妻時間
人々から称賛され、ようやくの思いでうさぎのぬいぐるみを取ってから少し経つ。仕事用のオフィスチェアにあぐらで座り、グルグルと回っていた。時には口元を抑えてトイレに駆け込み、時にはベッドに横たわって安静にしていた。嘔吐することは無かった。自分の三半規管が発達している事を自分ながらに褒めた。360度飽きるほど同じ部屋を何周も回った。時には逆回りもした。テーマパークで1日中コーヒーカップに乗っていても耐えられるんじゃないかとさえ思った。
「自業自得なのはわかっているが、ここまですることが無いとは思わなかったなあ」
机を正面に止まると、すぼめた唇の上に乗っていた鉛筆が机の上に落ち、カランコロンと机の上を転がっていく。原案ノートは白紙のまま。消しゴムもここ最近全然減っていなくて、新品を使い始めたばかりなのに、白い粉が健在だ。朝、妻が淹れてくれたドリップコーヒーは既に飲み干し、底の方が茶色く乾いている。少し休憩でもするか、とさっき転がっていった茶色い鉛筆を、仲間のいるペン立てに差した。
「ただいまー。今かえったよー」
「うむ。おかえり」
声が聞こえて私は玄関に向かった。
買い物に行っていた妻は12時を少し過ぎた頃に帰宅した。両手の買い物袋を玄関に置くと、「重かったー」と言って座り込む。玄関の鍵を閉めて靴を脱ぐと、私にスーパーで買ったオムライスを手渡した。少しふんわりとしたオムライスだ。ケチャップがかけられていてすぐにでも食べられるようにできている。
「これいくらだと思う?」
「むむむ……580円か?」
値札が剥がされていて私は何となくで答えた。
「ぶぶー。450円でしたー」
「おお。このサイズで500円より安いのか。それはお得だな」
「お試し価格で少し安かったんだー。そうなんだよー。これでUFOキャッチャーの5回分よりも安いんだよねー凄いでしょ。しかも美味しいしね」
「ま、まだ怒っているのか。すまない」
「ふふふ。冗談だよ。でも、これくらいの楽もさせてって事。いつも作るの大変なんだよー?」
妻は左手を口元に手を当てながら笑っている。
「承知した。普段作ってくれて感謝だ」
「どういたしましてー」
冗談と言っているが、私は本気で反省している。あのUFOキャッチャーというの、初めてやったが私には向いていないのかもな。1つ取るのにお金をあんなに使っていてはダメだ。今後、あのゲームには近づかないようにしよう。しかし、あれを造作も無くプレイし、簡単に取る人もいるのだから凄い。友も私が来るまでに何か取っていたしな。
私は濡れた布巾で、机上の透明のシートを拭く。私が汚してもいいように妻が敷いてくれたのだ。大分前、ミートソースのスパゲッティーを食べた際、フォークでくるくる巻くのが下手な私は巻いても机の上に何回も落としてしまった。木の机だから、少し色が残ってしまい、しばらく匂いもあった。その時、妻は笑っていたが、内心気になっている。
テキパキとスプーンや牛乳を飲む為のグラスを運んだ。
「いただきます」
手を合わせてからオムライスの蓋を開け、食べ始めた。
しかし、どうしたものか……。
喫茶店に行くのを禁止されてから、早1週間、妻の様子の変化は無いにしても、まだ、喫茶店に行くことの許しを得ていない。はぁ……。私は、今後もう、あそこへは行けないんじゃなかろうか。まあ、妻と一緒にいるのは楽しいから満足だ。
スプーンの裏面を使ってケチャップを全体に満遍なく塗っていた。妻はかつ丼を3分の1くらい食べてから牛乳を注いで飲む。私の分も入れてくれた。それに比べて私は、一口食べる事に考え事をしてしまい、全然箸が進まなかった。食欲がないわけではない。もちろん腹は減る。しかし、久しぶりにこんなにしょんぼりした。友に会えないのも辛いが、妻に叱られていて、本当のところどう思っているのかが気になっていた。
「ねえ、この後。トランプしようよ。さっき買ったんだー」
口元に付いたご飯粒を食べながら妻が笑いながら言った。
「おー! やろうやろう! 負けんゾ」
私はこうしてはいられない、とオムライスの左端を一口大に切り、スプーンですくって口に入れた。
テレビの前のローテーブルを囲んで座り、二人でカードを裏面にして並べたが、全部乗らなくて、少しだけカーペットの上に置いた。神経衰弱をするのだ。トランプをするのは久しぶりだった。
試合の始まる静けさの中、どこか遠くから聞こえる蝉の鳴き声が耳に届く。
じゃんけんで負けた結果、先行は私になった。
一枚めくると、ダイヤの7だった。次はどれにするかなー、と顎に手を当てて悩んでいると、妻が「最初はどれ選んでも一緒でしょ」と笑う。しかし私は「いや、違うぞ。もしかしたら偶然でも七の片割れが見つかるかも知れぬ」と言いながら別のカードをめくると、クローバーのキングだった。私はめくった二枚を元に戻す。
「ほらー。じゃあ、私の番ね。あ、キングだ、ラッキー」
さっき私がめくったのと二枚を持って私の顔の前で左右に振った。く、先行の不利な部分だ……。私は二枚の情報を相手に与えてしまった。だがしかし、クローバーの3とハートの9の場所は私が記憶した。
「お、スペードの4だ」
偶然にも戦況は前半で大きく動いている。さっきのクローバーの場所を私は覚えているのだから、これで同点。私がもう1枚をめくろうと手を伸ばしたときだった。
「これ勝ったら、喫茶店行っていいよ」
私の手は途中で止まった。
「なんと、本当か⁉ やったーやったー。やったぞー」
私は飛び上がって喜んだ。
コホンッと正座で座り直して、改めてもう1枚の4を取ろうとした、のだが……あれ、どれだっけかな、と首をかしげる。中央の塊のどれかというのはわかっているのだ。しかし、えーと……うーん。少し斜めっているやつだっけ、と悩んでいると、妻が「ふふふ」と笑いながら私を見ていた。
「制限時間も付けちゃおうかなー」
「ま、待ってくれ、すぐにわかる」
「えー、じゃあ、あと少しだけね」
私は正座をしている太ももの横に手を置き、顔をトランプに近づけた。そして、少し斜めっているカードをめくる。……ハートの12……っだと。く……。
「残念。こっちでしたー」
妻は私が悩んでいたもう1枚のカードをめくって私に見せる。自慢げに2枚のカードを一枚ずつ両手に持っていた。
その後も、妻の方が優勢のまま残り枚数は12枚になった。
ちなみに持っているカード枚数は妻が26で私が16だ。差を縮められないままここまで来てしまった。そして、今、私は妻が残してくれた情報の1を引き当て、18枚になった。さて、後残っている情報は左の隅がハートの6で、右下がクローバーの5か……。上手くいけばこのまま勝ちきれるかもしれないな。少なくとも、この2組を当ててしまえば後は6枚……。
私はとにかく、1枚をめくった。すると、クローバーの6を引き当てた。私はもう1枚の6を取って、しばし考える姿勢になった。
そして、勝負の時。
1枚めくった。
私は、運がいい。また、必要としていたスペードの5を手に入れた。
その時だった。
「私、寂しかったんだよねー。最近さ、すぐ出かけていっちゃって、家には食事をしに帰るだけみたいになっててさー」
妻は三角座りになって、視線はローテーブルに落とされていた。
私は少し焦って、両手を動かし、身振り手振りで訂正をした。
「そ、そんなつもりではない……が、そう捉えられてしまってもおかしくはなかったな。すまない」
「ちょっと嫉妬しちゃってたりして」
「なんと」
「だって最近いっつもその、友って言ってる人の話ばかりなんだもん」
確かに、夕食時には、昼間友に会ったときの出来事をしてしまっていた。楽しそうに聞いていたから、気づかなかったなあ。
「ま、今日遊べたからいいけどね」
妻は歯を見せてにこりと笑った。
「そうか。それはよかった」
「続けよっか」
「うむ」
私はトランプに向きなおる。
もう1枚の5の場所は把握している……。しかし、今ここで取ってしまってもいいのか。今思えば6000円も使っていて、1週間の我慢で割に合うのか。コーヒー換算しても1杯500円で1日1杯飲んだとしても約2週間は空けるのが筋なのではないか。それだけの事を自分はしたのだ。
私は、クローバーの5の隣のカードに人差し指で触れた。
これでいい。
これを選ぶのだ。
もう一週間くらい我慢しろ自分。
「そっちじゃない気がするなー。うーん。何となくだけど」
妻はそっぽを向いて、棒読みで言った。
「もういいよ。喫茶店行くのも、漫画を書くためなんでしょ? 怒ってないし、また行ってきなよ」
「い、いいのか」
「あなたにしては、十分我慢したと思うからね」
妻は真顔で正面を向く。
私の瞼には涙が溜まっている。最近はよく涙が出る。
テーブルに顔を向けると、涙がこぼれた。
私はクローバーの5を取って、空へと掲げた。
感傷に浸っていると、妻が言う。
「じゃあ、後の6枚頑張ってね」
「む?」
「最初に言ったじゃーん。私に勝ったらって。それは継続だよ。勝負だもん」
私は雷が落ちたような衝撃を受けた。
残りの6枚の情報は皆無。本当に運だけで乗り越えなければならなかった。
妻はこれを知っていたから、冷静に話が出来ていたのか。
悩んだ末に同時2枚を引いた。
結局、勝ったのは妻だった。最後の2枚は別のカードで、次の番になった妻が全部かっさらっていった。
淡い期待だった。
私は数え終わったカードを机の上に置いて、正座のまま天井を仰いだ。
妻が自分のカードと私の分のカードをまとめて箱に入れた。
「ふふふ。冗談。行ってきていいよ」
「本当か⁉ 今からか?」
「それはダメ。明日から。別の二人で出来るボードゲームも買って来たから今日はそれやろうよ」
「おお! まだ楽しいが続くのか!」
妻はビニール袋から二つの箱を取り出した。
その後も二人で遊び尽くし、空腹になった私たちは二人で外に行き、夕食はそばを食べた。
妻は寛容だ。
いつも私のミスを笑って許してくれる。
私の失敗を、馬鹿にしないで次に改善できるように考えてくれる。
料理も美味い。
そして、何より頼りになる。
それに、辛いときに一緒にいてくれた。それと……。
信号機が点滅する。
私たちは急いで渡った。
「月綺麗だね」
妻が言って、私も見上げた。
「そうだな。とても綺麗だ」
私はさっきよりほんの少し、妻の手を強く握った。
こんな妻がいてくれて本当に幸せ者だ。
手を繋いで帰る道すがら、薄暗くなった空に浮かぶ月に私は言う。
いつか、本人に言えるように頑張ろう。




