―ノラル―
ノラル王国の島最南端にある港。そこへ、アーノイスは現れた。自らが開いた“ノラルへ至る路”を潜ってきたのだ。まっすぐにノラル王城へ、それも王の元へ飛んで行ければ移動にも時間を取られないのだが、敵の大将の根城へ突如として現れては要らぬ混乱を招く可能性がある。彼女の目的は王を害する事ではなく、今アングァストで行われている争いを止める為だけだ。こうして国に不法侵入している時点で問題はあるものの、こうでもしなくては話も出来ない。
ともかく、王城へ急ごうとアーノイスはフードを目深に被りながら辺りを見回した。港町であるし看板くらいあるだろう、と。町の様子は騒然としていた。何処を見ても青銅の鎧を着こんだノラルの兵だろう人間が溢れている。恐らく、アングァストの援軍に行くのだろう。港には十数隻という軍艦が出港の時を今か今かと待っている。騒然としている為、アーノイスの出現に気付いた者もいないようだ。とはいえ、長いする理由はない、と取り敢えず足を踏み出そうとした彼女の視界に、甲冑に紛れて何処かへと走る少年と少女の姿が写る。二人は兄妹だろうか。同じ髪と眼の色で、男の子の方が幾分か背は大きく、後ろを着いてくる少女の手を引いている。四、五歳から七、八歳といったところだろう。辺りの兵士達をキョロキョロと見回しながら、何かを探しているのだろうか。少女の方は少年に引かれていない方の手には、何か小包のようなものを大事そうに抱えていた。そんな中、少年の眼が嬉しそうに開き、少女に何事か告げる。少女もそれを聞いて笑顔になり二人は一緒になって駆け出した。
「父さん!」
「パパ!」
青銅の鎧の騎士の一人に、飛び付くように纏わる二人の兄妹。騎士も応えるように兜の目出しを開けて、駆け寄ってきた少女を抱え、高く上げてから降ろした。
「どうしたんだお前たち。駄目じゃないか港に来ちゃ」
諌めるような台詞の騎士であるが、その声音と表情は柔らかい。注意はすれど、これから死地に向かう者として、愛する家族に会えて笑みを浮かべぬ者などいない。
「あのね、お母さんがお父さんに持ってって、これ作ってくれたの」
少女が抱えていた包みを騎士へ渡す。しゃがみこみ受け取った男は、笑顔でその袋を覗きこんだ。
「マフィンじゃないか。ありがとうな」
心底嬉しそうな笑みで、少女の頭を撫でながら、その子の後ろに居た少年をも抱き寄せた。
「俺が居ない間、こいつと母さんを守るのはお前だ。出来るな」
「う、うん!」
「よし、それでこそ俺の息子だ」
最後の兄妹それぞれの頭を撫でるように優しく叩き、二人を家へ帰るよう促す仕草をする。名残惜しそうにする兄妹であったが、我儘は言わずその場を来た時のように手を繋いで帰って行った。その様子を嬉しそうな、寂しそうな、悲愴な顔をして見送る騎士。それはまさに、死地へ赴く者の憂いの表情といったところか。
アーノイスは眼を伏せ、その兵士を視界から外した。見て居られなかった。何処の国居ようと、戦う者の悲しみは同じだ。自分がこれまで知る事のなかった人々の感情。それを、まざまざと見せつけられて気がしたのだ。首都へと至る路を示した看板を見つけたアーノイスは、意を新たにその路へと進んで行くのだった。
――ノラル国首都ミヅガルヅ。アヴェンシスともコルストとも、これまで通ってきた街のいずれとも違う街並み。ヘイズにこんな家も立っていたような気がする、とそのレンガ造りの家を眺めつつ、街の中心と思われる場所にそびえる塔へと向かう。誰が見ても一目でわかるだろう。あれが、ノラルの王城なのだと。街並みに比べ何倍もあろうかという大きさの建物、とは何処かアヴェンシスと始祖教会を思い起こさせるものがあった。
それにしても、とアーノイスは目深に被ったフードの奥の眼を巡らせる。首都、という割には非常に閑散とした雰囲気であったからだ。人の姿がない。通りは広いし清潔で、廃れているわけではないのだろうが、全く人の姿を見ない。十中八九戦争の所為であろうことは容易に想像出来た。しかし、これでは唯一外を出歩いているアーノイスが妙に目立ってしまう。現に今も尚、何処かの窓からの視線を、アーノイスは感じていた。もしかしたら正体が露見してるか、不審者と捉えられるか。彼女自身に敵意は無くとも、敵国に属している人間という事だけで攻撃される可能性もある。その危険性くらいアーノイスにもわかった。用心しなくては、と彼女は霊覚を発動させる。建物の向こうにはやはり、人の気配があり、いくつかは窓際で、彼女の様子を窺っている事がわかった。アーノイスの足が急く。これから王城まで行くわけだが、その前に通報されて捕まりでもしたら面倒になる。ここには味方となる人物など誰もいないのだから。
そうして、なるべく人目につきづらそうな路地裏などを通り抜けつつ、王城へと辿り着くアーノイス。近くの建物の影から様子を窺うと、やはりというか当然というべきか、城へと続く正門だろう場所には二人の門番が居た。往来する人々の姿はない。霊覚で探れば、門の内側にも多数の兵士が巡回をしているようだ。やはり、厳戒態勢である。裏口に回っても、警備の兵は居るだろう。塀は超えられない程ではないが、確実に目立ってしまう。それに、やましい事をしに来たわけではない。そう決めて、アーノイスは堂々と正門へと向かって行った。
「止まれ! 一般人の外出は禁じられているんだぞ」
門番の内の片方が腰に差した剣に手をかけつつ、そう威嚇する。人がいないのは、やはり王宮からのお達しか、とアーノイスは納得しながら返答した。
「王様へ謁見に参りました」
「ふざけるな。この戦時下に馬鹿な事を言ってるんじゃない。早々に立ち去れ。今なら見逃してやる」
まあ、そうだろう。と門番の拒絶の言葉を呑み込むアーノイス。だからといって引き下がるわけはないのだが。
「此度の、ココ王妃誘拐の件について王にお知らせせねばならぬ事があるのです」
門番二人の表情がさらに険しく変化した。
「何故そんな事を知っている。王妃の不在は国民には知らされていない筈だが」
どうやら王妃の事は国民には伏せられているらしい。公表し教会側を糾弾したほうが国民の好戦感情を煽れるだろうに、それをしないのは王家特有のプライド故だろうか。それとも何か別の理由がこの戦にはあるのか。思索するが、ここで答えが出る筈もない。
「つまりはそういう事です。この件は王の御耳へ直接伝えなければならぬのです。通して頂きたいのですが」
一般には知られていない事を知っている、それ即ち身内だと人は思う事が多い。少々意地汚い気もしたが、仕方のない事だ。数秒、門番同士で見合っていたが、その内しぶしぶと道を開けた。どうやら認めるらしい。
「ありがとうございます」
「翼の加護を」
礼を述べ、通り過ぎようとするアーノイスに門番の一人が声をかけた。ノラル軍属特有の挨拶のようなものだろう、とアーノイスは咄嗟に応えた。
「翼の加護を」
その、途端。過ぎ去った二人の人間から霊気が高まるのをアーノイスは感じた。その、殺意の含まれた気が己に向けられている事にも。慌てはしない。十二分に予測出来た事だ。予め発動させていた霊覚が、兵士の動きを実に鮮明に、緩やかに教えてくれる。剣を抜き放ち、大上段に構えるその行為。振り下ろさんと力む腕が、アーノイスには見えた。二筋の銀閃が襲いかかるのを、数歩距離を離す事で避け、そのまま門番の方へ振り向くアーノイス。
「貴様侵入者だな? “翼の加護を 爪の畏怖を”。ノラルの人間ならば誰もが知る言葉だ」
門番の一人が得意げにそう告げた。対するアーノイスは溜息一つ吐いただけで別段表情を変える事もない。こうなってしまう可能性も大いにあった。正直、ならない方を強く望んでいたので思わず溜息が出てしまったというだけだ。
「……先程の言葉に偽りはないのですが。どうか剣を収めていただくことは――」
アーノイスの弁明は最後まで聞いてはもらえなかった。門番の一人が再び剣を振り上げアーノイスへと襲いかかってきたのだ。後ろのもう一人の方は何やら笛のようなものを咥えようとしている。あれで仲間を呼ぶつもりなのだろう。こうなってしまっては仕方がない。左手指の先に光が一本の光が走る。門番が間合い詰めるべく一歩を踏み出すよりも早く、後ろの兵が笛に息を吹き込もうと息を吸うよりも早く、アーノイスは光糸を振るった。光の煌めきが剣を砕き、笛を砕き、二人の人間の頭部を打ち据えて意識を奪った。以前グリムを弾き飛ばした時――それよりは幾分も弱いが――のように二人の人間を打ち払う。
「ごめんなさい」
それだけ言って、アーノイスは城内へ駆けて行った。まだ周囲にはばれていないだろうが時間の問題である。騒ぎになる前に王に会って話をつける。そう決めてアーノイスは走った。