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初夜に逃げた王女、秒で王命婚の夫に捕まって溺愛されるまで

作者: いくら
掲載日:2026/06/18

 新婦って、この世でいちばん幸せな人たちでしょう?

 ええ、わたしも今日、間違いなくそのひとりだったわ。


 もう、最高の結婚式だった。

 七色に輝く大聖堂のステンドグラス。

 祝ってくれる笑顔のみんな。

 そして、隣には愛する彼。

 からだ中が雲の上みたいにふわふわとして、でも、世界中がきらきらとして。

 まるで、すべての生きとし生けるものが、わたしを祝福してくれているみたいだった。

 これからの生活が順風満帆だと疑わなかったし、怖いものなんて何もなかった。


 ……そう。


 ほんの一時間前までは。





 ここはスタッフォード公爵家のタウンハウス。新婚夫婦の初夜のためだけに用意された寝室。

 そして、ベッドに夢見心地で座るのは、完璧な新婦。


 それはもちろん、このわたしのこと。


 だって、見て。

 この香油を擦り込んだ肌に、丁寧に巻かれた艶のある赤毛。

 そして結婚が決まってから大好物のお菓子を我慢してきた甲斐あって、我ながらうっとりするくらい綺麗な腰回りだと思うの。

 

 薄い夜着の生地越しに腰をなでていると、ぐぅ、とお腹が抗議の声を上げる。

 それと同時に鼻をくすぐる、甘い香り。

 ベッド脇に目を向ければ、砂糖菓子や焼き菓子が山のように並んでいる。


 どうして初夜にこんなに積むのよ、メイドたち!


 ああ、でもとっても美味しそう。

 ……せっかく用意してくれたんだし、ひとつくらい食べたって。


 なんて誘惑に負けかけた手をぱちんと叩く。


 だめよエリノア。

 あなた、いつもそう言ってひとつで済んだ試しがないでしょ!

 だって、これからライオネルが来るのよ。

 せっかく、ここまで彼の前でも食べるのを我慢してきたんだから。

 王女のくせにリスみたいにお菓子を頬張るところを見られたら、絶対幻滅されるわ!


「我慢、あと少しの我慢よ、エリノア……!」


 ぶつぶつ呟きながら名残惜しく視線を逸らす。

 気を紛らわそうと今日の彼を思い出してみた。

 その麗しい花婿姿に、なんとなくお腹より胸がいっぱいになった気がする。


「ああ、本当に素敵だったわ……」


 公爵家の当主である彼は、もともと女性の視線を集める人だったけど、今日はさらに眩しかった。


 そんな彼が、わたしの夫。

 とうとうわたしは彼と結婚したの。


 そうなの、妻になったのよ。

 ずっと好きだった、彼の妻に!


「彼の妻になった……」


 確かめるように口にしてみる。


 かれのつま。つ、ま。妻、妻、妻妻妻妻妻。


「うふふっ」


 思わず口元が緩んでしまう。


 ねえ、聞いた? 妻よ、妻ですって。

 いやだわ、なんてすてきな響きなの!


 きゃあっと叫びかけたのを、羽枕に顔を(うず)めて必死で堪える。

 わかってるの。自分でも浮かれすぎだって。

 でも、この日をずっと夢見てきたのよ。

 わたしの護衛騎士だった彼を、ずっと想い続けてきたんだもの。

 馬から落ちかけたわたしを抱き止めてくれた、あの日からずっと。

 布越しでも分かるほど広くてたくましい胸と、無駄のない動きで支えてくれたあの腕で……って……


 あら?


 ちょっと待って。

 今は、結婚式後の初夜よね? 

 ということは、わたし、もしかして。


 今夜、あの腕に?

 あの、胸に……?


 あの深い灰色の瞳で見つめられて。

『エリノア……』なんて、あのいい声で甘く呼ばれて。

 わたしは彼の金の髪に触れて。

 そして、そして、そのあと彼がわたしに……


 ぽわわん、と結婚式の口付けがよみがえる。

 羽みたいに一瞬だけ触れてすぐ離れていったけど、とても柔らかくて温かくて。あの唇が、あの、その、えっと。


「ふえぇ」

 

 ついに変な声が出た。

 顔が熱い。それこそ爆発しそうなくらい。

 彼の名前呼び、破壊力高すぎない? いや、名前で呼ばれたことなんて一度もないけど。彼はいつだって「殿下」としか呼ばないけど。

 もちろん、初夜に何をするかなんて知ってる。だって、昨夜お母さまが本を見せながら教えてくださったもの。

 浮かれきってたから、今の今まで忘れていたけれど。

『恐れることはありません、エリノア。これは誰もが通る道なのですよ』、そう言って微笑むお母さまの顔と、あの挿絵を思い出した。


「あぅ……」


 想像はますます膨らんでしまう。

 あんなこととか、こんなこととか……

 今夜、彼と? え、本当に?

 メイドたちが「このお部屋は、誰にも邪魔されないように離れたところにご用意いたしました!」って、満面の笑みで言ってたのって……なるほどそういうことですかそうなんですね!


 い、いいえ、違うの。決して嫌じゃないの。むしろ彼になら。

 やだどうしよう。すごく恥ずかしくなってきた……!


 枕を抱きしめたままベッドから立ち上がり、うろうろしてみる。

 けれど、ドキドキはちっともおさまらない。


 ああ、どうしよう。どうしよう。

 胸が苦しくて、呼吸まで浅くなってきた。このままでは彼が来る前に倒れてしまいそう。


 とりあえず水でも飲めば落ち着くかもと、枕を置き、わたしは水差しに手を伸ばす。グラスに水を注ごうとするけれど、手が震えて仕方ない。

 からん、と音を立てて、水差しとグラスが当たった。水が縁からあふれる。


「きゃっ」


 慌てて押さえようとして、余計にこぼしてしまう。

 夜着の胸元がびっしょりと濡れてしまった。

 ただでさえ透けているのに、ぴったりと貼り付いた生地は、さらに肌を強調してきて。

 さすがに、これはちょっと。なんというか、その、エ……いえ、なんでもないわ。

 とにかくこのまま彼を迎えるなんて恥ずかしすぎる。それに何よりも冷たすぎる。


 ……着替えよう。もっと落ち着いた夜着に。

 清楚で可憐な王女、彼の前ではそういう印象でいたいもの。彼がそう思っているかどうかは知らないけど。


 張り切って用意してくれたメイドたちに心の中で謝りながら、わたしはガウンを羽織る。

 濡れた胸元を隠すようにきゅっと合わせて、深く息を吸った。


 よし、行くわよ。

 わたしの部屋まで、誰にも見つからないように。


 そう自分に言い聞かせて、わたしは寝室の扉へと向かった。





 ——誰も、いないわよね。


 耳をすましながら、静まり返った廊下をそろそろと進んでいく。気を利かせてか、メイドたちはもう下がってしまったので、自分ひとりで部屋に戻るしかない。

 柔らかな室内履きは足音ひとつ立てない。それでもガウンの裾が床を擦る音さえ気になって、王女らしからぬ変な歩き方になってしまっているのは、もう気にしないことにした。今は緊急事態だし。


 それにしても、なんて長い廊下かしら。

 さすがは公爵家、王宮にも引けを取らない。

 やっと角が見えてくる。でも、さらにその奥を右に曲がらないとわたしの部屋には行けない。先は長い。


 でも、頑張るわ。すてきな初夜のために!


 決意も新たに一歩踏み出すと、すぐ隣の部屋から聞き覚えのある声がした。


 ライオネルの声だわ。


 ちょっと、こんな姿見られるわけにはいかないのよ。

 わたしは足早に通り過ぎようとして、また聞こえてきた声に足を止める。


「ライオネルさま、今夜はもうこの辺りで切り上げてはいかがでしょうか。結婚式の夜にまでお仕事など……」


 執事のセバスチャンの声もする。

 それよりライオネル、結婚式当日のこんな時間まで仕事してたなんて。

 ……そういえば、彼のお兄さまが亡くなって、急に公爵家の後継者になってから、ライオネルは毎日とても忙しそうだった。慣れないこともきっと多かったわよね。

 ——よし、わたしも早く彼を支えられるように、公爵家の仕事を覚えるわ。

 なんといっても「彼の妻」なんだから!

 なんて、まだ「妻」という響きにうっとりしている耳へ、次の言葉が届いた。


「……こんなはずではなかったんだ」

 

 こんなはず、って。

 いったい何が……?


 盗み聞きなんて、と思うのに、彼の押し殺したような声が気になってしまう。


「お気持ちはお察ししますが、今夜は大事な初夜です。あまり殿下をお待たせしては……」


 再びセバスチャンが彼を促す。続けて、ライオネルがため息をつくのが聞こえた。


「初夜か……」


 え?


 初夜か、って……どういうこと?

 どうして、ため息なんてついたの?


 胸がざわつく。

 なんだか、このまま続きを聞いてはいけない気がする。

 そうためらう間にも、ライオネルの声が漏れ聞こえてくる。


「これは私の務め。家のためでもある。感情を挟むべき余地などない。それはわかっている。だけど……何も伝えられなかった。せめて、この想いを伝える時間だけでも……」

「ライオネルさま。どうぞ、それ以上はお控えを。この結婚は王命によるものです。そのようなこと、誰かに聞かれては……」


 あんなに熱かったはずの頭から、血の気の引く音がする。

 

 ——ああ、そういうこと。


 それ以上は聞くまでもなかった。

 わたしはガウンの前がはだけるのも気づかないまま、駆け出していた。



 


「今すぐ出して! 早く!」


 公爵邸を飛び出した勢いのまま、通りかかった辻馬車へ半ば飛び込むように乗り込む。

 白髪まじりの御者のおじさまは、わたしの剣幕に目を丸くしながらも慌てて手綱を引いた。


 馬車はガタガタと石畳を叩きながら走る。

 潰れたクッション越しに揺れがじかに伝わって、背中に鈍い痛みが走った。


 手には必要最低限だけ詰め込んだ小さな革鞄だけ。髪の毛はボサボサだし、ドレスも急いで着替えたものだから着崩れてしまっている。

 でも、そんなことはどうでもよかった。

 今、わたしの中を占めているのは、恥ずかしさ、悲しさ、後悔……全部まとめて押し寄せてきて、胸が苦しい。


 わたしはなんてことをしてしまったの。


 喪が明け、ライオネルは社交界へ戻ってきた。

 わたしの護衛騎士ではなく、公爵家の後継者として。

 礼服を着こなした彼は、本当に素敵だった。誰も目を離せないほど——もちろん、このわたしも。

 だけど、あっという間に令嬢たちに囲まれて、困ったように微笑む彼を一段高いところから見ているしかなくて。


 一番近くにいるのは、このわたしだったのに!


 そう思ったら、もう耐えられなかった。

 夜会が終わるなり、わたしはお父さまの執務室へと駆け込んでしまっていた。

 お父さまは『おお、ついに来たな』と笑って、それでも『まあ、今なら反対する者もおらんだろう』っておっしゃった。

 なんでも、ライオネルに助けてもらった日に『彼を護衛騎士にして!』ってお願いしたときから、お父さまはわたしの気持ちに気づいていらっしゃったって。

 お父さまに気持ちを知られていたことは恥ずかしかったけれど、それ以上にわたしは舞い上がってしまったの。

 とうとう彼と結婚できるって。

 だって、王女のわたしが護衛騎士である彼を選べるわけないって、ずっと諦めていたから。

 だから、お父さまの言葉が嬉しくてたまらなかった。

 ……彼がどう思うかなんて、考えもしないくらいに。


 彼は、婚約してからも絶対に名前を呼んでくれなかった。わたしの手すら取らなかった。いつも何か言いたげな目で、わたしを見てた。

 わたしも彼と結婚すると思ったら、緊張してあまり話せなかったし、ふたりきりの機会がないからだと思っていたけど……違う。そうじゃなかった。


 結婚式の口付けだって、そっと触れるだけで……


「……ごめんなさい、ライオネル」


 ぽつ、と、しずくが膝の上に落ちた。


 知らなかったの。あなたに好きな人がいたなんて。

 知ってたら、あなたと結婚したいなんて、お父さまに頼んだりはしなかった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ライオネル……」


 頬を流れる涙を拭いもせずに、わたしはただ謝る。


 なんて身勝手だったのだろう。

 彼に合わせる顔がない。


 ……いいえ。もう、会ってはいけないの。


 この結婚はなかったことにしよう。彼も望んでいなかったのだから。

 だから……それが、いちばんいいの。


 コンコン、と外から壁を叩く音がした。

 

「あの、お嬢さん。大丈夫ですかい?」

 

 馬のひづめの音に混じって、御者台から聞こえる気遣わしげな声。わたしは慌てて鼻を啜り「……ええ、なんでもありません」と震える声で答えた。


「それならいいんですけどね、その、そろそろ行き先を決めてもらえませんかね」


 行き先……

 そんなもの、決めていなかった。


 はじめに思いついたのは、王宮。

 でも、もう戻れない。こんな勝手をして、お父さまとお母さまを悲しませたくない。

 公爵家に戻るなんてもっと無理。


 わかってるの。彼と話せば、何かしらの説明は聞けるなんてことは。

 でも、もし彼が『はい、あなたのことは愛していません。ですが、王命に従うのは義務ですので』なんて、残酷に告げてきたら?

 わたしはその場で死んでしまうかもしれないもの。


 鞄の中を探ってみる。急いで詰め込んだ、少しの着替えと宝石。そして金貨が数枚。そんな遠くまで行く余裕はない。それくらいはわかる。


 じゃあ、どこへ?


 浮かんだのは、ひとつだけだった。

 隣国グレンヴィル王国。

 おばあさまの故郷で、幼いころはよく訪れた場所。

 幼馴染の王子とは婚約の話もあったけれど、お父さまがやんわり断ったらしいと聞いた。

 今日の結婚式には来てなかったけど、今でも手紙のやり取りはしているし、いきなり追い返されることはないはず。


「……北へ。グレンヴィルまでお願いします」


 それだけ告げて、窓の外を眺める。薄汚れて曇った窓の外に、ぼんやりと見える王都の灯りを目に焼き付けた。


 もう、戻らないわ。

 ライオネル、わたしはあなたの幸せを遠くから——


「あのぅ、お嬢さん」


 ……なによ、今いいところだったのに。


「申し訳ないんですがね。この馬車じゃそんな長旅は無理でして。それに国境を越えるにしても、城門はとっくに閉まってますよ」

 

 ……そうだった。

 さすがは王都、警備に抜かりがないわね。

 仕方ない。今夜は泊まるところを探して……


「きゃっ!」


 急に馬車が止まり、からだが前に引っ張られる。膝から鞄が落ちそうになって、慌てて押さえた。


 もうっ、さっきからなんなのよ! せっかくの雰囲気が台無しに……

 あら……?


 ひづめの音が、増えてる。

 

「な、何だねあんたたちは!」


 焦ったようなおじさまの声に、薄暗い窓の外を見る。

そこには、いくつもの馬のような影。この馬車を取り囲んでいる。


 まさか、盗賊?

 

 ゾワッと背中に冷たいものが走った。

 でも、こんな王都の真ん中で? そう思い直して、わたしは扉に張り付く。

 もう一度、外を見ようとして——


 ガチャっと音がして、突然扉が開いた。支えるものをなくしたわたしのからだは、ぐらりと傾く。とっさに壁に手をかけたけれど、するりと手が滑った。息をのむ。そのまま外へと投げ出されそうになって、思わず目を閉じる。


 落ちる……!


 でも、予想していた衝撃は来なかった。

 何かに支えられている。何かはわからない。

 でも、わたしはこれを知っている——布越しでもわかる、広くてたくましい胸。


「……こんなに、軽く」


 そう低く呟く声も、間違いようがない。

 顔を上げ、わたしはその人を見た。


 ギシリ、と踏み台が軋む。

 そこに足をかけている、背の高い影。

 

 予想どおりの人が、そこにいた。


「……ライオネル」


 彼はわたしを支えながら、そっと座席に戻す。


「探しましたよ、殿下」


 扉に手をかけたまま、彼はわたしを見つめる。

 こんなときなのに、その瞳に胸が高鳴った。


 やだ、わたし今ドレス着崩れてるし、髪の毛もボサボサなんだけど! 彼にこんな姿見られちゃうなんて。

 あわてて胸元のレースを引っ張り、髪に手櫛を通しかけて、はっとする。


 ……何してるんだろう、わたし。


 もう、彼を手放すと決めたはずなのに。

 彼から逃げてる最中に身だしなみを気にする必要なんてないのに。


 それなのに。

 瞳だけじゃない。まだ耳に届く彼の声が、肌に残る彼の感触が、こんなにも気持ちを乱れさせる。


 ……ああ、やっぱりわたし、彼のことが好き。


「このような時間に、いったいどちらへ?」


 これ以上見ていられなくて、彼から目を逸らす。


「その……」


 この気持ちを悟られまいと、震える喉から必死に声を絞り出した。


「グレンヴィルへ、行こうと思ったの」

「グレンヴィル……?」


 みしり、と扉が悲鳴を上げるのが聞こえた。


「それは、なぜですか?」


 低く押さえた声が問う。

 落ち着かない胸に手を当て、彼から目を逸らしたまま、わたしはつぶやいた。


「わたし、この結婚を……その、」


 やめたいの。

 それっぽっちの短い言葉すら出てこない。

 苦しい。

 はじめて知った。自分の気持ちの正反対を告げるって、こんなに苦しい。

 でも、言わないと。


「……やめたいの」


 言えた。あと少し、頑張って。


「だから、しばらくウォルター王子のところで過ごすつもりよ。だって……」


 あなたの恋を、邪魔したくないから。

 そこまで言おうとしたわたしを、彼の声が遮る。


「……あの男のところへ?」

「え? ええ、そう言ったでしょ。婚姻無効の手続きは、あちらから進めるわ。すぐには無理かもしれないけど……」


 は、とライオネルが短く笑う。


「……ああ、なるほど。そういうこと、ですか」


 聞いたこともない、乾いて固く強張ったような声に、わたしは思わず彼を見上げる。

 夜のせいだけではない。暗く、鋭く、なのに心許ないような、そして泣き出しそうな目がわたしを見ていた。


 どうしたのと聞く間もなく、わたしの体は宙に浮く。


「きゃっ!」


 気づいたら、もうライオネルの腕のなかで。

 

 えっ、ちょっと、なに?!


 近すぎる彼の気配に、心臓がうるさいくらいに鳴り出す。

 こんなに軽々と抱え上げられてしまうなんて……さすがはライオネル!

 ……じゃない!

 なにときめいてるのよ、エリノア! あなた、彼から逃げてきたんでしょ!

 

「やめて、ライオネル!」


 はっとしたわたしは、必死に暴れる。


「離してよ! わたしは戻らないんだから!」

「お静かに。暴れると落ちます」


 そう言うくせに、わたしがもがいても叩いても、彼はびくともしない。その腕を解くこともない。

 ジタバタしたまま、わたしは馬の背に乗せられる。

 視界の隅におじさまが見えた。目が合うと、騎士たちに囲まれながらも、彼は震える声を出す。


「あ、あの。お嬢さん、大丈夫ですか。その方はお知り合いで……」

「この方は私の妻。余計な詮索は無用だ。金は後でスタッフォード公爵家まで取りに来い」


 おじさまの声を遮り、ライオネルもひらりと馬に飛び乗る。そのまま後ろから、きつく抱え込まれた。ぴくりとも動けない。まるで檻に閉じ込められたように。


 夜の冷たい空気を切り裂いて、馬は走り出す。

 彼の顔は見えない。だからこそ、駆け抜ける馬の蹄の音に混じって、背中に彼の激しい鼓動が伝わってくる。


 彼はなにも言わずに、ただ馬を走らせている。


 怒っているの?

 ……そんなの当たり前だわ。結婚式の当日に、体面も考えずに逃げ出した王女を探さなくてはならなかったんだから。


 それなのにほんの少しだけ期待してしまう。


 私の妻。


 あの言葉に、なにか意味があったんじゃないかって。

 ……いいえ、そんなはずないわ。

 あれはただ、あの場を収めるための言葉。そうに決まってるんだから。


 ……教えて、ライオネル。

 さっき、「私の妻」って言ったとき、どんな気持ちだったのかを。


 言葉にできるはずもない言葉を、心の中で問いかける。

 わたしのため息は、風にさらわれて、どこにも届かずに消えていった。





 空が白みはじめる。

 やがて馬の足取りが緩くなり、耳を打つような風の音が止んだ。

 見上げると、そこは公爵家のタウンハウス。

 結局戻ってきてしまったということに、とてつもない徒労感が襲ってくる。

 先に馬を降りたライオネルが手を差し出した。

 抵抗する気もなく、わたしはその手を取る。

 わたしの冷え切った指を包み込む彼の手は、変わらず硬くて、とても温かかった。

 玄関扉の前には、ランプを持ったセバスチャンと数人の使用人たちが立っている。


「ご無事で本当に何よりにございます、殿下」


 セバスチャンはわたしと目が合うと、ほっとしたように一礼した。


「……ごめんなさい。大騒ぎにしてしまって」


 ぺこりと頭を下げると「限られた者しか知りません。ご安心ください」と、優しい声で返してくれる。


「お部屋は整えてございます。どうぞこちらへ」


 セバスチャンがわたしを案内しようと歩み寄ってくる。実際、もう疲れは限界だったから、その言葉は純粋に嬉しかった。

 わたしはうなずき、一歩前に出た――はずだった。


「あっ……!」


 突然強く腕を引かれ、バランスを崩したわたしの視界が回る。気づくとライオネルの硬い胸板に額を預けていた。


「殿下は私がお連れする。お前たちは下がれ」

 

 冷たい声に、使用人たちが一斉に息をのむ。セバスチャンは何か言いたげにライオネルを見ていたけれど、黙って一礼すると、他の使用人たちを促して下がっていった。

 その背中が消えるまで見つめたあと、ライオネルは腕を掴んでいた手を滑らせ、わたしの手を取った。


「……参りましょう、殿下」


 彼の手は、少しも緩むことがない。

 わたしは、ただ半歩先の彼の背中を見つめながら歩く。

 わたしたちしかいない、静まり返った廊下。彼の規則正しい足音と、わたしの頼りない足音だけが響く。

 それがまるでわたしのことを責めているみたいに聞こえた。

 自分のせいだとわかっていても、わたしは耐えられず口を開く。

 

「ライオネル。わたし、ひとりで戻れるから。だから、あなたももう休んで」

「……いいえ」


 彼は振り返りも、止まりもせずに答える。


「あなたをお守りすることが、私の責務です。このまま、お部屋までお送りします」

 

 容赦なくわたしを突き刺す、冷たくて硬い声。

 そして——


「責務……」


 自分で繰り返した言葉が、さらに自分を刺す。


 ああ、やっぱり。

 そうだったのね。

 よくわかった。

 わたしは彼にとって「仕事」でしかないって。

 わたしはただ、守るだけの対象でしかないって。


 目の奥が熱を持つ。そこからじんと痛みが走って、視界がぼやけた。

 

 だめ。

 だめよエリノア。ここで泣いてはだめ。

 彼に知られてはいけない。彼にだけは。

 

 眉間にぐっと力を入れて、込み上げてくるものを堪える。

 わたしは彼に手を引かれたまま、とぼとぼと歩く。

 早く部屋で休みたい。

 もう何も考えたくなかった。ただ眠ってしまいたかった。

 なのに、彼はそれを許してくれなかった。


「……殿下」


 突然彼が立ち止まり、振り返る。


「どうか、少しだけお時間をください」


 わたしは思わず顔を伏せた。心臓が嫌な音を立てている。

 何を言われるのか、なんとなくわかってしまった。いつかは向き合わなくてはいけないことだってわかってる。

 でも、いまはとても耐えられそうにない。


「……ごめんなさい。疲れているの。明日ではいけない?」


 わたしの明らかな拒絶に、彼は一瞬言葉を詰まらせ、それでも一歩距離を詰めてきた。


「いいえ。どうしても今、お話ししたいのです」


 ……ああ、もう逃げられない。

 

 一度だけ強く目を閉じ、わたしは彼に向き合う。真剣な目がこちらを見ていた。

 彼は少しだけ頭を下げてから、近くの部屋の扉を押し開け、わたしを室内へと誘う。

 

 部屋に入るまで、わたしは気づかなかった。

 ここは、あの部屋。

 わたしが浮かれながら彼を待っていた、あの。


 ライオネルが蝋燭を灯した。

 ぼんやりとした明かりが、整えられたベッドを照らし出す。


 甘い香りは、もうしなかった。


 彼は椅子を引き、わたしが座るのを待つ。邸の主人である彼が、まるで護衛騎士に戻ったようなその姿が辛かった。

 ずっと夢見てきた、ふたりきりの部屋。

 なのに、待ち望んでいたはずの時間がこんなに虚しいなんて。

 彼の妻だなんて浮かれてたことが滑稽で悲しい。


「どうぞ、座って」


 わたしが腰を下ろしてから手で向かいの椅子を指し示すと、彼はどこまでも姿勢よく座った。彼が口を開く前に、わたしは深く椅子に背を預け、尊大に足を組む。

 

「さっきも言ったけど、疲れているの。手短にお願い」


 あなたがそう望むなら、そのとおりに演じてあげる。

 守るべき対象である、王女の姿を。

 

 促すと、ライオネルは指を組み、テーブルへ視線を落とした。


「……承知いたしました」


 そう言ってから息をひとつ吐き、わたしをまっすぐに見た。


「例え殿下がどのようにお考えでも……この結婚は王命によるもの。これは貴族にとって、避けられない義務でもあります。ですから、こうなったからには私は最善を尽くしたいと考えております」


 王命、義務、最善。


 空気に溶けた彼の言葉が、次々と降り積もっていく。わたしの肩は、その重さに耐えかねたように震え出した。


「殿下にとって、必ず良い夫になると誓います。それが王命を受けた、私の使命だからです」


 誓い、使命。


 震えは、次第に全身へと広がっていく。


「ですが……そう思ったのは、今回の件があったからというだけではありません。その、私は……」


 もうやめて。

 お願い、もうやめて。


 震えはついに指先まで届く。


「……私は、護衛騎士の頃から殿下のことを……」

「もうやめて!」


 椅子がガタンと音を立てて倒れる。

 わたしは立ち上がっていた。

 

「殿下……?」

「黙ってって言ってるの。もう何も聞きたくない」


 目を見開く彼を見下ろす。


「夫の真似事をするだけの護衛騎士なんて、わたしには必要ない。いますぐ、この結婚を解消するわ」


 声が震える。呼吸が荒くなる。


 いやだ。もういや。


「結婚なんかしなければよかった……」


 目の前がぼやけていく。


「こんなことになるなら、まだ護衛騎士でいてくれたほうがよかった!」


 涙が次々とこぼれた。


「いいえ、あなたとなんか出会わなければよかったのよ!」


 止められなかった言葉に、はっと口を抑える。


 ……言い過ぎた。


 そう気づいたときには、わたしはライオネルに腕を掴まれていた。

 そのまま強く腕を引かれ、ベッドへと倒れ込む。


「何するの!」

 

 見上げると、ライオネルが見下ろしている。その瞳は、どこか熱を帯びて歪んでいた。

 その瞬間、本能が危険だと叫ぶ。

 慌てて立ち上がろうとしたわたしの肩を、ライオネルが押さえ込んだ。


「出会わなければ、よかった……?」


 掠れた声とともに、彼は、わたしに顔を寄せ——

 目の前が彼でいっぱいになった。


 何が起こったのかわからなかった。


 ただわかるのは、言葉を封じ込めるような、痛いほどの口付け。

 式のときの、そっと触れるような優しさはどこにもなかった。

 息ができないほど深く、何度も唇を塞がれる。


 違う。

 こんなもの、望んでなかった。


 滲んだ涙は、目尻を伝って落ちていく。


 苦しくて、辛くて。

 そして何よりも悲しくて。


 わたしは力一杯彼の胸を押す。

 少しだけ距離ができた瞬間、わたしは彼の頬を叩いた。


 パチンと乾いた音が部屋に響く。

 きっと、鍛えてきた彼には、何の衝撃にもならなかったはず。それでも彼は体を離した。


「あなたとだけは、絶対にいやよ!」


 わたしは這うようにしてベッドの端に寄り、彼から距離を取る。乱れた胸元を掻き合わせ、からだを縮こませた。


「……なぜ、私を拒むのです」


 ライオネルはゆっくりと立ち上がる。

 今は遠く離れてしまった場所から、わたしを見つめた。

 その顔からは、表情がすべて抜け落ちて、なんの感情も読めない。

 ただ灰色の瞳だけが、ろうそくの灯りを受けて揺らいでいる。


「私たちはすでに夫婦だ。……ならば、これも互いにとっての義務ではありませんか」


 押しつぶしたような声がわたしを追ってきた。

 背中に冷たいものが走る。

 でも、それ以上に、わたしのなかにある、痛くて、苦しくて、許せないものが湧き起こった。

 

 これが夫婦?

 だとしたら、わたしはそんなものいらない。

 わたしが欲しかったのはこんなものじゃない!

 

 理性が焼き切れたみたいに、その衝動は口を勝手に開かせる。


「だって、あなたはこの結婚を望んでいないじゃない!」


 義務、義務、義務、義務、あなたはそれしか言わない。

 もう、そんな言葉聞き飽きた。

 あなたは義務でも、こんなことができるのかもしれない。

 でも、わたしは違う。


「こんなはずじゃなかったんでしょ! 本当は想いを伝えたかったんでしょ! 好きな人がいるなら……この結婚がイヤだったなら、そう言ってよ!」


 あなたの好きな人のためにも、そんなことできない。

 そう思うほど、胸が苦しくなる。


「あなたがそんなに苦しんでいるなんて知ってたら、お父さまに、あなたと結婚したいなんてお願いしなかった! あなたじゃなきゃいやだなんて言わなかった!」


 涙で視界が滲む。


「わたしは……義務なんかじゃなくて、ただわたしのことを愛してくれる人と結婚したかったの! わたしはっ……」


 こみ上げた言葉が喉で絡まる。

 声は震えて、胸は痛くて、苦しくて。

 それでも、止められない。


「わたしは……あなたに愛されたかっただけなの!」


 それ以上は続けられなかった。

 すべて吐き出して急に冷静になった頭は、自分の中に残っていた理性をかき集めはじめる。


 自分がしたことの結果なのに、情けなくて、惨めで。

 いろんな感情がないまぜになって、涙が後から後から溢れてくる。


 逃げたい。消えてしまいたい。

 わたしはとうとう顔を覆って、しゃくりあげた。


 部屋に響くのは、わたしの泣き声だけ。

 ライオネルは何も言わない。なんの物音もしない。

 まるで、時間まで止まってしまったみたいだった。

 長すぎる沈黙に、胸が締めつけられる。

 もう耐えられそうになかった。こんなところでめそめそ泣いていないで、さっさと出ていくべきだった。

 きっと、彼は呆れているに違いない。

 こんなのが王女だなんて。守る価値なんてない。

 ——ああ、本当に呆れる。

 まだ彼への気持ちを捨てきれない自分自身にも。


 涙は止まらない。目が溶けてしまうんじゃないかと思い始めたころ、かすかな靴音がした。


 彼が横に立つ気配がする。


「……殿下」


 わたしを呼ぶ。ためらうみたいに、少し間を置きながら。

 

 わたしは涙で濡れた手のひらを顔に押しつけたまま、息を殺した。

 お願い、もう何も言わないで。

 これ以上は耐えられない。

 なのに、彼の声はすぐそばで聞こえる。


「仰るとおり、私には……ずっとお慕いしている方がいます」


 ああ。やっぱり、わたしじゃなかった。

 最初から、ずっとそうだった。


 わかっていたつもりだったのに、何かが終わったような音がした気がして、わたしは耳を濡れた手で塞いだ。

 押さえるものを失った目からは、涙がまた溢れて、頬を伝っていく。

 そして、耳を塞いだはずなのに、彼の声ははっきりと聞こえる。


「ですが……」


 その声は、苦しそうで、震えていて。


 どうしてそんな声を出すの。

 わたしが泣いているせい?

 それとも——違う理由?


「その方は……私などが望んではいけないはずの方で……」


 望んではいけない?

 どうして? 

 どういう意味なの。もう、わからない。

 

 わたしの心はぐちゃぐちゃで、考える余裕なんてないのに、彼の声だけが、やけに鮮明に耳に残る。


「その方は……」


 彼はぽつりと話し始める。


「とてもお転婆で、思いがけない行動をする方です。少しでも目を離すと、すぐにどこかへ行ってしまう」


 それは、いつも凛とした彼の声とは違う、掠れたような声。でも、だからこそ、彼の想いの深さを感じさせるみたいで、わたしはさらに強く耳を塞いだ。

 でも、彼の声は容赦なく耳に流れ込む。


「馬を走らせて落ちそうになったり、今夜だって供もつけずに飛び出したり。ですから、危なっかしくて放っておけない。……けれど、誰よりも心優しく、美しい方です」

 

 ——え?

 それって……


「そして、甘いお菓子が大好きで、私が剣を振るう姿をいつも一番近くで、誰よりも楽しそうに見てくださって。寒さが苦手で、冬の朝はお迎えに伺っても『寒いから嫌だ』と、いつまでも毛布にくるまっていて。そんな姿も愛おしくて……」


 冬の、朝……?


 ある朝の記憶がよぎる。

 寒いと駄々をこねるわたしを、毛布ごと抱き上げた彼。

『このままお部屋の外へ出ますが』と、至近距離でいたずらっぽく見つめる灰色の瞳。

 一瞬で体温が上がって、慌てて彼から離れたら転びそうになって……また彼に抱きとめられた、あの朝。


 それは、護衛騎士だった彼だけが知っている、わたしの……エリノアという一人の少女の姿。


 弾かれたように顔を上げる。

 彼と目が合った。灰色の瞳が泣きそうに揺れている。


 ……うそ。

 まさか、そんなことって。


「私は、その方にいつしか分不相応な想いを抱くようになっていました。そして、それは決して許されるものではないこともわかっていた。……なのに、突然家を継ぐことになり、私は思ってしまったのです。これで、やっとその方の隣に立てると……」


 彼は痛みを堪えるように眉を寄せた。

 いつも完璧だった彼の、見たこともないほど弱々しく歪んだ眉。


 どれだけ苦しんできたの。


 わたしの目から、また大粒の涙がこぼれ落ちる。


「本当は……私から、結婚を申し込むつもりだったのです。この想いを全部伝えて、少しでいい、私を好きになってほしいと。ですが、その方の気持ちを何一つ確認できないまま結婚することになって……」


 涙が止まらない。

 でも、それはもう、絶望の涙じゃない。


「今日こそ伝えようと思っても、王命が下ってからのその方は、どこか私と距離を置いているように見えて、不安で……」


 そこで言葉は途切れ、彼は目を伏せた。


「……ね、ライオネル」


 涙も拭わず、わたしは彼を見上げる。

 そっと伸ばした手が彼の手に触れると、ライオネルは驚いたように顔を上げた。


 わたしは、目を逸らさずに彼を見つめ返す。


「わたし、まだわからないの。……だから、教えて」


 彼もわたしを見つめている。

 少し眩しそうに、その瞳を細めて。


 なのに今のわたしといえば、髪もドレスも乱れていて、きっと顔だってぐしゃぐしゃ。可憐でも、清楚でもない。

 でも、今ならわかる。

 彼は、そんなこと気にしない。


「あなたの好きな人が誰なのか。……あなたの口から聞きたいの」


 わたしの手が包み込むように握られたかと思えば、次の瞬間には彼の腕の中にいた。

 優しくて、でも強くて。

 いちばん、安心できる場所に。


「……あなたです、殿下」


 彼の吐息が髪を掠める。


「ずっと、あなただけをお慕いしておりました。護衛騎士のころから、ずっと」


 背中に回された彼の手に、力が込められた。


 胸がいっぱいになる。

 息がうまく吸えないくらいに。


 いまごろ、そんなすてきな言葉を言うなんて。

 あんなに冷たい目をしていたのに。あんなに、強引で、苦しい口付けをしたくせに。


「……ばか」


 飛びつくみたいに彼の背に腕を回す。

 溢れる涙で彼の服を濡らしながら、ぽかぽかと広い背中を拳で叩いた。

 どんなに叩いたって、彼は痛がりもしない。ただされるがまま、わたしを抱きしめている。


「ばか、ライオネルのばか……! そんな大事なこと、もっと早く言ってくれたらよかったのに……!」


 嬉しくて、切なくて、やっぱり涙が止まらない。

 だけどもう、さっきまでの恐怖はどこにもなかった。


「わたしが……わたしがどれだけ、あなたに嫌われたと思って絶望したか、知らないでしょ!」

「……申し訳ありません。本当に、私は愚かで、臆病な男です」


 ライオネルの右手が動き、わたしの頭を抱き込む。

 そして、まるでなだめるみたいに髪を優しく撫でた。


「もし『元護衛騎士などと』、そう思われていたら……ウォルター王子を想っていらっしゃったらと……考えるだけで怖かった。だから、義務という言葉であなたを縛るようなことをして……」


 彼の胸に耳を当てていると、そのゆっくりとした手の動きに反して、ドキドキと速い鼓動が響いてくる。


「そんなこと考えたことない! わたしだって、ずっとあなたのことが好きだったの! やっと結婚できるって思ったら緊張して……って、そんなの言ったことなかったけど……」


 自分で言って、自分で固まる。

 早く言ってほしかったって……それ、わたしもじゃない?


「えっと、だから、ばかはお互いさま……?」

 

 ってわたし、何言ってるのよ……!


 ライオネルがちょっと笑う。


「そうですね、お互いさまです。私だって、本当はあなたと普通のこいび……」


 その腕が一瞬ぴくりと震えて、彼は黙り込む。


 ……ん?

 今、なんか言いかけたわね?


 わたしの耳は誤魔化せないわ。

 なにせ、あの廊下での盗み聞き……もとい、漏れ聞こえてきた声を拾えるほどなのよ。


「ねえ、ライオネル。いま、何か言いかけた?」


 彼から少し体を離し、上目遣いでじっと見つめてあげる。

 気まずそうに視線を彷徨わせる彼の耳は、りんごみたいに真っ赤になっていた。


「いえ、なんでも……」

「言って。もうなんでも言って。言わないなら、わたくし実家に帰らせていただきます」


 メイドたちが話してたセリフを使ってみる。夫にこう言うと、効果てきめんなんですって。


「えっ」


 ライオネルが分かりやすくうろたえた。目が大きく見開かれる。


 すごい。

 メイドたちの知恵、恐るべしだわ。

 よし、これからも頼ろう。


「いえ、王宮に帰られるのは困ります」

「なら言って」


 わたしは彼の胸元を掴んで、ぐいっと顔を寄せる。

 目をまっすぐに合わせると、彼は観念したように深く息を吐いた。


「殿下、」

「はい、なあに?」

「その、あなたと、手を……」

「手を?」

「……手を繋いで……」


 声小さい!

 でも安心して。聞こえてるわ。

 なにせ地獄耳だから。


「手を繋いで?」


 わざと聞き返すと、彼はさらに真っ赤になった。


「公園を、散歩したり……」

「散歩したり?」

「一緒にお茶をしたり……その、普通の恋人、みたいに……」


 最後のほうなんて、ほとんど蚊の鳴くような声。

 でも大丈夫。全部聞こえた。

 

 えっと。

 要するに『わたしと普通の恋人のように出かけたかった』ってこと?

 しかも『手を繋いで』?


「それと……私の前でお菓子を召し上がっていただきたく……」

「お菓子?」

「はい……その、私は、殿下がお菓子を召し上がっているところを見ているのが好きなので……」


 真っ赤になったまま、ライオネルは視線を逸らす。


 ……ちょっと。なにそれずるい。

 かわいすぎるんですけど。


 胸がきゅうんと鳴った。間違いなく鳴った。

 もう我慢できなくなって、また彼の首に飛びつく。

 彼はぐらりともしないで、わたしを受け止めてくれた。


 ああ、嬉しくて、愛しくて、どうしようもない。

 これ以上好きにさせて、いったいどうするつもりなの。


「じゃあ、明日行きましょう。公園とお茶!」

「……え?」

「手を繋いで散歩して、お茶を飲んで、お菓子を食べる。あなたがしたかったこと、ぜんぶするの! ……あ、お菓子を食べるのはわたしだけ、かしら」


 ライオネルが少し体を離してわたしを見る。

 不意打ちを受けたみたいな顔の奥に、隠しきれない嬉しさが滲んでいる。


 うふふ、わたしも嬉しい!

 でもね、ライオネル。

 恋人みたいに過ごしたいなら、ひとつだけ直すべきところがあるわよね?

 それはね。


「殿下……」

「はい、それだめ」


 わたしは彼の唇に指を添えた。指先に触れた、柔らかな感触にどきどきする。


 ……だめだめ。浮かれないで。

 今はそれどころじゃないのよ、エリノア。大事なことがまだ残ってるの。


「『殿下』じゃなくて、ちゃんと名前で呼んで」


 上目遣いで彼を見る。


「……だって、恋人でしょう?」


 ライオネルが動きを止める。

 その耳がますます赤くなった。ううん、耳だけじゃない。顔まで真っ赤。


「ね?」

 

 彼に追い討ちをかける。

 多分……いいえ、絶対わたしも赤くなってるから、かっこつかないけど。

 

 彼がゆっくりと唇を動かす。

 わたしの指先に伝わる、かすかな震え。

 まるで、この世界でいちばん尊いものを呼ぶみたいに。


「……エリノア」


 指先に触れる吐息とともに、彼の唇からわたしの名前がこぼれ落ちた。

 

 ただ名前を呼ばれただけ。

 それだけなのに、指先から全身に甘い痺れが駆け抜ける。


 ああ、息が止まりそう。


「もういちど、言って」


 もっと聞きたい。

 まだ足りない。

 あなたがわたしを好きだという証を、もっと。


「……エリノア」

「もう、いちど」


 彼の指がわたしの指先を絡めとる。

 そこへと、今度は彼から唇を近づけた。柔らかな吐息が触れるか触れないかの距離で、わたしの指の形をなぞる。


「エリノア……」


 指先から吐息が離れ、真剣な瞳がわたしを見つめる。

 まだ少しだけ赤い彼の顔が近づいて、わたしは自然と目を閉じた。


 そっと触れた彼の唇。

 角度を変え、何度も、何度も。


 でも、さっきの強引な口付けとは違う。

 羽が触れるように優しくて、どんな砂糖菓子よりも甘い、ただ幸せな口付け。


 ああ、間違いない。

 あなたはわたしのことが好き。

 もちろん、わたしだって。


「エリノア……」


 次第に深くなる口付けの合間に、もう一度名前を呼ばれる。低くて、でも甘い声。

 彼は唇を離さないまま、わたしをゆっくりとベッドに横たえる。ドレスのリボンが緩められて、露わになった肩を空気が撫でた。

 わたしが彼の金の髪に触れると、彼の唇が離れ、灰色の瞳が不安げに見つめてきた。

 わたしは小さくうなずく。


 だって、心はとっくに決まってるもの。


 ライオネルも目だけで笑った。そして、彼の唇がわたしの肩へと触れる。


 静かな部屋には、衣擦れの音だけ。


 ……ああ、わたし、やっとあなたと。


 と思ったら——


 ぐうううぅ。


 突然、静寂も甘さも何もかもを切り裂く、それはそれは大きな音が響いた。


「…………」


 ライオネルが固まった。


「…………………」


 もちろんわたしも固まった。


 固まったまま見つめあっていると、微かにライオネルの唇がふるえ出す。

 そのまま口元を覆ってうずくまる彼の姿に、わたしは絶望した。


 お願い。

 誰か、嘘だと言って。

 これは夢だって言って! お願い!


 本当になんてことしてくれたのよ、わたしのお腹!

 見なさい、ライオネルの笑いが止まらないじゃない!


「あの、こ、これは……!」


 半泣きになりながら、必死に言い訳を絞り出す。


「結婚式にきれいなわたしを見てほしくて、ずっとお菓子断ちしてたの……それで……」


 そう言ったところで、小刻みに震えていたライオネルの肩がぴたりと止まった。

 彼はすっと体を起こし、こちらに視線を向けた。

 その目の周りが、どことなく赤く見えるのは……笑ったから?


「ライオネル……?」


 恐る恐る声をかけても、彼はなにも言わない。

 ただ落ちかけたドレスの肩を直し、解けかけたリボンを結ぶ。丁寧にわたしの身なりを整えてから、彼はベッドから降りた。


「すぐにお食事を用意させましょう」


 そのまま扉へ向かう広い背中を見て、急に不安になる。

 

 そんな、やだ。

 呆れちゃったりしてないわよね?


「ねえ、ライオネル、待って……!」


 ベッドの上に膝立ちになって、わたしは彼の服の裾を掴み、引き止める。

 彼は振り返ると、こほん、とわざとらしい咳払いをした。


「ちゃんと召し上がってください。今のうちに」

「今のうち……?」

「はい。……その」


 わずかに言葉を濁しながら、彼はわたしの手を取る。その目は優しくて、でも、その奥にあるのは、ほのかな熱っぽさ。


「このあとは、休憩を差し上げられないかもしれませんので」


 ……え、それって。


 動きを止めたわたしを見つめながら、彼は身をかがめる。そして、わたしの手の甲にゆっくりと口付けた。


「それでは、また後で」


 彼はさらに顔を近づけ、耳元で吐息混じりにささやく。


「……私のエリノア」


 耳に流れ込んだ良すぎる声に、わたしはさらに固まる。


 ちょっ……

 いま『私の』って……『私の』って……


 思考停止したままのわたしを部屋に残し、ぱたん、と扉は閉まる。

 同時にわたしは仰向けに倒れこんだ。


 顔が熱い。もう爆発しそうなくらい——いいえ、もう爆発してる。


「……もう、なんでそんなに素敵なの!」

 

 羽枕を引き寄せ、顔を埋める。

 きゃあっと叫び出しそうなのを、なんとか堪えた。

 わかってるの、浮かれすぎだってことは。

 でも、今日ばかりは仕方ないわよね?

 

 だって、本当の彼の妻になれたんだもの!


「彼の妻になった……うふふっ」


 思わず口元が緩んでしまう。

 そのまま枕を抱きしめ、喜びを噛み締めた。

 

 ああ、からだ中が雲の上みたいにふわふわしてる。

 そして、世界中がきらきらして見える。

 まるで、すべての生きとし生けるものが、わたしを祝福してくれているみたい。

 これからの彼との生活を思えば、怖いものなんて何もない。


 新婦って、この世でいちばん幸せな人たちでしょう?


 ええ、わたしは今日、間違いなくそのひとりよ!

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