと同じ、浅葱色の光が彼女の全身を覆う。
「行くよ。アーノイス」
クルスが主に応えて嘶き、ココが槍を構える。これまでで最も力強い、羽ばたきの音が響く。――来る。そう身構えたアーノイスに捉えられたのは、そこまでだった。
彼女の世界が暗転する。気付けば体は宙へと跳ね飛ばされていた。遅れて、右肩に強い衝撃と激痛。肩が吹き飛ばされてしまったんじゃないか、と思う程の。事実、その部分の衣服は消失し、肉が吹き飛ばされ骨が剥き出しになっていた。あまりの痛みに叫びそうになるのを必死に堪え、アーノイスは歯を食いしばり、現在のココの位置を霊覚にて見つける。それは、宙舞う彼女の真下。この体勢で今の攻撃を喰らえば死ぬ。霊翔で体をココらの方へと向き直し、光糸を振るった。だが、右は動かない。動かそうとした所で、痛みが邪魔をして止まってしまった。それを、真下から登る流星が撃ち抜く。
次なる衝撃は腹部。全く、動きが見えなかった。肩の傷を見る限りは、星となり突撃するクルスに乗るココの、馬上槍による一撃であろう。単純な突進。だが、それは、速過ぎた。一撃をもらい、命の危機を感じたアーノイスの本能が、烙印術を発動させたおかげか、二発目による外傷はない。しかし、強引に体の向きと位置は変えられ、また術の反動が、アーノイスの体を蝕んでいく。しかし、ココの攻撃の手は止まない。全方位から、光の如き速さで襲いかかる、白き死の流れ星。二撃目の際、確かに当たった攻撃が無効化されている事に気付いたのだろう。攻勢は留まる事を知らず、幾度もアーノイスの体を嬲って行く。その攻撃を受け、烙印がその力を全て“閉じる”度に、アーノイスの体は悲鳴を上げていた。全身から、流れ行く血。彼女の霊覚の外側で続く、ココの攻撃にアーノイスは為すすべなく、また腹部へと衝撃を受けた。だが、それまで通り過ぎるだけだったこれまでとは違い、そのまま、流星がアーノイスを連れ去り、謁見の間の天井、王宮の最上階までを貫いて空へと飛び出した。為すなく直撃を受けたアーノイスの体が重力に従い落下し、壊れた王宮の謁見の間の床に叩きつけられた。落ちた彼女を負い、クルスもまた王宮の中へと舞い戻る。
「っ……ごほっ、ごほっ!」
うつ伏せに床へ叩きつけられたままの格好で、アーノイスが咳き込む。ココの攻撃は初撃以外全て烙印の力が受け止めていた。しかし、それの代償は大きい。もはや、アーノイスの来ていた白い衣装は見る影もなく鮮血に染まり、白磁の肌であった顔も、血塗れだ。鼻から耳から眼から口から、血が流れて彼女の顔を汚している。全身も烙印の痛みに苛まれ、取り分け初撃をまともに喰らってしまった右の腕は全く動かない。だが、彼女は残った三肢で立ち上がった。その動きはあまりに遅く、そして無様なものであったが。
血に濡れ、痛みに遠退きそうになる意識のせいで、見辛い視界でどうにか、天井に空いた穴より降りてくる天馬の姿を捉えた。
「驚いた。これでもまだ息があるとは」
「死なない、わよ……死にたくない……ものっ」
息をする度に焼けつくように痛む喉から、掠れた声を出すアーノイス。
「でも貴女達が、この戦争を止めないっていうなら、退くわけには……いかないっ」
「無理よ。アーノイス」
そんな彼女に、ココは冷徹に言葉を下す。
「貴女に見切れているのはクルスの羽音くらい」
「我が翼は光を越える。貴殿には到底捉えられん」
「それでもっ!」
力を振り絞るように、アーノイスは声を張り上げた。痛みに臆しそうになる己を叱咤し、力の入る限り、左手を握り締めて。
「……ココも、戦いは好きじゃない。でも、ルギフが戦うって決めた」
「見ず知らずの、多くの者の為に立ち上がるその姿勢は、崇敬に値する。だが、我らも負けるわけにはいかぬ」
ココとクルスの霊気が高まり、一つの星の如き光を放つ。
また、自分は何も出来ないのか。そう、アーノイスは憤った。何の為に、戦う為の力を身につけたのだろう、と開いた左手指の先に垂れる五本の光糸を見つめる。ここで、彼女らを止められなくて、一体何の為の力だというのか。何一つ、自分は強くなっていない。まだ何一つ、護る事は出来ないのか。
アーノイスは、“死”が魂にもたらす苦痛をよく知っていた。これまで何千、何万という「死」した魂の「声」を聴いてきたのだ。彼らの声は総じて冷たく、怨嗟に満ちて、そして醜いまでに助けを求めるのだから。これから、また、今も尚、そうやって堕ちて行く魂が増える。その失われた魂を嘆く人々がいる。己のように。
「駄目よ、そんなの」
そんな事は許さない。絶対に。許せる筈が、ない。
「去らばだ、心優しき鍵乙女よ!」
天馬の声が響き渡る。その身を包む光が強烈に煌めく。しかし、アーノイスは退かない。自分の後ろには、幾つもの命があるのだから。それを護る為に、彼女は叫んだ。
「開けぇぇぇぇぇえええ!!」
烙印が、煌めく。その輝きが世界を包み込んだ。あまりの光量に、天馬は動けずにいた。ココもまた視界を、霊覚さえも覆い尽くす光の前に、茫然とする。そして、徐々に収束していく光の果てに、一人の天使の姿を見た。
真白き、翼の生えた人型。天馬のその体躯よりも、汚れの一切ない深雪よりも、太陽よりも月よりも白き、その姿。そこに、血に塗れた少女の姿はなかった。
「――――――――――――」
「なんだ、これは……」
その登場とともに、何処からともなく、“声”が響いてくるのをクルスは聴いていた。人でも鳥でも虫でもない。透き通るような、言語ではない声が彼の耳には届いていた。
「唄……?」
空から大地から、あらゆる場所から伝わる、歌声。
「何?」
ココもまた、自分の耳に聞こえてくるその音の正体を探ろうと、耳を澄ますが、そうすればするほど唄は全周囲より聞こえてくる。まるで世界が唄っているかのように。
そんな中、アーノイスの左手がゆっくりと動くのをクルスとココは見た。はっきりと視覚で確認できる程度の速度で彼女らへ向けられるその手。だが。その先をココ達は全く感じ取る事が出来なかった。落ちる。そんな事すら思う時間すらなく、一人と一匹は床へと叩きつけられていた。見れば、アーノイスの左腕は振り下ろされた格好になっている。五本の光糸にはたき落とされたのだと、理解は出来るが確かではない。わけがわからないまま、体を起こそうとするココだったが、そこで気付く。自らの四肢が全く動かない事に。巻きつく五本の光の糸が、その動きを完全に御しているのだった。
「動かないで」
先程とは全く違う、力の籠った声でアーノイスは言った。
「その、姿は一体」
ココは抵抗を止め、アーノイスの、背に生えた翼と純白に変わった頭髪を指して問う。だが、答えは返ってこなかった。轟音が響き渡る。ココと違い、動きまでは止められていなかったクルスが、流星となってアーノイスへ突撃していたのだった。
「クルス!」
ココが叫ぶ。だが、クルスの体はアーノイスに辿りついてはいなかった。それどころか、何か見えない壁に阻まれるように、アーノイスから一メートル程離れた場所で押しとどめられている。
「止めてクルス。私は、もう戦いたくない」
「我が主を離してもらおう。鍵乙女」
「貴方達が、もう戦わないというなら」
血走る野獣の瞳と、哀しげな乙女の瞳が交差する。クルスの纏う光の出力がさらに増す。だが、一寸も進む事は出来ない。それでも、クルスはアーノイスへ向かうのを止めなかった。
「鍵乙女よ。貴殿は分かっていない。今、鍵乙女アーノイスは、ノラルの姫君とその従僕と戦っているのではない。アヴェンシスとして、ノラルと、戦っているのだ。今、霊峰の麓でその二つが殺し合っているのと同じように」
クルスの羽が散って行く。一つ、また一つと。自分自身ですら耐えられない力が、自らの体を傷つけていた。
「もう一つ。この戦は今になってはじまったものではない。いずれは、こうしてぶつかりあう時があった。必然なのだ。真にこの戦いを止める覚悟があるのならば、より多くの命を救う覚悟があるのなら。我らを、殺さなければならんのだよ」
体躯から、鮮血を飛ばすクルス。
「……そう。なら――」
アーノイスは歯を食いしばった。天馬は、止まろうとはしてくれない。悔しいのか、哀しいのか。アーノイスは、泣いていた。その顔を覆い隠すかの如く、両翼が折り重なる。そして。
「次に会う時は、その背中に乗せてくれるかしら?」
「考えておこう」
翼の内から、アーノイスは問う。それに応えたクルスの声音は、何処か満足げに聞こえた。翼が一振りにはためき開く。同時、クルスの光が消滅する。
二人の後方にて倒れていたココは見た。何十、何百という光糸が、その翼の動きと共に閃くのを。世界が、崩れ行く。数えるのが不可能な程に、謁見の間その上階全てが細切れに断裂した。完全に静止していたクルスの体もまた、同様に。
「クル、ス……」
愛馬の名を呼ぶココ。だが、もはや届かないであろう。
アーノイスの姿が光に包まれて、頭髪は元の水色に、翼は光と共に消えて行った。ただ一つ、その頬を走る涙だけはそのままに。
「もう、止めましょう。ココ」
アーノイスは、震える涙声で言った。クルスは、“我らを”殺さなければならないと言った。それには勿論彼の主たるココも含まれているのだろう。その意味も、アーノイスはわかっていた。だが、その上でも、やはり彼女は戦いたくない、とココへ告げたのだ。戒めの解けたココが立ち上がる。一瞬、槍の柄を強く握り締め、振り翳そうとして、止めた。
「ルギフを、待つ」
それだけ言って、彼女は崩れ落ちるように座り込んだ。