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白月に涙叫を  作者: 弐村 葉月
八章 戦と死
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―急転―

「……そう、ですねぇ」


アーノイスが聞いたのは彼の呼び方の事。彼がチアキであると結論が出た以上、彼女としてはそちらの名前で呼びたかったのだ。無量無辺の器(オルヴス)なんて、哀しい名前ではなく。


「僕はアノ様以外からは従盾騎士オルヴスですし……それに、チアキ=ヴェソル=ウィジャはロロハルロント国にとって大罪人です。それが今更生きていると知られば要らぬ騒動を引き起こします」


「じゃあ、貴方はこれからもずっとオルヴスで居るの……?」


世間的に言えば、確かにチアキは死んだ存在だ。今、目の前に居るのに。声を掛ければ返ってくるのに、手を延ばせば触れられるのに。それでも、彼を呼ぶ事は許されないのか。悔しさに、アーノイスの顔は歪む。そんな彼女を見てオルヴスは短く息を吐いた。ただしそれは嘆息ではなく、我儘な妹を寛容する優しい兄のような眼差しを伴っていたが。


「僕とアノ様だけの時なら、問題ないでしょう。要はバレなければ良いんですから」


我ながら甘くなった、とオルヴスは苦笑する。いや、彼女に対しては昔からそうだったか、と今なら素直に過去と思い出せる昔を思った。


「それは、二人っきりなら良いって事?」


陽光に開く花のような無邪気な笑顔で、アーノイスは問い返した。それが眩しくて、思わずチアキは目を逸らす。ともすれば否定にも思えない事も無いその行動にアーノイスの表情が翳って、慌てて彼は口を開いた。


「そうなります。僕達だけの時なら良いでしょう」


「そっかぁ……ふふっ」


また、アーノイスは笑う。こんな風に笑うのは久しぶりの気がした。それは彼女も、そして見守るチアキも一緒だ。


「じゃあ、チアキ。貴方も私の事はアノってちゃんと呼び捨てしなさいよ。私がチアキって呼んでる時はね」


続けて言われた彼女の言葉に、チアキの目が点になる。アーノイスはもうそれが決定事項であるとでも言うように、不敵な笑みで彼に指差していた。


「ほーら。呼んでみなさいよ」


「え、いや、それは」


突然の事に思わず言い淀むチアキであったが、アーノイスは不満気に睨みつける。そのスミレ色の瞳に奥に未ださびしげな感情が浮かんでいるのを、チアキは見抜いた。彼女は寂しいのだ。鍵乙女となり、独りになった。周囲全てはアーノイスではなく鍵乙女というフィルターを通して彼女を見る。昔も今も変わらない、そんな寂寞が彼女の中にはずっと渦巻いているのだ。なら、従盾騎士としてではなく、彼女を護る盾として、チアキは自分の取るべき行動を選択する。


「……わかりましたよ。アノ」


「ん……」


小さく、だが満足気に嬉しそうに、アーノイスは頬を朱に染めて微笑みを返した。


「それでは、僕は騎士団長に話を窺って来ますね」


「え、ええ……」



それだけ言って、オルヴスは部屋を出て行った。その後ろ姿を、閉じて行く扉をアーノイスは追いかけない。頬に手を当て、そのまま先程まで座っていた椅子に崩れるように座り込む。


「なんで……こんな熱いのかしら……?」


まだ赤い頬に手を当てたまま、具合が悪いわけでもない自分の変調を問うが、無論、誰も答えてはくれなかった。






グリムは教会の廊下を、いつものようにメルシアを頭上に乗せて歩いていた。一応、彼が自分で乗せているのではなく勝手に乗ってくる、とだけ言っておくが、事実そんな事はどうでもいい。兎にも角にも、今彼はメルシアの命令で教会内の何処か人の居ない場所に向かわされていた。抽象的でわかりづらい上に何やら如何わしいが、その台詞の意味する所をグリムは分かっているので大人しく従っていた。メルシアは千年を生きる魔女である。しかしながら、常にその心に千年分全ての記憶を宿しているわけではない。彼女は自らの記憶の一部を“本”とする事で記憶を分割し、知識としているのだ。どんな小さな、それこそ今通っている廊下の石組みの形、数、汚れ一つまでを彼女の瞳は心に刻み付ける。そんな記憶を完全に今と繋げる為には本の解放が必要となる。現在において巫女メルシアと言えば、金髪のダボダボの装束に身を包んだ童女というのが教会の一般常識となっていた。彼女が本を自分と同期すると、彼女は本来の姿に戻る事になる。別段隠す事ではないが、こんな一般大衆も通るような場所でむざむざ目立つ事をしたくもない。故に、先程アーノイス達と話した「フェルを操る術」が記憶の中に隠れていないか探る為、元の姿に戻るに人目に着かない場所を探している――グリムに探させているのであった。当のグリムはそんな場所特に思いつかないので、素直に宛がわれた自室を目指している。別に戦うわけではないのだし、彼の判断は正しいと言えよう。


「しっかしよう。ここ着て毎回思うんだが、なんだって初代鍵乙女様はあんな山の頂上に門なんて造ったんだ? 管理しづらくてたまんねぇだろ。ノラルの事もあるしよ」


アングァストは通常登るのも命をかける事になる大陸最大の山だ。確かに人目には着かないが、些かやり過ぎと思うのも当然だ。グリムは、そんなずっと抱いていた疑問をメルシアにぶつけた。普段此処に来る時は一人で勝手に来て勝手に次に行くので、誰かとコルストに、ましてやメルシアと居るのは初めてだった。


「アングァストは空が近いからな。全ての魂は門を経て空へ昇り、そして大地へ還る。門っていうのはな、何処にでも置けるわけじゃないんだ」


グリムの問いに答えつつ、メルシアは体を乗り出して手を伸ばす。指を一本グリムの視界に入るようにしてくるりと軽く円を描いた。指先の辿った軌道に、金色に光る粒子が残る。


「んだこれ?」


「呪術と霊術の第一、集霊陣だ。霊力を込めて描いた、単なる円だが、これが霊力の受け皿になる。全ての術を使う時は必ずこれが基本となる。まあお前は……別か」


日常生活にまで浸透している呪術の印を思い浮かべて、グリムは納得し首肯する。印の形、模様は様々だが、確かにそれらは全てに円が描かれて居た気がする。それこそ、朝に飲んだコーヒーカップの底にも刻まれていた筈だ。


「なんとなくわかったけどよ。これがなんだってんだよ」


とはいえ、わかったのはそれだけで、再び疑問を浮かべるグリム。彼の炎術は自分の霊力を直接火炎へとしているので、基本的な術の仕組みなど知ったことではない。


「集霊、つまりこれは霊力を集めるわけだな。世界にはこれと同じような力場を持つ所がある。その中でも強い場所に門は建てられているんだ。その方が都合が良いのは……わかるよな?」


門は、鍵乙女の執り行う儀式に寄って世界中に存在している霊魂を集める。死んだ肉体から離れた霊魂の成れの果ては、フェルだ。それを防ぐのが門の役割である。鍵乙女の旅路の先を行くという唯一の掲剣騎士であるグリムはそれを知っていた。他には当事者たる鍵乙女、従盾騎士、巫女たるメルシア。そして教会の上層部くらいのものだ。


「はー……成る程ね」


その知識のあるグリムはようやくメルシアの言葉を呑み込んだ。やはりそれなりの理由があるもんだな、と納得もする。


「……もし、奴らのようにフェルを操れたなら」


そこまで言って、メルシアは閉口する。グリムにもその言葉の先はわからないが、聞くことはしなかった。前方から、一人の男が彼らに向かって走ってきたからである。


「おお巫女殿! グリム殿! 此方におられたか!」


「騎士団長。どうした血相を変えて」


彼らの前に現れたのはコルストの騎士団長であった。見た目は30代半ばといった所の大柄な男性で、常冬の地に常駐しているというのに短く刈り上げられた橙色の髪が特徴的である。ノラルとの国境にあるここの防備を一手に率いているということもあって、彼の武勇は教会内でも広く伝わっている男だ。人当たりよく、また戦事に才がある彼は部下の騎士達からもまたコルストの住民からも厚い支持を得ている。そんな男が、額に汗を光らせながら、メルシア達を慌てて探していたらしい。急ぎの用だろう、とメルシアはグリムの頭から降りて体裁を整えた。


「悪い報告です。アングァストに、ノラル軍が現れました」


「早いな。数は」


「正確なものはまだ。警備の者の目視によれば、数万以上との報告も。まだ攻撃はありませんが、最悪の事態です」


小さく、メルシアは舌打ちする。それだけの大軍の上陸を何故許したのか。ノラルの王女が現れたのは昨日だ。ノラルからコルストまでは船を使って一日以上かかる。幻獣を飛ばして来たにしても、こちらの国境警備の眼を数万の人間と幻獣が果たして誤魔化せるのか。


「ふん……あの女か」


メルシアは一人の女性を、仮面の男の隣に控えていた大鎌を携えたメイドの女を思い返す。あの鎌ならば直接アングァストに兵を送り込む事も出来るだろう。


「なんでそんないきなり。つか、伝書の答えはどうしたんだよ」


「さあな。それにしても、私らがいる時にわざわざ仕掛けてくるとは。阿呆も良い所だ」


言って、メルシアは心底つまならそうに鼻を鳴らした。普段のノラルの防備であったならば、危なかったどころの話ではない。アングァストに居るという事はもうコルストは眼と鼻の先。地理的にも向こうの標高が高い為、霊砲の撃ち下ろしをもろに受けてしまう。だが、今このコルストには教会の最高戦力が多く集っているのだ。事態は既に劣勢だが、幸いまだ攻撃は始まっていない。


「団長。お前は住民の避難を最優先にしろ。後、早く鍵乙女と従盾騎士に伝えておけ。翳刃騎士の奴らも総動員するんだ」


「はっ! お気をつけて!」


「行くぞグリム。無粋な侵入者には早々にお引き取り願おう」


「マッハで退場させてやんぜ!」


団長へ手早く指示を出し、巫女は騎士を連れて戦場へと向かった。

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