―錯走―
「はじまったって……どういうこと」
コルスト教会最上階、全望の間。周囲を外からは見通せない特殊な硝子窓に覆われ、一組のテーブルと椅子、ベッドしか存在しない、歴代の鍵乙女が滞在する為だけに造られた、蒼白を基調とした部屋。そこに、アーノイスとオルヴスは居た。階下では兵や神父、修道女が慌ただしくし、窓から望むコルストの街は騒然として民衆が我先にと教会に集まっている。
「言葉通りです。現在、霊峰アングァストの麓にてノラル軍とコルスト軍が戦争をしています。グリムとメルシアさん、翳刃騎士の面々も皆戦火の中に居るようです」
戦争がはじまった、突然の事態を聞き、狼狽するアーノイスにオルヴスはあくまで平静に努めて返答する。突発的な戦時には民衆は一度教会地下の掲剣騎士修練場へと集められる事になっている為、教会関係者はほぼ全員が今忙しなく動いていた。あまりに唐突な開戦に民衆の表情はどれも不安と焦燥に彩られていたが、教会側の手早い対応の為か暴動は起きていないように思える。
「じゃ、じゃあ私達も行かないと」
皆戦場へ行っている。それを聞いてアーノイスは居ても立っても居られず、戦地へ赴く意を示すが、オルヴスはそれを許さなかった。下へ降りる為の階段へ続く扉の前へと立ち塞がる。
「……アノは鍵乙女です。戦場へ行くのを許すわけにはいきません。僕も従盾騎士ですから、アノの傍を離れるわけにも行きません」
「そ、そんなことって」
ここで黙っているしかない。暗にそう示されて、アーノイスは項垂れて椅子に座りこんだ。額に手を当て、口惜しそうに唇を噛む。
「これは、戦争です。戦争なんですよアノ。勝たなければ殺さなければ、自分が死ぬ、そんな命のやり取りをするのです。人間同士で。そんな場に貴女を連れて行くわけにはいきません」
「なんで……そんなことに」
諭すようなオルヴスの言葉に、アーノイスは拳を握りしめた。昨日、確かに事件はあった。だがあれはエトアールの亡霊の介入より起こった事態で、こちらにもあちらにも非はない筈だ。それなのに、ノラルは伝書の答えも寄越さずに無言で兵だけを送り込んで来た。これは、一体どういうことだろう。伝書になにか不備があった、何てことがあるだろうか。でなければ、やはりエトアールの人間の仕業、か。
「……あいつらを、探しだす」
立ち上がり、アーノイスは外を見た。逃げ惑う群衆、遠くで響く轟音と時折見える戦火の光。自分があの場に行くことが叶わないなら、自分が今すべきは、そう考えた結果だった。
「この戦いは絶対におかしい。例え昔からいがみ合っていたとしても。ましてや、それを餌に利を得ようとしている人間が居るなら、私はそれを許せない」
「アノ、貴女の使命は門の開閉です。他の事、それも命に関わるようなことにわざわざ首を突っ込むなど」
「じゃあここで指咥えて人が死ぬのを見てろって言うの! そんなの!」
アーノイスは叫ぶように訴える。誰かが傷つくのが、失うのが怖いから、彼女は強くなると決めた。強くなって、人々に己に降りかかる厄を撃ち払う為に。
「力があっても、使わなきゃ意味が無い。鍵乙女は、皆の平穏を守るんでしょう? その力が私にあるなら、私はこの目の前の災厄から皆を守るわ」
「アノ……」
震えながらも力強い彼女の言葉に、オルヴスの視線が縋る。アーノイスも、彼が言いたい事はわかっていた。彼は、自分を守る為にここに居るのだ。それを、むざむざ危険な場所に送り出したいわけがない。
「我儘ばっかり言ってごめんね。大丈夫よ。私だって死ぬつもりはないから。傷つくのは痛いし、死ぬのは怖いもの。でも」
アーノイスの右手が窓の外に望むアングァストを、その向こうにあると言われるノラルの方角へ伸びる。
「何も出来ないのが、一番辛いから」
『アーペナ・ティクレ』
言葉と同時に響き渡る詠唱。それが、あらゆる場所へ路を“開く”烙印術だと、オルヴスは知っていた。光の扉に、アーノイスは消えて行く。エトアールの人間が今どこにいるかはわからない。だが、今ノラル軍を動かしている人物となら会える筈だ。そう踏んで。
「待て! アノ!」
オルヴスの叫びも虚しく、鍵乙女は光に包まれて行った。
「ああ……仕方有りませんね」
誰も居なくなってしまった空間に伸ばした手を引っ込めて、オルヴスはそのまま髪を掻き上げる、と同時、魔狼化し、霊覚を研ぎ澄ました。約束を、彼女を護る為に磨いてきたその力は、例え大陸の向こう側でも彼女の存在を察知出来る“嗅覚”を持つ狼のもの。漆黒の霊力が渦巻く。
「アノ、貴女は相変わらず、仕様が無いお人だ」
呆れ気味に呟くオルヴス、しかしその口元は笑っていた。そういう人物だからこそ、自分は今ここで彼女を追い求めようとしているのだろう、と。狼が跳躍する。黒い閃光が窓を突き破り、空の彼方へと飛んで行った。