―明―
――明るい。
雲一つない空を見上げて、ナツはそう思った。自分は、悪夢を、夜を名乗った存在であった。吸血鬼は、この世に生まれ出でた瞬間から独りである事を宿命づけられた生き物であり、親などナツ自身顔も見た事が無い。本能が叫ぶままに享楽を求めて生きるその様を、ナツは自嘲して虚ろな悪夢だと称し、また自らをその先導者だと言って生きてきた。そんな彼女が浴びるには、明る過ぎる光に、眼を細め、そして驚いた。
何故、自分がここにいるのか。自分は、かの魔女の生み出した暗黒に包まれて――それ以降の記憶がなかった。状況を確認しようと体を動かそうとして、己に全くの感覚が無い事に気付いた。視界だけは多少動くので、首は動いてくれるらしい、とナツの視界の端に見慣れた服の裾を捉えた。
「あら……ユレアちゃんじゃない」
いつも通り、ふざけた調子で喋ろうとしたが、どうにも上手く声が出ない。動かない体といい、先程の事はやはり夢でもなんでもなかったらしい、とナツは少し自嘲の笑みを浮かべた。
「貴女が助けてくれたのかしら?」
ナツの問いに、ユレアが頷く。丁寧に、彼女の視界に自ら顔が入るように移動して。そうしてもらい、ナツは普段との違いはいち早く見つけた。眼帯が、ない。いつもは隠れている、宝石のようは“魔眼”が剥き出しに、さらには使用中の証と言える血の涙を、ユレアは流していた。たった今使っていたのではない。証拠に、左の頬には既に固まってしまった血の跡がこびり付いている。何をそんなに、と心配し彼女の左眼を覗きこんだナツは、その理由に気付いた。宝石に映る、己の無様な姿。四肢はなく上半身だけで、その体の色も己のゴーレムと同じ生気のない白の上に、所どころ罅割れていた。
「……もう、それ、しまいなさいな」
言いながら、ナツはない筈の右手でユレアの左眼に触れようとしたが、無論出来ない。一瞬、ユレアの表情が悔しげに歪んで見えたような気がしたが、それはナツの願望だったのかもしれない。いつもの無表情に戻り、ユレアは口を開いた。
「約束は……どうなったのですか」
一瞬、何の事だろうとおぼろげな頭を巡らせる。そうして、この戦いがはじまる寸前、アングァストの頂上で彼女と話した事を思い出した。
「ああ……お化粧教えてあげるってやつ? ふふっ……嫌よ。ただでさえ強力なライバルがもっと敵なしになっちゃうじゃない……」
言葉は冷たいが、その言い草は何処か優しい。ナツは続けた。
「でも、ちゃんと自分で勉強、しなさい、よ。じゃなきゃ、マルガに教えて上げる人がいなくなるじゃ、ないの……」
「自分は約束を破って、私には別の約束を護らせるつもりですか」
無表情で、少し拗ねたような声を上げるユレアの様子に、ナツは微笑んだ。同時に、頬の一部がまた、塗装が剥げるかのように地面へと崩れる。
「そう言われるとキツイわぁ……。ああ、でももう一つ、お願いがあるのよ、ね。別に聴きいれてくれなくたって――」
「……聴きましょう」
喋る度に、残った体のどこかが崩れて行くナツを見ていられなくなったのだろうか。ユレアは、彼女の言葉を最後まで聴かずに返答した。
「ありがとう。ついでにで、悪いんだけど……これ……持って行ってくれるかしら」
ナツの瞳が、弱弱しいながらも先程のような妖光を発する。胸の辺りに同じ光が生まれ、光球が彼女から這い出てきた。光の膜の中に、笛だろうか。フルートのような横笛が浮かんでいる。ユレアは丁重な手付きで、それを受け取った。同時に、光が消える。白と濃い紫のまだら模様の刻まれた、陶器のような質感の笛。それは、ナツと全く同じ霊気を帯びていた。
「門に囚われるなんて、御免、よ」
何処か誇らしげな独白を残し、ナツは眼を閉じた。全身の隅々が、もはや剥がれおちるのではなく、砂の如き崩壊を始めている。残った上半身のしたの方から、零れ落ちるかのように崩れて行く陶器の体。
「じゃあねユレア。今度会うことがあったら、その時にお化粧、教えてあげるから。今回は……勘弁して……ね」
眼を閉じたまま、ナツが最期の言葉を言い終えると同時、崩壊は止まった。いや、終わった。そこに、凄惨な最期に安らかな笑みを浮かべていた吸血鬼の姿はない。ただ、白い粉が残っているだけだった。
――霊峰アングァスト頂上。
度重なる強大な力のぶつかり合いに、数刻前の姿を完全に失ってしまったその場所に、グリムは大の字になって寝転がっていた。戦争は、まだ続いている。それはわかっている。だが、動けない。元々死にかける程の重傷を負っていたのだ。無理もない。しかし、今現在彼の体にそのような負傷は一切なくなっていた。最後の最後、土壇場で発動した“火の原性”とボーヴが呼んだ力のおかげだろうか。しかし、疲労までは取れるものではないらしい。と、彼の寝転ぶ視界の、頭側の方から、見慣れた童女の顔が覗き込まれた。
「大丈夫か……? グリム」
幼い姿というのも加味されているのだろうか、今にも泣き出しそうな顔で、メルシアはグリムへ心配の声をかける。
「ああ、ちゃんと生きてんぜ」
まだ重たい体を無理やりに起こしながらも、グリムは笑って答えた。しかしそれでも信じられないのか、不安げな表情のままメルシアは何事か捉え、仄かに金色に光る右手をグリムの額に当てた。よく彼女が使う、検査の霊術だ。正しい名前はグリムも覚えていないが、取り敢えずいつもそれを健康診断と呼んでいた。
「……随分と霊力の消費が激しいな。お前、まさかあれを」
「心配すんな。俺は死なねぇよ」
以前、ガガとの戦闘の際に偶発的に使った業。太陽の法と名付けられたそれを、グリムが発動させた事をメルシアは悟ったのだろう。絶対に使うなと釘を刺した本人からすれば、気になってしまうのも仕方のない事だ。だが、グリムは言い切り、メルシアの頭を撫でた。
「な、なんだ、いきなりっ」
「いーや、別に。さて麓の方へ戻ろうぜ」
頬を朱に染めるメルシアの頭を軽く叩いて、立ち上がるグリム。少し動きは重いが、動けないという程ではなくなったようだ。
「おい、お前まだ休んでた方が」
「うんにゃ。何か元気でたわ。いけるいける」
まだ心配の様子を覗かせるメルシアに、グリムはあっけらかんとして答えた。まだ、山の麓では兵達が殺し合いを続けている。先程のボーヴとグリムの戦闘か、ナツとメルシアの戦いの影響で、周囲一帯の雲は完全に消え去り、霊峰の膝元で多数の人影が動いているのが見て取れた。
「さぁて、グリム=ティレド。戦場へ舞い戻るぜ!」
紅い槍を振りかざし、一足にグリムは空へ、遥か下の戦地へと飛び出して行く。メルシアもまた、一つの溜息を吐き、彼の後に続いた。