―争乱―
一滴、二滴、三滴。大理石の冷たい床へ落ちる、赤い雫。止めどなく流れる鮮血が落ちてくる場所を辿れば、そこには人の身の丈はあろうかという片刃の刀が、切っ先から鍔元に至るまでが血の赤に染められているのがわかった。そして、鍔元に未だ刺さり尚も刀が進もうとするのを抑える、右手も。
「貴様……いつの間に」
「最初からですよノラル王。僕は、従盾騎士ですからね」
それまで王とアーノイスしか存在しなかった筈の謁見の間に突如として現れた黒い影は、アーノイスの喉元目掛けて突き出された刀を、あろうことか己の右手を貫かせて止めていた。
己の首元一寸で留まり、力の拮抗に震える凶刃の先を、アーノイスはそこではじめて認識した。
「チ……オルヴス! 貴方何して」
「迂闊ですよアノ様。ここに来るまではあんなに気を張っていらっしゃったというのに。この程度の攻撃も見切れないとは」
「何?」
自らの手が完全に貫かれているというのに、平然と喋るオルヴスへ向けた王の視線が強張る。そのまま刀を抜こうと柄を引くが、それはオルヴスの鍔を掴む右手に止められた。
「そう慌てないでくださいよ。別にアノ様は貴方へ攻撃を加えようとしたわけじゃない。そうでしょう?」
「え、ええ……」
少しの間状況の整理に頭の回らなかったアーノイスだったが、何とかオルヴスの言葉に返答する。そして、自分が今さっき何をしようとしていたのかを思い出し、王とオルヴスから一足で飛び退いた。それを見て、再びノラル王は刀を抜こうと力を入れるが、またしても刀はびくともしない。
「ちっ、貴公ら……最初からこれが目的で」
「違うわ」
憤怒に染まった眼光を真っ直ぐに見据え、アーノイスは否定した。
「貴方がココ王妃を取り戻そうとこの戦いを起こしたというなら、私が今この場で、ココ王妃を連れ戻して引き渡す。それだけよ」
「……貴公らが奪ったのだ。それは当然の事ではないか?」
「ココに聞くと良いわ。あの人はきっと嘘は吐かない。それは貴方が一番よく知っているでしょう」
アーノイスはソートの森で出会ったココの事を思い出しながら言った。それは一時間にも満たない邂逅ではあったが、彼女はきっと嘘は吐かない人物だと、そう直感しての言葉。
再び、右手を翳して集中する。彼女が居るとすれば、恐らくはあのエトアールの持つ鎌により開かれた異空の彼方。霊覚を強めて行く。この次元ではない、異なる空へ届くように。思い出す。彼女の放っていた霊気の色、感覚を。開く。己の力を。強引でもいい。全ては今、無意味な血を流している人々の為に。霊覚よ開け。開け。開け。
アーノイスは願った。
「開け! アーペナ・ティクレ!」
光の門が、中空に現れた。同時に流星がそこから飛び出してくる。白き、輝き、翼。星に跨る王妃の姿がそこにはあった。流星が止まり、光が収まる。
「あれ? 出れた」
呟くような、呆けたような声。聞き覚えのあるその声に、アーノイスは安堵して膝をつく。成功した事は元より、霊覚という能力を無理やりに開きながら烙印術まで行使した反動が、彼女の体力をかなり持って行ったのだ。この場にくるまでの事もある。
「ココ……なのか?」
己の上空に突如として現れた最愛の王妃の姿に、目を奪われるノラル王。その隙に、オルヴスは自分の手から刀を強引に抜き去った。止めどなく溢れる血が痛々しいが、本人は気にせずにアーノイスの元へと駆け寄る。
「あ、ルギフ」
ココも、今自分が居る場所に気付いたのか、床へとクルスを誘導し、跳び下りた。王――ルギフもその側へと歩み寄る。
「……アーノイスと、オルヴス? なんでここに」
辺りを見回し、まだ掴めていない状況を掴もうと頭を巡らせるココ。当然といえば当然だ。彼女は今の今まで、上下左右前後もない空間にずっと居たのだから。
「戦の風が吹いている……王よ。もしや今は」
クルスが何かを感じ、言葉を述べた。風を敏感に感じ取る天馬の翼が、戦の風を感じたのだった。
「ああ。今、アングァストの麓で我が軍と教会の者が戦っている」
「じゃあ、ルギフが、戦ってたの?」
ココの目が、アーノイスとオルヴスの姿を写す。疲れ果てたアーノイスの表情と、血を流しているオルヴスの姿を見る限り、その判断は正しいと言えるだろう。
ルギフは、そんなココの問いには答えずに別の問いを投げかけた。
「ココ。お前はクオン達に囚われていたのか?」
ルギフの言葉に、アーノイスとオルヴスも視線をココの方へと向けた。ここで彼女がそれを否定してくれれば、状況が傾くかもしれない。そんな淡い希望があった。
「わからない。ずっと、変なところにいた」
「それはユレアさんの鎌に生み出された空間でしょう。なら、答えは簡単なのではないですか?」
はっきりとしないココの返答にオルヴスが追い討ちをかける。
「そう、かもしれない。ユレアが作った亀裂の中に入って、そのままだったから。でも、何かの事故かもしれない」
「貴方をその亀裂に送り込んだ後に、彼女はアングァストにノラル軍を運びました。有り得ないでしょう」
人が良過ぎるのか疑うという事を知らないのか、それとも単なる馬鹿なのか。ココのはっきりとしない答えにオルヴスは苛立ちを隠せなかった。アーノイスも、縋るような視線をココへと送る。彼女の言葉一つで、この戦争の行く末が変わるのだから。もう既に事は起きてしまっているが、これ以上の事態にならないだけでもマシというものだ。
「まあ、どちらでもいい」
しかし、そんな期待をルギフは一蹴した。アーノイスは絶句し、一瞬、彼が何を言っているのかわからなくなった。
「既に戦ははじまっているんだ。多くの騎士が他国の地にその命を散らしている。それを今更、止める事など出来はしない」
言いながら懐から取り出した布で血糊のついた刀身を拭くルギフ。その眼は非情な、冷徹な光を宿していた。
「ココを連れ戻してくれた事には礼を言う。だが」
刀を振るい、中段に構えるルギフ。彼の全身から霊気が溢れ、周囲が陽炎のように揺らめきはじめる。
「戦時下にある両国の最高戦力が一堂に会したこの場で、戦わぬ方がどうかしている。そうだろう。従盾騎士」
血が拭きとられ、白き輝きを取り戻した大太刀の先がオルヴスへと向けられた。その切っ先にまで裂帛の気合が宿って、風景を歪ませる。
「貴公、そして鍵乙女を討ち取れば教会の士気も大いに落ちる」
「待って! 私は、私達は戦いにきたんじゃ」
「俺達二人を倒せば、戦は止まる。戦いを止めるのが目的の貴公にも利はあるだろう」
アーノイスの弁明を一蹴し、彼女にも剣先を突きつけるルギフ。
「やれやれ。先程は逃がすと言ったのに今度は討ち取る、ですか。下がっていてください。アノ様」
その刀の先からアーノイスを護るかのように前に出て、オルヴスが王と対峙する。アーノイスは、空虚な、己の視界が信じられないとでも言いたげな瞳で、その光景を写していた。
「武勇に名高いノラル国の王。貴方が僕の主を討つと言うなら、僕は全力で貴方を殺します。今一度見逃すというなら、大人しくコルストへと戻りましょう」
「そうして、アングァストの我が同胞を討つか従盾騎士。そんな事をやらせると思うのか、俺が」
「……ルギフが戦うなら、私も戦う」
ココまでもが、外套の背に隠していた武器をその手に取った。円錐型の、俗に馬上槍と呼ばれる得物が、彼女の細腕により構えられる。同時、主の戦う意志を受けて昂ぶったクルスが雄々しい嘶きを上げた。
オルヴスの纏う霊気が冷たく色を変える。敵を倒す、いや目の前の存在を粉砕する時にのみ見せる感情のない気だと、アーノイスは知っていた。止めてくれと縋りたくても、それが敵わない事がわかって、彼女の手は宙を掻く。
「そうか……ならば、行くぞ!」
ルギフの持つ白刃が煌めいた。天馬が羽ばたき、広い謁見の間の天井間際までココを乗せていく。オルヴスは風穴の空いた右手に一瞬黒い闇を生み出して治療し、すぐに青白い閃光へと包んだ。室内の空気を弾き飛ばして、王の太刀とオルヴスの光の拳が斬り結ぶ。ルギフはオルヴスを必要以上に近寄らせぬよう、大太刀の長いリーチを生かして振るい、オルヴスはそれを掻い潜るべく、多方面から何度も襲いかかって行く。もはや、二人の打ち合いを数えるのも馬鹿馬鹿しい。突撃する黒い影を白い輝きが打ち払い、また影は引き寄せられるように白刃を持つ男へと向かっていく、その繰り返しが何度行われたのか。ルギフの太刀がそれまでの防戦の様相から一変、標的を断裂させるべく一撃を放った。それをオルヴスは危険と判断し受けるのではなく、身を逸らして避ける。白刃の軌道上に走る衝撃波が滑らかな亀裂をつくった。
轟音がアーノイスの背後で起こる。ルギフの斬撃により、斬り崩れた謁見の間の門が落ちた音であった。彼女の足元には何処まで続いているのかわからない亀裂が深々と刻まれていた。彼女の瞳は、霊覚はオルヴスとルギフの戦いをどうにか捉えていた。それは、先程彼女が無理に開いた力の名残であるのか。ルギフの一撃を避けたオルヴスから、ルギフの姿が離れる。大太刀の届く範囲を大きく逸脱して。その理由は、ただ一つ。それまで攻防に携わる事無く見ていた天馬とそれにまたがるココの気配が変わった。白い流星が、オルヴスへと向かう、その瞬間。アーノイスは己の左手を天向けて突き出していた。
五本の閃きが、天馬と王妃の行く手を阻む。天上へと突き刺さるその糸のように細い五本の光は、床に立つアーノイスの手先から。
「アーノイス……戦うつもりなの?」
突然の邪魔に、ココが問う。アーノイスは首肯でそれに応えた。
「貴方達が、どうしても戦うって言うのなら」
光糸を天井から外し、手を降ろすアーノイス。だが、その瞳にもはや迷いも惑いもなかった。誰もがはじめて見るであろう、闘争に臨む、一人の人間としての彼女の視線。
「……ルギフ」
「ああ。鍵乙女はお前たちに任せる。俺は、こちらの相手をしよう」
王の了承を得て、ココはクルスの高度を下げ、アーノイスへと近づく。戦いを止めるのではない。己の相手と見定めた者を攻撃する為に。
「アノ様。ご無理はなさらぬよう」
「大丈夫。危なくなったら逃げるわ」
お互いを見るでもなく、だがアーノイスとオルヴスの二人は確かに意志を伝え、そして同時に構えた。
「では、仕切り直しだ!」
大太刀の刃が煌めく。二つの拳が青白の光を帯びる。白き翼が風と光を纏う。十本の閃光が揺らめいた。
アヴェンシスとノラル。二つの国の雌雄を決するもう一つの戦いがはじまった。