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外伝 凪の観測、断罪のなう【ラナクロア編】


 路地裏のどん詰まり。

 そこには本来、何も存在しないはずだった。

 天界の風紀委員・中村一式が展開した「認識撹乱シェルター」。

 一般人の意識を逸らし、風景の一部として溶け込むはずのそれは、一式にとって完璧な「潜伏」のはずだったのだが。


「あら! こんなところに駄菓子屋ができたのね! 中村屋……変な名前ねっ!」


 不意に背後から飛んできた声に、一式は心臓が跳ねるのを感じた。

 振り返れば、そこには至極当然といった顔で暖簾のれんをくぐろうとしている少女・ロイエ――ロイエル・サーバトミンが立っている。


「…………お前が変だよ」


 一式は潜伏任務中であることも忘れ、思わず素で返した。

 認識撹乱を無視して、一式の個人的な「隠れ家」に土足で踏み込んでくる存在など、計算外だ。


「失礼ね! 喉が渇いたわ、早くオススメを出しなさいよねっ」


「いや……。あのな、嬢ちゃん。ここは実際に営業してるわけじゃなくてだな……」


 困惑する一式をよそに、ロイエの視線は棚の隅を射抜いた。

 そこにあるのは、一式が小腹を満たすために持ち込んでいた私物のチョコレート。

 天界の、しかも少し値の張るやつだ。


「じゃあ、それでいいわ! それちょうだい!」


「……まぁ、これならいいか。毒は入ってねぇよ。まいどあり」


 一式は、もはや説明するのも面倒になり、投げやりにチョコを差し出した。

 ロイエルはそれを受け取ると、すぐさま一口。


「!? おいしいわ! やるじゃない中村屋! 僕、また来るわ!」


 嵐のように去っていくロイエル。

 静まり返った「店」の中で、一式は己の指先を見つめて呟いた。


「……なんであの子、普通に見破れるんだよ。俺の隠密スキルも、まだまだ……か、なう」


 それが、後に「天界屈指の出張店舗」として知られる(一部のバグった連中にだけ)中村屋の、あまりに締まらない開店の瞬間だった。



 それから暫く。

 舞台はラナクロアの海岸へと移る。

 一式は「海の家の中村屋」として、再びサダオミの監視任務に就いていた。


「沈むわ! なにかないの?」


 波打ち際で盛大に飛沫を上げながら、ロイエがこちらを指差している。

 一式は深く、本当に深く溜息をつき、カウンターの下から膨らませたばかりの浮輪を取り出した。


「……やっぱり見破ったよ。……ほら、浮輪。使ってみるか? 嬢ちゃん」


「あれ? 中村屋、転職したの?」


「あぁ、そうだそうだ。今は陽気な海の家のお兄さんだぞっと、なう」


「ふーん! それじゃ、行ってくるわ!」


 浮輪を抱えたロイエルが、砂を蹴って弾けるように海へと戻っていく。

 一式はその背中を、商売用のうちわで仰ぎながら見送った。


「ぉー、行ってこい、行ってこい。今度はちゃんと、かき氷や焼きそばなんかもやってるからよぉ。気が向いたら食べにきな~」


 適当な台詞と共に、一式は深く、長く、溜息を吐き出す。


「……ったく。調子狂うな、あの娘」


 一式は苦笑いを浮かべ、無意識に焼きそばの鉄板を温め直した。

 ロイエルという「理屈の通じない例外」とのやり取りは、執行者として張り詰めていた彼の神経を、わずかに、けれど致命的に緩ませていた。


 に、しても――


『男子だねぇ』


 一式は鉄板の熱気越しに、視線を波打ち際へと投じる。

 そこには、水着姿で無防備に笑うサダオミと、その数歩後ろで立ち尽くすマリダリフの姿があった。


 一式の瞳が、スッと細められる。


 彼の網膜には、普通の人間には決して見えないマリダリフの「もう一本の腕」が鮮明に映っていた。

 マリダリフの魂から這い出し、サダオミの背中を、うなじを、その肌を、愛おしげに、あるいは飢えたようにまさぐろうと蠢く「不純な欲望」の具現。

 それを見える方の右手で、ずっとわきわきと空を掴んでは、理性の力で拳を握り直している。


 「触れたい」という衝動と、「姑息な手段で触れてはいけない」という清廉な拒絶。

 その二つが、マリダリフの内で肉を焦がすような摩擦音を立てていた。


「おー、おー、触りたい。触りたいけど不純。でもバレなければ……いや、でも……。大変だなう。天使に惚れても碌なことないんだがなぁ……」


 一式は、ヘラを器用に回しながら、その「詰み」かかった片想いの実況解説を続ける。

 マリダリフが葛藤すればするほど、彼の周囲の因果がサダオミに引き寄せられ、天界のログがじりじりと熱を帯びていく。


「……純粋であればあるほど、罪が深くなる。皮肉なもんだなう」


 マリダリフが再び、拳をきつく握りしめる。

 その刹那、一式の視界を埋め尽くす警告ログが、ついに「保留」の限界を超えて真っ赤に染まった。


 サダオミが笑う。

 マリダリフが震える。


 その幸福な「凪」の裏側で、積み上げられた四つの違反が、ついに一式の堪忍袋を食い破った。


 一式は、他人事のような実況解説を終えると、途端に真顔になる。

 手にしたヘラを静かに置き、エプロンの紐を解く。

 陽気な店主の気配は、霧が晴れるように消え失せた。


「さて、執行の時間だ」


 一式の手が、サダオミの因果ログを「確定」へとスワイプする。


 ここから先は、中村屋のサービス時間は終了だ。

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