第1話「鏡が告げた82%」
朝の光で、私の肩が喋った。
鏡の前、右肩の上に赤い目盛りが浮かぶ。破滅率82%。数字は無口のくせに、妙に饒舌だった。じわりと一目盛り膨らみ、——侍女に言葉を荒げた昨夜の自分を、何よりも先に断罪する。
「イレーナ様、朝食のご用意が——」
扉の向こうの声へ、私は深呼吸を一つ。鏡から目を離さない。数字は待ってくれない。今ここで、最初の矢を放つ。
「……ミナ。入って。あのね、まず謝るわ」
「え?」
「昨日、あなたに当たった。私の不快は、あなたのせいじゃない。無礼だった」
ミナの目が丸くなるのを合図に、肩の数字が**82%→81.2%**へ、すっと沈む。音はないのに、確かな“手応え”が皮膚を通して脳へ届く。
謝罪は−0.8%。数字が教えてくれる。馬鹿みたいに冷静で、ありがたい。
「それと、朝食はいつもより塩を控えて。今日、たぶん“喋る日”になるから」
「かしこまりました」
扉が閉じる。鏡の奥で、別人の私がまばたきをする。前世から持ち越した“台本”——婚約破棄から断頭台までの一本道。噂、舞踏会の笑い、王都の石段。道は整っている。だから逆に、踏み外せるはずだ。
ドレスの色を生成りに変える。赤ではない。勝負の赤は、こちらの血色を強く見せる。今日は“血”はいらない。必要なのは酸素だ。よく回る舌と、よく動く心臓。
執事ミロが朝の報告を読み上げる声は、いつもの乾いた紙の音と同じだ。
「学園では本日、第二礼拝堂にて寄付者慰霊の式典。王太子殿下ご臨席。並び順は昨日の通達通り、ヴァルデン家は四列目中央——」
「三列目端に変えて」
「は?」
私は鏡を離れ、扉へ向かう。
「中央は視線が集まりやすい。列の端は“譲る所作”がしやすい。人に道を開ける仕草は−0.6%」
「……数字が出ているのですね」
「ええ。今朝から肩で生きてる」
ミロは眉をひとつ上げただけで、端的に頷いた。
「手配しましょう。式典直前の並び替えは角が立ちますので、“献花台の導線確保”の理由をでっち……申し上げます」
「その“申し上げます”は、でっち上げよね? ありがとう。でっち上げの質は、いつもあなたが一番いい」
ほんの少し笑った時、肩の数字が**81.2%→81.1%**と、さらに微かに沈む。人を褒めるのは−0.1%。安い減り方に見えるけれど、利息は複利で効くものだ。
式典までの空白に、私は手紙を二通書いた。
一通目は侍女頭グレタへ。「昨日の私の振る舞いは、家の礼に適さぬものでした。今後、私が侍女に高声を発した際は、あなたの判断でその場から引かせてください」
統制を“他者の手”へ預ける。私のプライドは削れる。が、肩の数字は81.1%→80.3%と目に見えて沈む。“仕組みの導入”は−0.8%。人間より仕組みのほうが、感情に強い。
二通目はライバル令嬢セラフィナへ。彼女の祖母が先週亡くなった。社交界の話題は、悲劇を撫でるふりをして、爪を立てる。
私は短く、手紙に書く。「後ほど、式の前に控え室で一言だけ——聞き役に回らせてください」。
書状を封しながら、肩の数字がまた80.3%→79.7%。慰問の順序は−0.6%。人前ではなく、裏で行うのが重要だ。公衆の前の慰問は、慰めではなく見せ物になってしまう。
馬車が石畳を鳴らして学園へ向かう間、私は前世でやり込んだこの世界の“攻略情報”をなぞる。——式典の壇上、王太子カミルは“薄い微笑”を崩さない。私が遅れて入場し、列を乱し、献花の順を破る。そこに“遺族への無礼”の噂が走り、婚約破棄イベントの火が点く。
道順はもう知っている。知っているからこそ、道の方を曲げる。
礼拝堂前は香と花の匂いに満ち、貴族たちの細い囁きが絡み合っていた。
私は人の流れの“縫い目”を見た。階段の幅、柱の位置、視界の切れ目。中央は視られるための舞台で、端は譲るための舞台だ。
「ヴァルデン家、三列目端に——」
ミロの手際の良さは、いつも数字以上に頼りになる。私は礼儀作法の先生に仕込まれた角度で首を傾け、端の一人分の空白を、先に作っておく。
肩の数字が79.7%→79.1%。導線の余白は−0.6%。
そして、セラフィナが到着する気配を感じ取る。彼女の喪服は織りの細かい黒。裾に埃はない。泣き腫らした目に粉は乗っていない。覚悟の目だ。
「セラフィナ」
私は人目の薄い控え室の扉を軽く叩き、先に中へ移る。彼女の従者が一瞬、眉をひそめて立ちはだかるが、セラフィナ自身が小さく頷いた。
「一言だけ」
「手短に」
私は彼女の手の甲の温度を、冷たい水のような空気越しに測った。言葉は短く、事実だけ。
「お祖母様の件、心から悔やむ。式の最中、私があなたの近くにいたら、場の視線があなたより私に寄る。私は今日、あなたから一歩退く。あなたが中心であるべき日だから」
「……あなたが、そんな——」
「あなたの祖母は生前、私の母の刺繍を褒めてくれた。その礼も兼ねる」
セラフィナの視線が、ひとつだけ柔らかくなる。肩の数字は79.1%→77.8%。控え室での挨拶は−1.3%。
私は深く頭を下げる。長く、静かに。
礼拝堂に出ると、王太子カミルと視線が交差した。彼の目はいつも通り冷ややかだが、氷は割れ目から溶ける。
献花の列、私は端に立ち、自分の順を一つ譲る。後方の年配の伯爵夫人を先に通す。“若さが譲った”という形は、噂を和らげる。肩の数字が77.8%→77.2%。
——だが、その瞬間、背後から硬い声が落ちた。
「規定の順を乱すなど——無礼だ、ヴァルデン」
声の主は学園の規律至上主義者、コルヴィナ教官。こういう人がいるから、世界は“予定調和”へ戻りたがる。
私は振り向かない。振り向けば、視線が交差して、火種になる。代わりに、右手を胸の高さで止める。礼儀作法の“留め手”。
「申し訳ありません、教官。導線確保と、年長者への配慮です。事前に献花台の脇を一人分、空けてあります。混乱は生じません」
コルヴィナの舌が一拍止まり、視線が床の標になった白線へ落ちる。私は事実をもう一つ。
「また、王太子殿下の御前です。列の乱れは避けました。列を一つ、譲りました」
王太子の微笑は動かない。けれど、彼の頬の筋肉が一瞬だけ緩むのを、私は見た。肩の数字が77.2%→76.3%。**“誰の面子を立てたか”**で、数字の減り方は少し増える。
式は滞りなく進み、私は最後まで端に徹した。余白は、誰かの逃げ道だ。王太子の視線が、僅かに私の肩を越え、セラフィナの横顔へ流れる。中心を譲る。その日の主役は、私ではない。
終礼の鐘が鳴り、人々が散り始める。ミロが肩の後ろから低く囁く。
「教官コルヴィナへの事後の弁明を提案します。短く、具体的に。数字がさらに下がる」
「ええ。『次回からは先にお伺いを立てます』で、責任の所在を“未来”に移す」
私はコルヴィナを探す。彼女は廊下の角で書類を束ねていた。私は三歩手前で立ち止まり、軽く会釈して、一文だけ渡す。
「先ほどは不躾をお詫びします。次回は必ず、事前にご指示を仰ぎます」
「……次回は、必ずだ」
「はい」
肩の数字が76.3%→75.7%。**“約束”**は−0.6%。守られた約束だけが信用を作るけれど、**約束を“結ぶ”**ことそのものにも価値はある。
そこへ、背広の隊列。宰相補佐ラウロが現れ、こちらを一瞥した。
彼は王都政務の“黒子”だ。面子の折り目を見抜く目を持つ、と噂に聞く。
「ヴァルデン嬢。君は列を譲った。褒めはしない。——だが、罪にはしない」
「充分です」
「君の父君に伝えよう。**“今日の君は、王都の呼吸を乱さなかった”**と」
肩の数字が75.7%→74.5%。政治筋の評価は効きが早い。数字は、空気よりも実務に弱い。弱いからこそ、実務を連れてくる。
その後。学園庭園に移り、私は最後の仕上げにかかる。
セラフィナの従者に短い包みを託す。中身は母が遺した白いハンカチ——刺繍は細く、柄は目立たない。
贈り物の要諦は“自己主張をしない”こと。喪に派手は不要だ。
肩の数字が74.5%→73.6%。贈答は−0.9%。
遠巻きに見ていた王太子の視線が、また一瞬だけ揺れた。彼は何も言わない。言わないことは、政治だ。私は何も求めない。求めないことは、礼儀だ。
馬車に戻ると、ミロが帳面を開いて、今日の“差し引き”を読み上げる。
「謝罪:−0.8%。並び順変更:−0.6%。控え室挨拶:−1.3%。導線余白:−0.6%。年長譲り:−0.6%。面子維持:−0.9%。事後弁明:−0.6%。贈答:−0.9%。合計:−7.3%」
「それだけ?」
「いえ。“中心を譲った”が、重ね掛けで効いています。計測遅延分が今、反映を——」
肩が熱を帯び、**73.6%→72.0%**まで一息に沈んだ。呼吸が深くなる。
ミロが珍しく口角を上げた。
「——見事です。一日で−10%は乱発すべきではありませんが、初手の“方向づけ”として申し分ない」
「ねえ、ミロ」
「はい」
「数字は冷たいのに、減ると少しだけ、肩が軽くなるのね」
「人は、見えない重さを信じません。見える軽さなら、信じます」
馬車輪が石畳を数える。窓の外、王都の空はよく晴れていた。
私は袖口を整え、指先の震えを止める。次は“噂の源流”。侍女頭と台所、洗濯場、厩舎の通路。王都は、貴族のサロンではなく、裏口から燃え上がる。
数字はまだ72%。ここから先が、本当の仕事だ。
鏡に浮かぶ赤い目盛りが、光を吸いながら静かに旨を張る。
破滅率は下がる。礼儀と準備は、世界線を曲げる。
私は扉に手をかけ、次の“−0.5%”を探しに出た。
———
【破滅率:82%→72%】