―マロリ―
黒煙が舞い上がり、焦げた匂いが充満する。空の雲に混ざるかの如く上へ上へと昇るそれを見て、チョーは満足気に頷いた。ようやく、鼻血を噴き出していた顔面を拭う。最初の一撃の時か、それ以降か。何にせよ、エレント・エレリアを喰らった以上もはや起き上がってくるとはない。そんな死人の事を考えるような頭の構造を彼はしていなかった。
ただし、本当に死んでいればの話だが。
煙が消えて行く。自然風に流されて行ったのではなく、まるで色を反転させるかのように薄くなり見えなくなっていった。確かに霊術が関わっている、それも、死んだ筈の男のものの。それを感じチョーは歯噛みし、そして冷や汗を流して驚きに目を見開いた。煙の中に立っていた居たのは、銀色の全身甲冑に身を包んだ、一人の長身痩躯の男だったのだから。
「……主神甲」
何かを防ぐように額前に翳した右手はそのままに、兜の隙間の暗闇がチョーを睨んだ。
「……誰じゃん、お前は。あの達磨野郎はどうした」
チョーもまた、甲冑の男を睨み返し、問いを発する。
「おいおい、ノラルの騎士さんは霊覚も使えないのか? 僕だよ僕」
声は、確かにマロリのものであった。何処か鼻にかかり、耳に触る男にしては甲高い声。そんな特徴のある声を、誰が聞き間違えようか。その上、霊覚により伝わる銀甲冑の霊気はまさしく、あの電磁の波弾に呑み込まれて行った男のものだった。しかしながら、横に広い体をし、趣味の悪いストライプのシャツを着た達磨のような男はそこにはおらず、ただただ戦う為に洗練されたような、余計な装飾の一切のない、爪先から頭頂まで全てを覆う全身甲冑に身を包んだ男だけしかそこにはいない。
「くっ!」
チョーは甲冑の正体に困惑しながらも、地面を蹴って距離を取り、矢をつがえた。仕留め損なった。長考する時間など有る筈もないこの戦場で、彼は恐らく最も正しいだろう選択を取る。殺しきれなかった相手は、間違いなく自分の首を絞める真綿となる。
矢が放たれる。電磁の網を形成して、甲冑の男を捉えるべく。辺りさえすれば、あの全身を覆う金属の鎧は容易く電流を、そうでなくとも人の身には耐えられないだろう熱量を与えてくれると確信していたからである。だが。
「まだ、わかんないみたいだね」
電磁の網を、男は素通りした。先程のような超スピードで交わしたわけではない。証拠に、彼の速度を生み出していた足元に纏う光は今は無い。
チョーは恐怖した。今、自分の眼の前で信じられない事態が起きているから。強大な霊気が彼の術を跳ね飛ばしたのではない。彼の霊覚の範囲外の速度で回避と回帰をしたのではない。そもそも後者には意味が無い。しかし、だとすれば、何故。
「お、おかしいじゃん……」
「僕の術は少し特殊でね。物質を変換することが出来るんだ」
語りながら、マロリはチョーへと近づいて行く。三束一組の矢の集団が彼へ向かうが、何も気に留める様子はない。
「靴を光と変換すれば、その移動速度は光速になる」
「おかしいじゃん……おかしいじゃん……」
チョーは何度も何度も呟き矢を放つ。狙いもまばらで一度に撃つ本数もつい先刻までのように安定しないが、それでも電磁の網が甲冑を取り囲んだり、矢が標的へと当たる事もある。それは、マロリがまるで避けるという動作をしていないからだ。しかしそれでも、鎧には傷どころか汚れ一つつけることが敵わない。
「君はさっき、僕に名乗った。電磁のチョー、だってね。電磁、つまりは電流と電熱、それとマイクロ波」
「おかしいじゃぁぁぁああん!」
さらに激しく、チョーは矢を放つ。焦りか、恐怖か、錯乱した瞳に写る甲冑へと、チョーは一心不乱に攻撃を続ける。それが無意味だと理解出来ないままに。
「だから、僕は自分の体を変換したのさ。絶縁と耐熱性。そして矢を通さない強固さを併せ持った、体に、ね」
「なんなんだ、なんなんだよお前はぁぁぁああ!」
チョーが叫び、矢を弓へつがえる。しかし、それは放つことが出来ない。気付けば、悠々と歩いていた筈のマロリに、首根っこを取られてしまうほどに接近を許してしまっていた。
「僕は翳刃騎士マロリ=ラル=ロックテール。君を倒した男の名前さ」
首に掛けられた手から逃れようと足掻き、チョー弓矢を取り落として、首を絞める甲冑の右手に縋るが、そこで気付いてしまった。彼の右手は首を掴んでいるのではない。既に、首と癒着していたのだということに。
「う、が、がぁぁああ! 放せ! 放せ!」
「無理だよ。気づくのが遅かったね。そう。僕の言う物質には勿論、人体だって含まれている。ま、気をつけて纏霊してれば逃げられたかもね。さて、問題だよ。今僕がくっつけている君のこの体。最初に僕がボロボロにした弓みたいに“劣化”させたらどうなるでしょう」
チョーの動きが止まる。その脳裏には、数刻前にボロボロの土くれのようにされた、己の矢の光景が走っていた。どうする、どうすればこの状況から逃れられる。そう考え、彼はついさっきのマロリの言葉を思い出した。「纏霊」していれば、と。そう思い、彼は自身の霊力を全力で高め全身に、取り分けマロリに取られている首の所へと向けた。それは確かに今出来る最上の策であっただろう。しかし、マロリは小馬鹿にした声を彼に叩きつけた。
「ああ、そうそう。今更、遅いよ。だって、僕はもう詠唱を終えているからね」
チョーの霊力の高まりを、マロリは嘲笑う。表情のまるで変わらない兜の貌が、チョーには余計に恐ろしく、今この時ばかりはそれが嗤っているように見えた。
「た、たた、助けてくれ! か、金ならいくらでも、いくれらでも出すぞ! ほら、俺の鎧見ろよ! 金ならある――」
「僕は誉れある翳刃騎士さ。僕の誇りはお金じゃ買えないよ」
必死の懇願に、マロリは拒絶を返した。その声は少々苛立っているようにも、また興ざめしているようにも聞こえた。
「さよならだ――俛悼匣」
「お、おかしいじゃんおかしいじゃんおかし――じゃがぁぁぁああぁぁああっ! おがあああぁああっ!」
言霊後数瞬、聞くに堪えない苦悶の声が響き渡った。マロリの持つチョーの首からはまるでタールのような汚い液体が噴き出し、それは徐々にチョーの口から、目から、鼻からそして全身の孔と言う孔から噴き出しはじめる。もはやチョーには叫び声を上げる器官すらも無くなっていった。彼の全身が汚泥まみれになる頃、マロリはまた呟く。その言霊に応じ、汚液が一つに集まり、チョーの体を丁度覆い尽くすような黒い匣へと姿を変えた。もうそれは元が人間だった等と思えない、謎の物体。
「創って、壊そ」
マロリが匣に突っ込んでいた右手を握る。同時、匣は薄氷の如く砕け散り、煙のように透過して、完全にこの世から姿を消して行った。