第10話「数字が動かない夜」
夜は、物語より無言だ。
鏡に浮いた赤い目盛りは**46.8%で止まり、呼吸をしていない。
礼を尽くしても、順番を整えても、札を束ねても——びくともしない。
〈針路〉は時々、遅延する。“私の行いが届かない場所”**で、何かが動いているときに。
「——ミロ。届かない場所を探すわ」
「鍵と鐘です」
「鍵と鐘?」
「合意書の二本の鍵。それと、王城の**“休務の拍”を量る鐘**。どちらも**“触れてはいけないものに触れる習慣”**を生みやすい」
届かない場所には、足音が残る。
まず、宰相補佐ラウロの控え室。合意書の鍵は二本。侍従長とラウロがそれぞれ保管。
金庫の螺子に黒ずみ。油の種類が違う。
「ミロ。誰かが油を持ってきたわ」
「王城の油は亜麻。これは獣脂混合。外の指が触れている」
私は金庫に新しい**“封の針”を仕込む。封蝋ではない。白糸二本・黒糸一本の三本撚りで、針穴を二つだけ。糸の順番は「白→黒→白」。見た者にしか戻せない封。
「封は紙より糸**が強い。熱で溶けず、穴で記憶するから」
次に、鐘守の詰所。休務の拍を量る鐘。
砂時計の縁に粉。石英粉ではない、砥石の粉だ。
「鐘の舌が削られている?」
鐘は音で政治を守る。舌がわずかに削れれば、拍が狂う。
私は舌の付け根の革座に、細い切り目を入れた。“今日の拍”が終わるまでに切り目が裂けたら、過度の打ち付けがあった証拠になる。“叩き過ぎ”は権力の近道だ。
——だが、肩の数字は動かない。**46.8%**のまま、鏡の中で眠っている。
私は音のほうへ寄る。
王城の廊下は夜、拍で歩くと静かだ。四拍吸って、二拍黙り、三拍で進む。
角を曲がる。金具が触れる音。夜警が鍵束を一度余計に鳴らした。
「ミロ。経路だわ」
「経路?」
「夜警の回り順。——“鍵の前を通る回数”が多い。通れば、触る人が増える」
私は経路図を広げ、廊下の“抜け道”を一本作る。鍵保管室の前を通らない導線。
「見える場所から鍵を守るより、見えない経路で鍵を守る」
夜警隊長に**“経路の儀式”を手渡す。“水曜奇数週は西→東、偶数週は東→西。鍵室は最後に周回記録のみ”——触らない、見るだけ。
隊長は黙って頷き、鍵束の位置を腰から背中**へ移す。触れにくい位置。
——それでも、目盛りは動かない。
「数字が遅れてるのね」
「ええ。届かない場所は、届いたあとにしか数字が動かない」
私は机に向かい、“触れた形跡の一覧”を作る。
・油の匂い(獣脂)
・砥粉(鐘舌)
・鍵束の鈴の余計な一回
・夜警の経路(鍵室を横切る回数)
私はその横に、儀式を書き並べる。
・“糸封”(白→黒→白)
・“舌の革座”(過打ち検知)
・“裏経路”(鍵室を避ける)
・“鈴の拍”(鳴らす回数を拍で規定)
深夜、裏口に風。
洗濯場の木箱がわずかにずれ、赤い口に紙が一枚。
『“停止”の鍵を盗め、鐘を狂わせろ。
明日、断罪を返す。』
筆致は若い。怒りは速い字に宿る。命令の文体はだいたい、敗北の文体だ。
私は紙を取らず、青い口に返事を入れた。
『鍵は糸で守る。鐘は革で守る。あなたは“明日”で守る?』
**“明日”**に返した怒りは、一度寝てから来る。寝かせた怒りは、半分になる。
夜明け前。
侍従長から一羽の鳩。脚に細い糸——黒が真ん中ではなく端。
——糸封が乱れていないという合図。
鐘守から砂時計。砂は落ちきり、革座は裂けていない。
——過打ちはなかった。
夜警隊長から記録札。鍵室最後、鈴は二度。
——拍は守られた。
私は鏡の前に立つ。まだだ。
46.8%。
〈針路〉は、届いた情報が互いに結び合った瞬間に反応する。単体の善は、世界に届いて初めて数字になる。
ミロが湯を差し出す。
「動きませんね」
「動かないほうが、今日は正常よ」
「正常?」
「“何も起きなかった”ことを作る日は、据え置きが勝利。——“断罪の見世物”は起きなかった。鍵も鐘も、触られなかった」
ミロが珍しく満足そうに頷いた。
「“成功は静か”、ですね」
朝日が入る。
ラウロからの二行が届く。
鍵、無事。鐘、無事。
“触れぬこと”を制度にしよう。
**“触れぬこと”**は美徳ではない。設計だ。届かない場所へ、届かない手を作る。
私は帳面の余白に書く。
・封は糸、拍は革、経路は裏。
・“何も起きなかった日”の設計図をためる。
・遅延の数字は朝に来る。
そのとき。
肩が微かに温かくなった。**46.8%のまま、わずかな震え。反映待ちの脈。
私は笑って、鏡に背を向ける。
破滅率は——据え置き。
据え置きは、勝利。
今日は“起きなかった出来事”**のために、茶を二杯、湯呑みに注ぐ。
———
【破滅率:46.8%→46.8%】