―印―
「えーっと、どうしよう」
クオン、ユレア兄妹の家の浴室。その脱衣場で、アーノイスは一人途方に暮れていた。
ユレアはというと、「おねえちゃん早く来てねー!」といつの間にやら服を脱ぎ捨て、早々に浴室へと消えてしまった。
アーノイスも了承はしたものの、ある事情により未だ衣服を脱げずにいる。
彼女は元々れっきとした皇族であり、着替えや風呂に至るまで世話役が側に居た事もあって、同性の前で裸になる事が別段恥ずかしい事ではない。それも相手は自分より一回り以上年下の少女である。これが少年であればオルヴスに任せた所なのだが、そうするわけにもいかず、流されるままに承諾してしまったのだ。
「ふぅ……仕方ない、わよね」
一呼吸吐き、身に纏っていたワンピースをはだける。純潔の真白い肌が顕わになる、と同時。その白い腕、足、身体に絡み付く赤黒い「紋様」が認識出来た。
これが、彼女が躊躇っていた理由。鍵乙女の烙印。門を開く為の鍵そのもの。通称「世鍵」。世界のあらゆるものの開閉を自在とするその力は、神が与えし力だと言われている。過去の文献などにも烙印の紋様は確認されておらず、また知っていたとしても通常の霊呪術のように操る事が出来た人間は皆無で、何の力も発揮しないただの模様にしかならないのだ。
アーノイスがこの烙印がされた裸体を人目に晒すのはこれが三度目。
一度目は、幼いある日、突如この烙印がなされた時に妹と母に。二度目は、教会の“巫女”に鍵乙女であるという照明をする為に。そして、今。
考え過ぎと言えばそうかもしれないが、それでも、彼女はこの身体を他人の眼に晒す事に抵抗があった。紋様は美しくも禍々しさも内包している形、色。
世界には己に霊呪術をかけ、力とする術もあると聞くが、そんな人間は彼女の知る限り一人だけで、その人物も今は彼女の心の中にしかいない。
「君は、どんな気持ちだったのかしらね。チアキ……」
最後にそう呟いて、アーノイスは浴室へと入っていった。
「おねーちゃん遅いよー!」
既に浴槽に浸かっていたユレアが膨れた顔をする。
「ごめんごめん。そーだユレアちゃん、こっちおいで。おねーちゃんが髪、洗ってあげる」
椅子を前に出し、ユレアを誘うアーノイス。少女はすぐに笑顔でその椅子に座った。
「シャンプーは、これね」
手にシャンプーをつけ、ユレアの髪を優しく洗い始める。
「ふーんふふーん」
鼻歌を歌いながら、上機嫌に足を踊られるユレア。
「私ね、妹が居て、ペルネっていうんだけど、昔はこうしてよく髪の洗いっこしたのよ」
懐かしそうに目を細めながら手を動かす。
「鍵乙女さまの妹かぁ、どんな人なの?」
「んーとねぇ……しっかりもので、なんでも出来て、それですっごく可愛いのよ。料理も上手で、特にお菓子作りはうちのパティシエが困るくらいだったわ。さーて、そろそろ流すわ。ユレアちゃん息止めてるのよー?」
言って、桶のお湯を被せて洗い流す。ユレアは小動物のようにぶるぶると頭を振って水気を飛ばすと、アーノイスの方へ向き直った。
「今度は私が洗ってあげるね!」
椅子を渡し、シャンプー片手に立ちあがる。
「それじゃあ、お願いしましょうか」
少女の申し出を断るわけもなく、アーノイスは椅子に座った。
「おねーちゃんは髪もきれーだね。あれ? おねーちゃん、この赤くて黒いのなーに?」
小さな手で一生懸命アーノイスの長い髪を洗う最中、少女は烙印に気付いたようでそっと指で触れる。
「ひゃんっ!」
「わわっ、ごめんなさい!」
いきなり背中に触られて驚いたのか、悲鳴をあげるアーノイス。それに合わせてユレアもびっくりして謝った。
「ごめんね、ちょっとびっくりしただけだから。えっと……これはね、鍵乙女の印、なんだってさ」
「しるし?」
心の苦しさをアーノイスは表に出さないよう必死に声を絞った。この紋の異様さは誰よりも自分が一番よく知っていた。
「それとね……私の約束の形、でもあるんだ。約束って言っても、誰かとしたわけじゃなくて……いや、私としてはしたんだけど、うーんなんて言うかな」
全てはある幼き日の出来事。その出会いがなければ日々がなければ、自分の約束がなければ、今こうしていなかったかもしれない。そう、アーノイスは思い返す。
「鍵乙女さまの、大事なものなんだね」
そんな心の内を感じ取ったのか否か、わからないがユレアはそう口にした。
「そうね。今の私にとって、一番大切なのよ」
その言葉の端はどこか痛々しく、悲しげに聞えた。
 




